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EP1 ふたり

二人の一日はこうして始まった。

 その日は一日降りで、つまり七月一日の朝は雨だった。

 湿った空気。陽光が差さない部屋。熱。

 あまり心地が良いとは言えない目覚めである。

 寝汗と雨の湿気でべた付くタオルケットを剥いで、今すぐベッドから飛び起きたいと言う気持ちもあるのだが、しかし僕にはそれをしてはいけない理由があった。

 いいや。してはいけない、なんて大仰な物ではないはずだけど、言うなれば気持ちの問題。朝の儀礼である。

 程なくして、いつもの様に階段を駆け上がる足音がドア越しに響いた。

 小気味いい四つ打ち。僕の目覚めのビージィーエムである。

 やがては僕の部屋の前で止み、代わりにドアが鳴った。

『入るからね』

 言うが早いか、ドアが開き僕の部屋へと彼女が入ってきた。

 彼女は僕のぱっちり開いた眼を見るや、

「なんども言うようだけど、起きてるなら自分から降りてきてよね……」

 と言って肩を落とした。

 僕の妹、園田凜華そのだ りんかはセーラー服の上に、動物のワッペンが所々に張り付いたエプロンといういつものスタイルだ。

 呆れているのか、辟易しているのか、兄に対してプチ失望しているのか、まあ僕にはさっぱりわからない表情である。

「凜華。そろそろ来る頃かと思ってたよ」

「分かってたのね……だったら自主的に起きてもらえると非常に助かるんだけど。私も特別暇と言うわけでは無いから」

 ベッドで仰向けに寝る兄の横に立つ妹は、くいっ、とエプロンをつまんで見せた。

「堅いこと言うなよ。僕の妹だろ。もっと僕に優しくしてくれよ」

 ちなみに言えば、僕は今高校二年生で、妹は高校一年生。一歳差の兄妹である。

 昔は一緒に風呂に入ったし、一緒の床屋で散髪したし、時によっては同じ服を着た。

 しかし悲しいかな、人は変わって行くものである。今現在は一緒に風呂に入らないかと言えば断られるし(僕は歓迎であるのだが)、彼女は行きつけの美容院を持つようになったしまったため、隣に並んでの散髪も無くなった。スカートなどを穿くようになった彼女の服装に合わせていたら、僕はきっと社会的に良くない事になるに違いない。

 だから兄としては、朝っぱらから執拗に妹に絡んで、どうにかして構ってもらいたいのである。シスコンじゃないよ、僕。

「拗ねた顔してなよい事言わないでよ。素直に気持ち悪い」

 冷たいなー。夏なのに冷たいなー。

「傷ついた」

「気が付いてよ、自分のみっともなさに」

 凜華は小さくて細いため息を吐いて、嫌々な顔で僕の上に覆い被さるタオルケットの端に手を掛けた。

 そしてテーブルクロスよろしく、勢いよく引いた。

「どうでもいいけど、いい加減起きてよね。遅刻す――」

「どうした凜華」

「いや! なんで! 死んでよ! 何で全裸なの!? 死んでよ!!」

 凜華は両目を両手で覆い隠し、後退りして、ほとんどぶつかる様にして本棚に寄り掛かった。

「裸で何が悪い!」

「切れた!?」

 どん引きの妹に、寝転がったまま逆ギレする全裸の兄。罪を問われかねない図である。

「暑かったんだよ。お前に全裸の姿を見たかった訳じゃ、全然まったくこれっぽちも無いんだからねっ!」

「ブリッジしながら言われても説得力が無いわよっ!」

「そこのエロ本取ってくれないか? ちょっとやりたい事があるんだ」

「死ねっ!」

 妹は本棚に収められたエロ本を一冊引き抜き、僕のシンボルに向かって投げつけた。運動神経が良い凜華の事である。当然命中。

「最後に言いたいことがあるんだ……凜華」

 余りの痛みに朦朧とし始めた意識の中、僕は必死に言葉を紡いだ。

「この十数年間、僕はお前のパンツを手洗いしていた」

 妹が切れた。目の奥に鬼を宿して。約一年ぶりにぐらいに。

 ガシッ、ボカッ、僕は失神した。ペ○ース(笑)


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 僕が失神から醒めたのは約五分後、つまりは七時三十五分の事。

 相も変わらず全裸である。

 全裸が趣味です、と言う人間では無いからな、僕は。あくまでも妹とのコミュニケーションの一環で、やむを得ず衣を脱いだに過ぎないんだ。そうなんだ。

 それ故に、僕は服を探した。確か、五時頃の仕込みの時にベッドの下にしまった筈である。

「よっと――ってあれ?」

 無かった。Tシャツとトランクスが。

 どこへ行ったんだろうか。僕は全裸で考えた。

 僕は全裸のまま階下へ降り、凜華に在処を尋ねるという新パターンを思いついたのだが、思いの外股間に入ったストレートが鋭かったらしい。未だに疼痛が残り、僕の犯罪スレスレの童心を抑制していた。

 それに。

 枕元には丁寧に折りたたまれたTシャツとトランクスが置かれていた。

 凜華は出来た妹である。誰にも譲るつもりは無いけれど、僕の妹にしておくには勿体ないほどに。

 自分に裸体を見せつけてきた者にも変わらぬ優しさで向かう事の出来る妹を誇りつつ、僕は衣服を獲得し、全裸から回復した。

 さすがに二桁目の『兄を起こしたら全裸だった』イトベントなので、凜華の対応もこなれている。さすがに呆れて面倒を見てくれないだろうと思ったが、やっぱり凜華は凜華であった。こんなに優しいと僕は際限なく全裸になってしまいそうだ。


 閑話休題。

 いや、まあ家族とのコミュニケーションについての話はとても重要だけど、とりあえず全裸の話題からは逸れて行きたい。

 緩くハンドルを切ると、僕の朝の生活についての話題が妥当だ。

 僕の両親は共働きであり、父は遠い県へ単身赴任、母は都内の会社まで二時間ほどかけて通勤している。

 故に、朝御飯は僕か凜華のどちらかが用意しなければならない。

 そこで朝餉の準備役に僕を抜擢するほど神はとち狂ってはいなかったらしい。自然の摂理にも似た当然さで凜華がその役をあてがわれた。

 と言うわけで、凜華は小学校五年生の時より、朝五時半頃に起床し、六時半には母に朝食を作り、母が出勤してから三十分ほど経った七時半頃に僕を起こしにやってくる。この生活リズムを維持してきた。

 そして成績も良いし、人当たりも良いし、可愛いし。

 本当に酷く良く出来た妹である。兄としては鼻がピノキオ級だ。

 この才媛について語り始めたら、幾つもの夜を明かす事になるのは、もはや仕方がない事であるのだが、あえてか語るとなるとそうだな。ああ、そうあれは僕が三歳で、凜華が二歳の時である。僕が全裸で――

「ニヤニヤと目を瞑って頷いてないで早く食べてよ」

 食卓を挟んだ向かい。洗い物済ましてから出たいの、と凜華は頭を抱えながら付け加えた。

「食べるのが勿体ない」

「じゃあ胃袋にでも保管しておいてよ」

「そうしよう」

 淀みない兄妹トークを交えながらの朝餉。これが僕の一日のスタートラインだ。

 箸を取り、既に骨を抜かれ解された焼き魚に伸ばした。

「そう言えば今日は雨だな。どうする? 歩いていくか?」

 僕らが通う私立黄泉郷高校(よみざと)への道のりは自転車で十五分、徒歩で四十分強。立地的に電車やバスを使うと逆に時間が掛かるので、基本として通学方法は原始的な物に限られる。

「誰かが全裸でアホな事してたから時間が無いんだよね。だから、ぞっとしないけど傘を差しながら自転車に乗るしかないかな」

 凜華は七時四十五分を指し示す時計に目線をやり、そしてため息を交えながら答えた。ホームルームが始まる八時二十五分に間に合う様な移動手段は、もはや自転車のみであった。

 久しぶりに二人乗りなんてのも良いかも知れないな、なんて思うのだが、凜華はきっと許してくれないだろう。

「ほら、早く食べちゃってよね。洗い物してから行くんだから」

 僕は最後の一品となったサラダを箸で掻き込んだ。



 朝の園田凜華は、非常に家庭的な高校一年生なのである。


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 恐らくこれは僕の勘違いであり、テレビ番組で大いに嘯いて、これまた大いに予言を外す占い師並に信用出来ない勘だ。

 つまり、嫌な予感がした、のだ。

 何の根拠もないし、なんの益体も無い勝手な思い違い。

 こんな雨の日だから、と他人は言うかも知れない。

 しかしまあ。

「お兄ちゃん? 私の自転車が無いんだけど」

 朝食を済ませた僕は、凜華が洗い物を終えるのを待たずに、五階の園田家よりこのマンション住人共用の自転車置き場へとやってきていた。

「驚いた。無いな。どこにも無いな。仕方ないから今日は僕の後ろに乗ろうか」

 洗い物を終え、今時の女子高生としては少々地味ではないか、とも思える装飾品の類が一切ついていない通学鞄と、柄物の傘を持った凜華が、聡くも僕を自転車窃盗犯の容疑者とした。いやまあ実際僕が隠したんだけど。

「棒読みでさり気なさを装っても意味無いと思うよ」

 凜華は自慢である(本人が自慢しているところは見たことが無いが、僕が自慢に思っている)背中の真ん中当たりまである艶やかな黒髪を、器用に鞄と傘を持ったままポニーテールに纏めつつ言った。


 じゃあミュージカル調でどうだ、と思ったのだが――凜華の表情が呆れた様な、はたまた頭痛でも起こしたかの様な物に変わった。

「でもまあ」

 凜華はドミノの様に並ぶ自転車の中の一つ、つまりは僕の自転車の前カゴに自分の鞄をシュートした。

「今日は特別」

 雨音を立てる自転車置き場の屋根の下、まだ幼さが残る笑顔が咲いた。

 こんな笑顔を外でも振りまいていたら、と思うと本当に心配になる。

 一日百人、一週間で七百人程の男を惚れさせているに違いない。

 でもそんな心配と同時に――

「そうそう。こういう時は無理せずにお兄ちゃんを頼りなさい」

 この笑顔はいつでも僕を焦燥させる。今から昔を振り返るとまさに僕に見せたこの笑顔と言うのは――

「情けないほどに頼りっきりだよ。お兄ちゃん」

 ――いつだって良く無い事の始まりだったのだ。


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 私立黄泉郷高校への交通手段は主に、電車、バス、自転車、徒歩等である。

 しかし、電車に乗るためには黄泉郷高校とは逆の方にある最寄り駅を利用しなきゃならない、バスを使うためには住んでいるマンションの裏側にそびえる巨大団地の外周をぐるりと回って、反対側まで行かなければならない、という悪環境にある僕たち兄妹は、自然と自転車を使う事になってしまう。

 町を一望出来る、と言っても過言ではない小高い山をならした場所に立つマンション。惜しむらくは交通の便と、上るのにはキツイ坂だ。

「やっぱりもうちょっと良い場所に住みたかったな、なんて思っちゃう」

 僕が運転する自転車の荷台に座る凜華は、傘の位置を微調整しながら言った。しかし残念ながら傘は僕の前面をカバー出来ていない。びしょびしょである。

「僕は好きだけどな。あのマンション。景色も良いし、部屋もそこそこ広い。晴れた日には陽が入る」

 雨音を立てる傘に負けない様に、少し大きな声で言った。

 さっきはまだ小雨と言っても良い範疇だったのだが、今は結構な雨足である。実際僕のスラックスの腿の辺りはびしょ濡れ。車輪がまき散らす雨水の所為でその下は更にびしょ濡れだ。

 ここまで強くなると知っていたら遅刻を受け入れ徒歩で学校に向かっていたかもしれない。

「それもそうなんだけどね。でも街の方が明るくて好きかな」

 明るい、か。

 その点では僕も同意である。

 実際今僕たちが走っている車道(厳密に言えば白線で区切られた歩道なのだが)は夜になると暗い。

 夜通る時にちらりと横を見れば、それなりの夜景が楽しめたりするのだが、しかし視線を落とし、ガードレールの向こう側を覗けば一転。不気味と言っていい程に黒く染まった森が視界を覆う。急な斜面という条件も重なり、冗談抜きで何かの拍子に吸い込まれてしまいそうなのだ。

 十六年の人生の中、僕は一度森の中に入った事がある。そしてもう二度と入りたくないと思ったのがその時。

 自然と手が動き、まばらに民家が並ぶ反対側の車線に移った。

「ふーん。でも満員電車とか、乗り遅れたら十分単位で遅れてしまうバスとかよりも、自分のペースで漕いでいける自転車の方が好きかな、僕は」

 びしょ濡れになってしまう事を除けば、こうやって二人で話したり出来るのも僕としては嬉しかったりする。自転車で坂を下るのも嫌いじゃない。

「それもそうなのかなー。でも兄との二人乗り、ってのは絶対に見られたく無い」

「僕も誰にも見せたく無いな。減ってしまいそうだ」

 車輪が回る音、凜華の吐いたため息の音。やっぱり僕にはそれが心地良い訳だし。

「やっぱり、お兄ちゃんが何考えてるのか分からないよ」

 雨にかき消されてしまいそうな声で、凜華は言った。

「……それと、こやって私の世話を焼くのもいいけどさ、お兄ちゃんだってもう高校二年生だよ? そろそろ自分の事に集中した方がいいよ」

「お前だってもう高校一年生なんだぜ?」

 振り向いて見た訳では無いけれど、今の凜華の表情が何となく想像できた。

 他人から貰った好意に罪悪感を感じているような、何処か悲しく、無表情とも取れる表情。どこまでも子供な表情。

「僕の事は気にしなくて良いよ」

 僕はなるたけ優しい声音で、しかしはっきりと拒絶した。

 それから坂を下り終え、踏切を渉り、まだ人気の少ない商店街を抜け、とうとう学校の自転車置き場にたどり着くまで、僕らは言葉を交わさなかった。


 その日は、こうして始まった。

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