(1)
日本に着いた。
浮き足立つのを堪えながら僕――李 小龍はボディバッグのベルトをぎゅっと握りしめる。空港は人でごった返していた。三連休初日の土曜日なので海外に出る人も多いのかもしれない。すごいなと圧倒されながら僕は案内表示に従ってゲートへ向かった。
これからしばらく居る事になる日本。その間世話になる家の人と待ち合わせをしているのであまりのんびりはしていられない。手続きをして、荷物も――ああ、必要最低限の荷物でいいって言われたからこの鞄だけだった。他の乗客みたいにあの、荷物待ちをしなくていいのはちょっと気楽だ。
今回の来日は一日二日の滞在ではない。約一年だ。【約】という辺りが妙なところだけれど、まあ、今はいいとして。
「小龍、日本が好きかい?」
そんな問いかけに、うん、と頷くと「じゃあ、行ってくるといい」と父・秀征はにこりと微笑んだ。え、いきなり? ときょとんとしていると、父は更に続ける。
「今がいい機会だと思うんだ。向こうの高校に通うといい。母さんも了承済みだし、お前は何も心配せずに身一つで楽しんでおいで」
ぽん、と背中を叩かれて、ぽかんとして置いていかれ気味な思考をフル稼働させる。息抜きだよという風に父は変わらず優しい笑顔だった。
父は日本人だ。中国人である母との結婚してからは母国を離れ、こちらで母と会社を動かしている。僕は昔から日本の話を聞くのが好きで、双子の弟・友龍と一緒に色んな話をせがんでいた。子どもの頃の話から学生時代の話まで、何度聞いてもわくわくさせられた。
父とは日本語・母含め他の人には中国語や英語で喋るという環境だったので、僕も友龍もどの言葉も特に不便が無い。
「え、僕だけ?……ユウは?」
友龍に目配せすると、彼は顔を軽くしかめて「俺はいいんだよ」と言う。はて。
こう言っては何だが、昔からずっと一緒にいた彼とはとても仲が良い。双子だからというだけではなく。そこそこの年になればそれぞれ違う事をし始めるものなのだけれど、僕らは違ったと思う。意識はしていなくても何となく同じ空間にいたのはお互い様である。日本に行っておいでと言われれば友龍もと思ったのはごくごく自然な流れだった。……でも、行かないって?
「向こうで、僕一人で住むって事?」
「まさか」にっこり。「弥坂さん、覚えてるだろう? そこでお世話になりなさい」
「ええ!?」
弥坂さんとは父の学生時代からの親友の事だ。(確か壮一郎さんといったか…)小学生くらいの時に家族で遊びに行って以来になる。壮一郎さんには奥さんと子どもが二人いて、下の子が僕らと同い年の男の子だ。
当時の僕は日本語が下手で、奥さんの小枝子さんや上の子の優さんがよく気にかけてくれた。ものすごく優しくて、年上の頼れるお兄さんって感じなのだ。僕は優さんに憧れてもいる。
今でもメールのやりとりをしているから、彼が実家を出て関西で働いているのも知っている。
「優さんはもう家出てるよね? って事は…」
「浩貴君はいるよ? まだ高校生だからね」
父は何をそんなにしょげているのかと僕を見て不思議そうにしている。いや、あの……言いにくいんですが……
「……浩貴、メールも全然返ってこないし…今どんなかよくわかんないんだよねぇ…」
やりとりがほぼ一方通行。優さんとは違いメールのやりとりも短い。彼の情報は優さんからの物の方が多いぐらいだ。
「楽しみじゃないか?」
「はあ……」
そうかなあと不安が拭えない。うまくやっていけるかどうか……そんな気持ちもありつつ、しかし今回の渡航は楽しみの方が断然大きかった。
とにもかくにも、待たせている相手を探すのが先決だ。時計台広場の辺りでと言われたので、空港の案内図を仰いでいた時だった。とんとん、と肩を叩かれ、は? と振り返る。相手は男の人で、こちらを見下ろす目はどこか不機嫌そうだった。
「………?」
何か、と顔で訊く。しかし相手が黙ったままだ。変だなぁと首を傾げつつまた案内図に向き直る。すると今度は肩を掴まれ強引に引っ張られた。
『っ、何するんだよ?!』
思わず中国語で返してしまった。ああしまったここは日本でした。日本語じゃないとまずい。
相手はさっきと変わらず軽く眉をしかめているし、こっちはこっちで失礼な真似をされてむっとした。肩に置かれていた手を払って睨み上げる。
「何かご用ですか」
「あんた、李 小龍?」
「はあ…そうですけど?」
彼はふうんと嘆息して。何ですかねこの、微妙に嫌そうな顔は。
「……迎え、」
「はい?」
「迎えに来たんだけど」
「はあ?……あなた、弥坂さん?」
「そう」
……もうちょっと喋ってくれないのかな、この人。
「えと……女の人が来るって話だったんですけど…」
「昨日まではな。母さん、家にいなきゃならなくなって。代わりに俺が来た」
「ああ、そうなんですか…」
待ち合わせ場所にいてくれないで、行き違いになったらどうする気だったのか。でもこうして探していた相手が見つかったのだからいいのかな。
「――んん?」
今、母さんって言いましたよねこの人。優さんではない彼は、つまり?
「浩貴?!」
驚いて思わず訊いてしまった。確か前は身長だって僕の方が高かった。態度ももう少しこう……親しみがあったというか何というか、柔らかかったと思うんだけども。
「…………やっとかよ」
呆れた風な声と目に、かちんときたのは仕方ないと思う。そりゃあ何年もちゃんと顔見てないし、こんなに身長抜かれてるなんて思ってなかった。時間の経過というのはなかなか残酷らしい。
遣り取りも疎遠になっていた間に距離ができていて、とっつきにくい印象は実際会ったからといって瞬時に解れるわけがない。というか、怖いよ。ずっと睨んでないかなこいつ。
「荷物は送ってあるっつってたよな。なら行くか」
「はあ、……お願いします」
敬語の必要はないけれど、相手もこちらにそっけないのでまあいいかと。さっさと歩き出した彼の少し後をついて行く。
電車だかバスかで帰るのかなと思ったら、行き着いた先は空港の外にある駐車場だった。その一角で、僕はぽかんとさせられている。
「……あのー」
「何」
「これで……?」
目の前にあるのは中型のバイクだ。(高校生で免許取ったのか浩貴。)自分で買ったのか買ってもらったんだかはさておき――今からこの、後ろに乗れと?
「乗った事ないのか?」
「無いよ。悪い?」
「……別に悪いとか言ってねぇだろ」
お前、何喧嘩腰なの。
そういう風に浩貴は怪訝に顔をしかめる。いやだから、喧嘩売るような態度なのは君だろうに。
「まあ、いいからメット被れ。ほら」
「……わかった」
フルフェイスのヘルメットを被って待つことしばし。浩貴はバイクに跨ってから「乗って」と後ろを示す。あわわ、と若干おののきながら肩を借りてシートに乗った。やはり自転車の二人乗りとは違う。
低いエンジン音。車とも違う、この、生身です感は何とも緊張が増す。浩貴は乗り慣れているのかとか訊くべきだったかもしれないが今更だ。
「ちゃんと捕まっとけよ」
それだけ言って浩貴はバイクを走らせた。
***
結果だけ言えば、怖かった。楽しいとかいう気分にはなれない。景色を見ている余裕はあるようでなくて、ただ、風を切る感覚はよかったと思う。
地に足が着いて心底ほっとした。メットを外して、ふはっ、と一息。
「……ダメだ、これは、無い……」
「は? 安全運転だったろうが」
「そこじゃないっ! 何で言っといてくれないかなバイクだって」
「言ってどうにかなるのか?」
「……なりませんね」
でも心づもりとかできたと思う、とぼやくけれど浩貴は半眼で見ているだけだ。
「電車とか面倒だろ。乗り継ぎとか。こっちのが断然速いしいいだろ別に」
運転している側はどうかは知らないが、乗っている側としてはひやひやするばかりなのだ。
初めて乗せてもらったわけだし――これが優さんなら多分もっと安心して乗っていたと思う。浩貴は僕より小さかっただとかいうイメージが強すぎて、こうしてバイクなんか乗っちゃう彼は想定外だった。故の、現在の心境。(別に運転が荒いとかいうわけではなかったけれど。)
ガレージでうだうだしている場合ではなかった。はっとして「おばさん、待ってるよね」と顔を上げる。
「……」
「……あの、何か?」
「それ、返せ」
「は?――ああ、はい。……ごめん」
それ、というのはヘルメットの事だと気が付いて慌てて返す。無言で、目だけで訴えられてもわかるかっ!
一通り片付けて、遅いとうるせぇんだよなとぼやきつつ先に玄関へ向かう浩貴はやっぱり僕が覚えている彼とは違う人みたいだった。……不安だ。これからうまくやっていけるのか欠片も自信がない。
浩貴はこちらの事はお構いなしというか……喋る気があまりない様子なので、なるようにしかならないかなと小さく溜め息をこぼした。
*