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小説・鬼灯館 【憧憬の杜編】  作者: 矢田 圭二
プロローグ・ストーリー
9/12

第九章 夫の立場と父の本音

あらすじ


鎌倉市内の高校に通う霞上かがみ時雨しぐれは、祖母宅の遺品整理をしていた際、亡くなった祖母が大切にしていたスケッチブックを母の秋子から渡される。


スケッチブックの入っていた箱の中には何故か得体の知れない一本の鍵が残されていた。

果たして何の鍵なのか?

手掛かりを得ようと動く時雨を待っていたのは更に深まる謎だった。


そんな中、祖母との最後に旅行先となった木想庵もくそうあんを訪れた時雨は、そこが祖母の所有していた旅館だと知らされぬまま、敷地内にある六角館ろっかくかんという名の洋館とスケッチブックの関係を疑っていた。


秋子の夫として木想庵と娘との本当の繋がりを知る誠吾は、何も知らぬまま行動する時雨に何と協力したいと考えていた……。

 霞上一家の旅行二日目は午前中から三人揃って修善寺町の名所巡りをする予定だった。

 やや慌しい朝の始まりになってはしまったものの、一年前に小冬と修善寺を旅行したばかりの時雨にガイド役を任せ、予定より少し遅く宿を出た三人は快晴に恵まれて大勢の観光客で賑わう修禅寺や竹林の小道などを訪れて回った。

 日頃から外を出歩く機会があまり無い誠吾は、ただでさえ坂道の多い修善寺町の道に辟易しつつも趣きのある純日本的な建物や景観を時間をかけて丁寧に眺めつつ、時には土産店で盛り上がる妻と娘をかしながら名所巡りを楽しんでいた。


 ――それだったら今度のゴールデンウィークにその木想庵もくそうあんとやらに行ってみないか?

 小冬の四十九日法要を間近に控えた四月の中旬頃、ゴールデンウィークを伊豆の修善寺で過ごそうと最初に提案してきたのは誠吾の方だった。

 ――でも時雨は母と去年きょねん一緒に行ったばかりなのよ?

 秋子は夫からの提案に気乗りのしない表情を浮かべてみせた。

 昨年さくねんれ、義母の小冬が修善寺に小さな旅館を所有していたという話を妻から初めて聞かされた時、誠吾はその事についてさほど驚きはしなかった。

 そもそも亡くなった秋子の父が資産家だった事は結婚する前から分かっていたし、義父の死後にその財産を相続したであろう義母も、夫が趣味で描き遺した油彩画を展示する為だけに自ら私費を投じて私設美術館の運営を始めてしまうほど、金銭的には十分に余裕のある暮らしぶりなのを知っていた。

 そもそも誠吾自身は妻の実家の経済事情について秋子からも詳しく聞かされた事は無かったし、自らの余命を悟った義母が秋子に告白した内容についても、もとから何も知らされていない誠吾の立場からしてみれば、初めて全貌ぜんぼうを聞かされた程度の驚きしかなかったのである。

 もちろん実の娘である秋子にとってみれば相当の驚きであった事は誠吾も十分に理解している。

 聞けば木想庵は緑想館よりも古くから小冬がオーナーを務めていたらしく、何かしらの理由があるにせよ娘の秋子に対して宿の存在を意図的に隠してきた事だけは間違いがなかった。

 その点について秋子が理由を尋ねても小冬は語ろうとはせず、オーナーとして関わってゆくも土地や建物を売却して無関係になってしまうも財産としての処分は秋子の判断に任せるとだけ言い残したきり、三ヶ月後に他界してしまったのである。

 画廊として絵画の販売を行う事も多い緑想館は、日頃から小冬がオーナーとして建物に常勤していたからこそ秋子自身もオーナーとしての自分の立ち位置を想像しやすかったが、一方の木想庵に関しては宿の雰囲気どころか建物すら見た事がない。

 一人娘の時雨が生まれて以降すっかりと専業主婦に馴染んでしまっていた秋子にとって緑想館のオーナー業だけでも十分に厄介な話だというのに、不意にいて出た見知らぬ土地の見知らぬ旅館のオーナー話……、別に借金を背負わされるわけではないが、こと木想庵に関しては色々とデリケートな判断が求められる内容であるのは確かだった。

 その木想庵に関しては、小冬が亡くなってほどなくして秋子の元に伊納と名乗る老齢の男性が訪ねてきていた。

 富山にある建設会社の役員として自らを紹介してきた老齢の男性は、聞けば木想庵について小冬と同様に非常勤の取締役としてその経営に深く関わってきたのだという。

 小冬から何一つ詳しい事は聞かされぬまま、実は秋子はその男性の名と旅館の実務を取り仕切る女将の女性を信用するようにとだけ言われていた。 

 ――一度近いうちに宿の方に足を運ばれては?

 伊納という男性からそう提案されたのを妻の口から聞き、誠吾はちょうど目前に迫っていたゴールデンウィークを利用して木想庵への訪問を秋子に薦めたのである。


 正午を少し回った頃、〈虹の郷〉という観光名所を目指していた三人は途中の道沿いに大きな蕎麦屋を見つけて休憩を取る事にした。お昼時まっさかりの店の入り口は空席を待つ客であふれかえり、三人がのれんをくぐるだけでも二十分近くはかかりそうな気配だった。

「かなり待ちそうだし、ちょっと先にお手洗い済ませてくるわ」

 テーブルに着くまでに時間がかかるとふんだ秋子は、そう言って二人を残し、人混みをかきわけながら店の中へと入っていく。

 入り口の混み具合から見ても秋子は暫くは戻ってきそうになかった。

 隣に並ぶ娘を見ると、時雨は隣で携帯電話の画面を眺めている。

「なあ時雨?」「ねえパパ?」

 二人がほぼ同時に声を掛け合った。

「ん?」「え?」

 驚いた表情を浮かべて互いに顔を見合わせる。

 誠吾が時雨に向かって手を差し出すようにして先を促した。

「あのねパパ、実は私……もう一回だけあの洋館を見に行きたいと思ってるの」

 時雨はそう言うと、誠吾の目をじっと見つめた。

「これ言ったら、ママやっぱり怒るかな?」

 少しバツが悪そうに視線を横へと逸らす。

 その様子を見て誠吾は思わず苦笑いを浮かべた。

「うーん、どうだろう……。今朝けさママが時雨と約束したのは知らない土地で勝手にひとりでは出歩かないって事だからね」

「事前にちゃんと言えば許してくれるかな?」

 時雨は不安そうな眼差しを父親に向けた。

「それにあそこって本当は立入禁止みたいだし……」

六角館ろっかくかんとか言ったっけ? うーん……どうなんだろうねぇ。昨日といい今朝といい宿の人達の様子を見る限りでは時雨が足を踏み入れた事に気を悪くしてるような雰囲気は感じられないけどなぁ」

「うん、今朝も宿のおじさんが心配して様子を見に来てくれたけど注意はされなかったよ。女将さんに謝りに行った時もそんな感じだった……」

 時雨は少しだけ怪訝そうな表情を浮かべてそう言った。

 宿と自分達との関係が他の一般客と違う事を時雨だけが知らない。

 その事を知る誠吾の立場からしてみれば、時雨が六角館をもう一度見る為には秋子の許可さえあれば、宿の人達があれこれ言ってくる事が無い事も十分に分かっていた。

「どうして時雨はその場所にそんなにこだわるんだい?」

 誠吾には秋子のいないタイミングで時雨に確認しておきたい事が幾つかあった。

「スケッチブックをわざわざこんな所にまで持ってきたのだって理由があるんだろ?」

 そう尋ねる父親の目を時雨がほんのしばらくじっと見つめる。

「……というよりも時雨が一番気になっているのはあの鍵なんだろ?」

 誠吾が質問を重ねると、ようやく時雨がコクリと頷いた。

「……鍵の事言うとママが嫌がるから内緒だけど」

 そう呟く時雨の不安そうな表情を見て、誠吾は優しげに笑みを浮かべてみせた。

「パパが想像するに時雨はこう考えたんじゃないか? 小冬のお婆ちゃんが最後の旅行に修善寺を選んだのは偶々《たまたま》じゃなく何か目的があったんじゃないかって……」

 小冬が宿のオーナーだった事を知る誠吾にとっては当然の真実である。

 しかし、その事実を知らない時雨が小冬と宿とを関連付けて考えるには何かしら時雨なりの理屈があるはずだった。

 時雨がおもむろに自分のバッグの中へと手を差し入れる。

 中から取り出したのは例の真鍮製の鍵だった。

「なんだ、それまでこっちに持ってきてたのか」

 驚く父親に向かって時雨は真剣な眼差しで話し始めた。

「パパの言う通りよ、この鍵の事はパパもママもいつか何か分かる日が来るかもしれないって言ってたけど、一昨日おととい檜山ひやま叔父おじさに行って他にも色々と気になる事が増えちゃったでしょ、あの場所がスケッチブックの絵に似てる気がしたのは前に来た時にちょっと思ってたから何かヒントでもあればと思ってとにかく実物と見比べてみようと思ったの」

「つまりスケッチブックと鍵は何かしら関係があると考えてるんだね? 時雨は」

「そこら辺はあんま難しく考えてないかも……、でもお婆ちゃんが最後の旅行先に選んだ場所でスケッチブックの絵と重なる風景を見つけたのって何となく気になるし、私が見た建物って今は使われていないんだって。それで実はね……」

 時雨は耳打ちでもするように小声で言葉を続けた。

「これってママには絶対に内緒なんだけど、実はその建物の入口の扉にこの鍵が使えないかって試してみたの」

「えっ? そうなのか?」

 思いがけない時雨の告白に誠吾は目を丸くして驚いた。

 それから呆れたように溜息をついてみせた。

「それはさすがにやりすぎかもしれないな、時雨」

「うん、それは分かってる。でも鍵が扉に合うか合わないか確認してみたかっただけで、もし合ったとしても建物の中に入るつもりは初めから全然ぜんぜん無かったの」

「だとしてもダメだ」

 誠吾はわざと眉間に皺を寄せた表情を浮かべ、娘に言い聞かせるように低い声で言った。

「ごめんなさい……」

 母親の秋子とは違い、娘に対して声を荒げて叱る事は無い。

 だからこそ誠吾の口調がいつもとは違う事に気付いた時、時雨はすぐに反省の言葉を口にするようにしていた。

「どんな理由があるにせよ他人ひと様の家を勝手に覗き込むのは間違いだよ。そういう軽はずみな行動をしてしまうんだったら鍵の事を調べようとする時雨にママがあれこれ言うのも仕方がないと思う」

「うん……」

 時雨はションボリとうなれた。

「まあ時雨の話を聞く限り普通の家とは違うようだし、これが住宅街の中に建っている家だったら時雨もそこまでの無茶むちゃはしなかっただろう?」

「うん、それはもちろん」

 時雨は父親に向かって力強く何度も頷いてみせた。

「そこまでしたのにもう一度その建物の場所に行きたいのかい?」

 鍵を試した結果がどうだったか。あえてその事を娘には聞かぬまま、誠吾は娘への質問を重ねる。

「うーん、さっきまではそう思っていたんだけど、今はもう行きたいとは言えないかも……」

「つまりは鍵はその建物の扉の鍵だったから今度は中に入りたいってって考えていたんだろう?」

 誠吾がそう言うと時雨は慌ててブンブンと首を横に振った。

「全然! 鍵は全然ぜんぜん扉のなんかじゃなかったよ、それはホント。ただ……」

「ただ?」

「……あの建物の中に入りたいって考えてたのはホント」

 そうボソリと呟くと、時雨は再びバツが悪そうに誠吾から視線を逸らした。

 実際は誠吾も時雨と同じ可能性を考えていた。

 小冬が木想庵のオーナーだった事を知る立場であれば、時雨が話した洋館のどこかに受け取った鍵に合う鍵穴があるかもしれないと考えるのは不自然ではない。

 単純な鍵の形状を考えるに、さすがに誠吾も入口の鍵だとは想像しなかったが、持参した鍵が合うかどうかを時雨が試したと知った瞬間、もう一度行きたいと言ったのは入口の鍵だった事を時雨自らが確認したからなのだと勘違いしたのである。

「もしかして入口の鍵は最初から掛かってなかったのかい?」

 誠吾が尋ねると時雨は再び首を横に振った。

「鍵は掛かってたよ」

「それならもう一度行ったとしても建物の中になんて入れないだろ? 鍵は入口のじゃなかったんだし……」

「うん、だから宿の女将さんに頼んでみようかなって」

「…………」

 娘の思惑おもわくが想定外に安易あんいだった事を知り、誠吾は思わず言葉を失った。

「ホントはね、さっき謝りに行った時に思わずそれっぽい事を口にしちゃったら女将さんから『入りたい?』って聞かれたの」

 時雨の言葉を聞いた誠吾はがっくりと肩を落とす。

「時雨、その建物に行くのは諦めなさい。その事も多分きっとママには言わないほうがいい……とパパは思うぞ」

 呆然とした表情でそう話す父親には気付いていないのか、時雨はただただ残念そうに溜息をついた。


 人知れぬ山中さんちゅうに建てられた洋館。

 その建物は小冬がオーナーを務めていた旅館の敷地内に建てられていた。

 木想庵に到着した晩に娘の口から初めてその洋館の存在を聞かされた誠吾は、普段はそこが一般客の立ち入れる場所ではない事も今朝けさ知った。

 木想庵もくそうあんは小冬が自ら選んで時雨と共に最後に訪れた場所である。

 時雨が小冬から受け取った例の鍵の件が無ければ、恐らくは誠吾自身が建物に強い興味を持つ事はなかったのかもしれない。

 時雨がスケッチブックを持って洋館を訪ねた事を知った時、鍵の事が頭の片隅にあった事で秘密めいた洋館と鍵とが誠吾の中で当たり前のように繋がった。

 それはつまり、鍵を必要とする何かが小冬によって建物の中に用意されているかもしれないという可能性である。

 果たして時雨に鍵を渡した小冬の意図が何なのか。

 それを知る手がかりが全く無い中にあって、駄目元だめもとでも小冬と洋館との関わりを探ってみる価値は十分にあると感じていた。

 男というのは大概はロマンチストである。

 それはしかし、女から見ればご都合主義的なロマンチシズムにしか映らない事も大概だったりする。

 妻の秋子にしてみれば小冬が間違えて鍵をスケッチブックの箱に入れた程度にしか捉えていないようだったし、やれ美術館の運営だ、やれ旅館のオーナーだと現実感タップリの深刻な悩み事を山ほど抱えている状況下では、あえて面白おもしろ可笑おかしく鍵の話題を取り上げるのにも気がひけた。

 だとしても義理の息子とはいえ穏やかな小冬の人柄を知る誠吾だからこそ、時雨が受け取った鍵には小冬の祖母としての愛情が何かしら込められているような気がしてならなかった。

 いずれは木想庵の事実を秋子が時雨に話す時機がくるだろう。

 それはもしかしたら小冬したのと同様に秋子自身が年老いた時かもしれない。

 仮に鍵の答えが洋館にあるのだとすれば、そして秋子が時雨に木想庵の事を伝えるのがまだずっと先の未来なのだとすれば、その可能性を予見できた小冬にとって、鍵の答えを孫娘が知るのはずっとずっと後になっても良いと考えていたのかもしれない……。そう誠吾は感じていた。

 しかし、それはまた逆も考えられる。

 小冬が亡くなったあと、すぐに秋子が木想庵の事実を時雨に伝えていれば、洋館と鍵との関係を時雨が疑う可能性は今朝の出来事を見るだけでも十分にあるだろうと感じた。

 孫娘に残した鍵ひとつを大仰おおぎょうに捉えているわけでは決してなく、木想庵と娘との繋がりを知る立場として明らかに怪しい建物の存在を知ってしまった以上、いやでも気になってしまうのは仕方のない事だった。

 秋子の立場にしてみれば自分自身まだ何も分かっていない状態で娘に木想庵の事を話すのを時機尚早と考えるのは至極しごく当然とうぜんの考えであり、仮に洋館の中に鍵の答えがあったとして、時雨がその答えを手にすれば否が応でも木想庵に関する事を娘に話す必要性が生じる事になる。

 夫として父親としてどちらもサポートしてやりたいところではあったが、現時点では秋子の立場を尊重せざるをえず、時雨に関しては情熱に駆られた本人の行動力に期待するほかなかった。

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