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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第一章――「最上階の朝、甘い風」

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第8話――「同伴の皿、ママの笑い皺」

尚人は夜の街へ出て、店の空気と人の癖を確かめる。狙いは遊びではなく、街の噂と店の都合を手の中に入れることだ。約束の相手はママである。外で飯を共にし、店の内側の疲れと責任を聞き取れば、女たちの目線も変わる。皿の匂い、笑い皺、声の張り。そうした手触りの情報が、尚人に次の動きを決めさせる。

 夜の街は、昼よりも音が近い。バイクのエンジンが腹に響き、クラクションが短く切れる。屋台の煙は脂の匂いを運び、甘い酒と香水がその上を薄く覆う。路地の水たまりにネオンが溶け、赤と青が揺れていた。


 尚人は歩きながら、上着の前を少し開けた。首元を緩め、息を深く吸った。


 尚人は客引きの視線を受け止めて、軽く笑った。上着の前を直し、歩幅を合わせた。店に入ったら、まず乾杯を切る。そう思っただけで、足が自然に前へ出た。


 約束の店の前に着くと、先にママが立っていた。髪はきっちりまとめられ、耳元の飾りが街灯を拾う。服は派手ではないが、腰の線がきれいに出ている。香りは甘すぎず、近づいても重くならない。


 尚人は近づき、先に頭を下げた。「待たせたな。俺から誘っておいて遅れた。悪かった」


 ママは笑って言った。「ほんとに来たんだね。口だけの男もいるからさ」


 尚人はママの目元を見て言った。「その目、店で何十人も見てきた目だな。でも今日は柔らかい。目元がきれいだ。外でも崩れていないのが、ママの腕だ」


 ママは一瞬だけ口を閉じ、すぐに笑った。「褒め方がうまいね」


 尚人は首を振った。「うまいんじゃない。今日の化粧、崩れていない。暑いのに目の線が流れていない。口紅も、夜の照明に負けない色だ。店の外でも、ママはきちんとしている。それが偉い」


 ママは肩をすくめたが、歩き出す足が少し軽くなった。「じゃあ、どこへ連れて行ってくれるの?」


 尚人は言った。「ママが楽に息をつける店がいい。落ち着いて話して、うまいものも食おう」


 2人は路地を抜け、小さな店に入った。焼いた肉の香りが立ち、ヌクマムの塩気が鼻に触れる。皿が置かれるたびに陶器が小さく鳴り、氷の入ったグラスが汗をかいた。


 尚人は生ビールを2杯頼んで、こう言った。


「店の前に飲むと、つい長くなる」


 ママは笑った。「じゃあ、長くなる覚悟で来たんだね」


 ママは笑い、グラスを持った。「分かってるね」


 食事が始まると、ママはようやく肩の力を抜いた。客の話、店の子の話、家賃の話。笑いながら言うが、言葉の端に疲れが混じる。


 ママは箸を止めて言った。「いい子でもね、急に消えるんだよ。家の事情、男、借金。理由は色々だ。残った子が穴を埋める。私が埋める。毎日だよ」


 尚人は遮らず、最後まで聞いた。ママが息を吐いたところで、言った。「ママは、逃げないんだな。逃げない人は、顔に出る。今日の姿勢がいいのは、そのせいだ。背中が折れていない」


 ママは鼻で笑ったが、目が少し柔らかい。「褒められると、腹が立たないね。不思議だ」


 尚人は皿を取り分けながら言った。「腹が立つ日ほど、褒められたほうがいい。ママは店の外でも気を抜かない。そこは誰かが言うべきだ」


 ママは軽く頷き、少しだけ愚痴の調子を落とした。「あんたは、何をしにこの街へ来たの?」


 尚人は笑って言った。「果物の加工を始めたんだ。今日は住み込みのミン・ハの家族にも入ってもらって、初日だけは何とか形にした。白い手袋を買って、髪も覆って、手を洗ってから皮をむいて、重さをそろえて、すぐ冷やす。やっていることは地味だが、ああいう地味な積み重ねで味が安定する」


 ママは箸を動かしながら言った。「いいね。派手じゃなくても、ちゃんと続くやつだ」


 尚人は頷いた。「ママの店も似てるだろ。派手な客で一晩だけ稼ぐより、また来る客で回るほうが強い。俺はそっちで通う」


 店を出る頃、夜気が肌に貼りついた。ネオンの反射が濡れた路面に伸び、遠くの笑い声が途切れず続く。


 ママは尚人の横を歩き、少し声を落として言った。「今日は同伴してくれたから、店でも私の顔が立つ。うちの子も変に身構えずに付けるから、助かるよ」


 尚人は言った。「安心してくれ。ママの顔を潰すような真似はしない。むしろ、今日の分はきちんと立てて帰る」


 ◇ ◇ ◇


 店に入ると、女の子たちが一瞬こちらを見た。ママは胸を張りすぎず、いつもの調子で歩く。だが声の張りが少し違う。尚人はそれを聞き分けた。


 尚人は席に着く前に、ママへ言った。「ママ、今日の声はいいな。きつく当たってこないのに、ちゃんと通る。あれは簡単に真似できない」


 ママは笑って言った。「はいはい、また始まった」


 尚人は笑いながら言った。「冗談じゃない。あの声があるから、場が荒れにくい。店が守られる」


 女の子がグラスを拭きながら近づき、尚人を見て言った。「じゃあ、何にする? 私の分も付けてくれるの? 本当に?」


 尚人は女の子を一度見て、言い方を軽くした。「もちろん。今日はママの顔もあるし、気持ちよく飲もう。だけど先に1つだけ。君、髪の巻き方が上手いな。横顔がすっきり見える。頬の辺りも、粉が浮いてない。目元の線も強すぎない。そういうところを丁寧に整える子は、酒も雑に作らない。だから君のおすすめで頼む」


 女の子は笑って言った。「なにそれ。日本の人って、みんなそんな言い方するの?」


 尚人は肩をすくめて言った。「どうだろうな。俺はこういうのが好きなんだ。ちゃんと見て、いいところは言っておきたい」


 女の子はグラスを置き、少し嬉しそうに言った。「じゃあ、強いのにするね。私も飲んでいい?」


 尚人は笑って即答した。「いいよ。遠慮しないでどんどん飲んでくれ」


 女の子は目を丸くして笑った。「ほんとに? 嬉しい」


 尚人は肩をすくめた。「うん。せっかくだ。気分よくいこう」


 女の子は「やった」と小さく言って、すぐに注文を通した。氷が鳴り、酒の匂いがふっと立つ。


 ママは口元だけで笑い、目で女の子に合図した。「ちゃんと付いてあげな。今日は大丈夫だよ」


 夜が更けるにつれ、ママの言葉は少しずつ飾りが取れていった。近くの店との揉め事、酔客の始末、呼んでも来ない警備の話。尚人は途中で口を挟まず、相槌だけを端的に打って、名前が出たところだけ覚えるように頷いた。


 ママがぼそりと言った。「ほんと、毎晩いろいろあるよ。店の外のほうが静かだ」


 尚人はグラスを置いて言った。「静かに見えるだけで、全部ママの手の中なんだろ。怒鳴らずに収めてる。あれが一番きつい」


 ママは鼻から息を吐いた。「分かってるよ。でも疲れる」


 尚人は笑って言った。「疲れるに決まってる。なのに、顔が荒れてない。笑うと目尻がすっと出るだろ。あの線、きれいだ。嫌な線じゃない」


 ママは一瞬黙ってから、肩で笑った。「ほんと、口が減らないね」


 尚人は軽くグラスを上げた。「減らない夜もある。ママが笑ってくれたら、それで十分だ」


 帰り際、ママは店の外まで出て、尚人の顔を見て言った。「あんた、明日も昼は仕事なんだろ。ちゃんと寝なよ」


 尚人は頭を下げた。「ママもだ。今日、外で飯を食っただけで、声が少し楽そうだった。次も時間を合わせよう。店の外のほうが、息がしやすいだろ」


 ママは小さく頷いた。「じゃあ、またね」


 ◇ ◇ ◇


 最上階へ戻ると、廊下の空気はひんやりしていた。家族の部屋は静かで、寝息が壁の向こうに薄くある。


 尚人はシャワーで汗と煙草の匂いを落とし、鏡の曇りを手のひらで拭った。


 寝室に入ると、灯りを落としているのに、部屋の隅だけが少し重い。空調の音が一定で、そこだけ音が吸われる気がした。


 尚人はタオルを肩にかけたまま、天井へ向けて言った。


「鳴海。要点だけでいい。年と、場所の匂いだけだ」


 返事はすぐには来ない。空気が一段冷え、腕の内側に鳥肌が立った。


 鳴海の声が落ちてきた。


「1986年だ。関東だ。海の匂いがする」


 尚人は息を止めずに聞いた。


「海の近くか」


 鳴海は続けた。


「坂がある。夜に船の音が混じる」


 冷えが少しだけ引いた。


 尚人は机に向かい、メモを開いた。今夜は、同伴の皿の匂いと、ママの声の張り、それから『海の匂い』『坂』『船の音』だけを書いた。

同伴の帰り、店の空気は少し整い、ママの言葉から揉め事の輪郭が滲んだ。尚人は酒の場で騒がず、褒め言葉で相手の呼吸をほどき、必要な固有名だけを拾っていく。最上階へ戻ると、鳴海の声が1986年と関東を告げ、海の匂いと坂と船の音が加わった。夜の皿の匂いと同じように、手がかりは小さい。だが尚人は、それだけで十分に次の現場を割り出せると分かっている。

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