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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第二章――「潮風の町、22歳の尚人」

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第18話――「味噌汁の湯気、1階のフィリピンパブ」

地下一階から上がった尚人は、まだ客の熱が満ち切らない遊興ビルの中で、まず地下2階の食堂街へ降りる。味噌汁の湯気の向こうで出会うのは、1階のフィリピンパブで働くローザである。仕事前の食事、たどたどしい日本語、こちらが踏み込みすぎるとすぐに引く目つき。五反田の夜は、派手な照明が本気で回り始める前から、すでにそれぞれの生活の匂いを抱えている。この回では、尚人が店へ入る前の待ち時間が、そのまま建物の見取りになる。地下2階のだしの匂いと、1階の酒と煙の匂い。そのあいだを行き来する人の流れの中で、尚人は客として座りながら、同時に場の動きも見ている。

 (4月1日(火)午後6時すぎ。五反田東口の遊興ビル)


 尚人は地下一階から戻り、ロビーの端で腕時計を見た。午後6時は過ぎているが、1階のフィリピンパブに客が腰を落ち着けるのは、もう少し後だと尚人は読んだ。昼と夜で顔が変わる建物だから、いまのうちに地下2階で腹を入れて、様子が整うのを待つほうが無難だと思った。


 階段を下りると、空気がまた変わった。油の匂いではなく、だしの匂いが先に立つ。味噌の甘さと、焼き魚の煙が混ざり、通路の奥で食器が軽く触れ合っている。尚人は食堂街をひと回り見て、和定食の店の前で足を止めた。引き戸のガラスが少し曇っていて、中の照明が白く見えた。


 席に着くと、テーブルは一度拭いた水気がまだ残っていて、指先がひやりとした。尚人は壁の短冊メニューを眺め、焼き魚の定食を頼んだ。注文を取る女は、言葉数が少なく、手だけが速かった。


 料理を待つあいだ、尚人は通路側へ視線を流した。食堂街の客は、夕方の顔をしている。スーツの男が増え、肩は昼より硬い。紙袋を抱えた女は、店の入口の看板を見上げても、長くは立ち止まらない。上の階へ向かう気配の人間は、少しずつ増えていたが、まだ群れにはなっていない。


 そのとき、通路の向こうから軽い足音が近づいた。香水ではなく、甘いボディパウダーの匂いが先に来る。次に、聞き慣れないアクセントの日本語が混じった笑い声がした。


 女は尚人の前で立ち止まり、顔をのぞき込んだ。年は若い。頬が丸く、目が大きい。髪は黒で、後ろでひとつにまとめている。派手な服ではないが、色は明るく、肩口の布が薄い。夕方の照明の下では、化粧の粉が先に見えた。


 女は自分の胸に指を当てた。ローザはこう言った。「さっき、地下で見た。おにいさん、ひとり?」


 尚人は少しだけ間を置いて答えた。尚人はこう言った。「ひとりだよ。店に入るには、まだ早い気がしてな。飯を食って時間をつぶすだけだ」


 ローザはすぐに笑った。笑い方は大きいが、声はうるさくない。ローザはこう言った。「じゃ、いっしょ。ここ、みそしる、おいしい」


 断る隙を作らず、ローザは向かいの椅子へ腰を下ろした。店員を呼ぶと、今度は言葉が少なくなる。焼き魚とごはん、味噌汁。指で数を作って、通じることだけを確かめていく。


 料理が来ると、味噌汁の湯気が先に立った。だしの匂いが鼻へ入り、胃の奥が少し落ち着く。魚の皮は少し焦げていて、箸を入れると小さく裂けた。尚人が口へ運ぶと、塩と脂がまとまって舌に乗った。白いごはんがそれを受け止め、腹へ落ちる。


 ローザは味噌汁をひと口すすり、熱さに息を吐いた。ローザはこう言った。「日本、熱いのも、つめたいのも、あるね」


 尚人は頷いた。尚人はこう言った。「フィリピンは、こういうのは飲まないのか」


 ローザは首を振った。ローザはこう言った。「スープある。でも、これ、ちがう。やさしい」


 言葉はたどたどしいが、言いたいことは分かる。ローザは箸の持ち方だけはきれいで、漬物を最後に残した。ごはんと一緒に食べるとき、目線がいったん伏せられる。食べることに集中すると、仕事の顔が少し引っ込む。


 尚人は、聞きたいことが浮かんだが、先に様子を見た。ローザは、話すときはよく笑う。だが、質問の種類によっては、笑いながら引く。線を引く速さがある。


 尚人は軽く探った。尚人はこう言った。「このビルで働いてるのか」


 ローザは箸を置かずに答えた。ローザはこう言った。「うん。1階。フィリピンの店。夜ね。出勤前、ここ、たまに」


 尚人は続けた。尚人はこう言った。「住んでるのも、この辺か」


 ローザは笑ったが、視線が一瞬だけ横へ逃げた。ローザはこう言った。「ビルの中。みんな、いっしょ。たくさん。へや、せまいよ」


 それ以上は出さない。尚人が何かを聞こうとすると、ローザは味噌汁をすすって、話題を変える準備をする。その動きが自然すぎて、尚人は逆に『言わない』と決めていることだけが分かった。


 ローザはごはんを食べ終えると、手を合わせて小さく言った。「ごちそうさま」 その言い方は練習した形で、丁寧だった。


 ローザは尚人の時計をちらりと見た。ローザはこう言った。「もう、いい時間。1階、行く?」


 尚人は伝票をつかみ、立ち上がった。腰のあたりで服が擦れ、食堂街のだしの匂いが背中に残る。尚人はこう言った。「行くよ。店、どんな感じか見たい」


 ローザは先に歩き、尚人の半歩前で振り返った。笑っているが、目が忙しくなる。仕事の顔に切り替わるのが分かった。


 階段を上がると、通路の明るさが少し落ちた。ロビーのガラス越しに外を見ると、夕方の光が鈍く残っている。入口の辺りに立つ男が増えていた。看板を見上げる角度が、さっきより揃っている。


 1階の店の前に着くと、扉の内側から音が漏れた。低いベースの響きと、マイクのチェックの声。タバコの匂いが薄く流れてきて、甘い香水がその上に乗る。


 ローザは尚人の袖を軽くつまみ、入口へ半歩だけ寄せた。「ここ。わたし、ローザ。中、だいじょうぶ?」


 尚人は頷いた。「大丈夫だ。入ろう」


 ローザが扉を押すと、店の空気が尚人の頬に触れた。冷房の冷たさと、酒と煙の匂い。奥で笑い声が重なり、どこかでグラスが鳴った。


 入口脇に立つ男が、尚人を見て近づいた。男はこう言った。「お一人ですか。初めて?」


 尚人はこう言った。「1人だ。初めてだ」


 男は壁のボードを顎で示した。太い字で料金が書かれている。60分飲み放題5,000円。レディドリンク1杯1,000円。指名1,000円。カラオケは1曲200円。文字は簡単で、余計な説明はない。


 尚人はこう言った。「セットで頼む」


 男はうなずき、伝票の端に時刻を書いた。男はこう言った。「60分です。お飲み物は、ウイスキー、焼酎、ビールです」


 尚人はこう言った。「ウイスキーでいい。水も頼む」


 男は短く返事をし、奥へ合図を送った。ローザは尚人の腕を軽く引いて、空いているソファ席へ導いた。席に座ると革が沈み、背中にじわりと熱が戻ってくる。


 アイスバケットと水のグラスが運ばれてきた。ハウスボトルがテーブルの端に置かれ、氷が桶の中で軽く鳴った。


 ローザは尚人の横へ座り、灰皿を半分だけ尚人のほうへ寄せた。ローザはこう言った。「かんぱい」


 尚人はグラスを合わせた。乾いた音がして、周りの笑い声に吸われた。


 ローザはグラスを置くと、尚人の顔を見た。ローザはこう言った。「なおと、なまえ、なんていう?」


 尚人はこう言った。「尚人だ」


 ローザは一度だけ頷き、発音を確かめるように言った。ローザはこう言った。「なおと。おぼえた」


 テーブルの端に、店の伝票が置かれた。開始時刻の横に、60分の枠が線で囲まれている。ローザはそれを見てから、尚人のほうへ戻った。


 ローザはこう言った。「しめい、する? 1,000円。ローザ、ここ、ずっと」


 尚人は入口脇の男に手を上げた。尚人はこう言った。「ローザを指名で頼む」


 男は帳面を開き、鉛筆を走らせた。男はこう言った。「指名は1,000円です」


 尚人は財布から千円札を1枚出し、端を揃えてテーブルの上へ置いた。男はそれを取り、席番号を確かめるように視線を動かしてから引っ込んだ。


 ローザは一瞬だけ目を丸くし、すぐに笑った。ローザはこう言った。「ほんと? ローザ、ここ、いい?」


 尚人はこう言った。「いい。座っていろ」


 ローザは背中をソファに預けた。店の奥へ向いていた視線が落ち着き、尚人へ戻る。


 ローザはボトルと氷を見て、確かめるように言った。ローザはこう言った。「レディドリンク、いい? 1,000円」


 尚人はこう言った。「頼め」


 ローザが手を上げると、店員がすぐ寄ってきた。少ない言葉で注文が通り、伝票に1,000円が書き足された。細いグラスが運ばれ、透明な酒が揺れた。


 ローザはそれを持ち上げ、尚人のグラスへ寄せた。ローザはこう言った。「かんぱい」


 尚人はグラスを合わせた。氷がぶつかり、冷えた匂いが立つ。


 隣の席でマイクの音が割れ、笑いが起きた。店の奥で女が曲名を呼び、伴奏が始まる。ローザはそちらを一瞬見て、尚人へ戻った。


 ローザはこう言った。「カラオケ、する? 1きょく、200円」


 尚人はこう言った。「いまは聞くだけでいい」


 ローザはすぐ頷いた。ローザはこう言った。「わかった。ローザ、うたう」


 ローザは席を立たず、店員へ目で合図を送った。店員が来ると、ローザは曲名を少ない言葉で伝え、指を2本立てた。伝票に200円が書き足され、マイクが回っていく。


 伴奏が流れ、ローザの声が店の空気を押した。日本語の発音はところどころ丸いが、音程は外さない。周りの客は笑わず、グラスの動きが遅くなる。店の時間が揃い始めた。


 歌が終わると、拍手が控えめに起きた。ローザは席で小さく頭を下げ、尚人を見て言った。ローザはこう言った。「どう?」


 尚人はこう言った。「うまいよ」


 ローザは頬を上げ、そこで止めた。次に、尚人のグラスを見た。ローザはこう言った。「もう、のむ?」


 尚人はこう言った。「もう少しだけ」


 ローザは氷を足し、ウイスキーを控えめに注いだ。氷の音が、笑い声と重なる。


 尚人は店内を見回した。入口付近の席が埋まり、奥の席にも客が増えている。案内の男の歩幅がせわしくなり、女の子たちは席ごとに声の高さを変えている。


 ローザは尚人の視線を追わずに聞いた。ローザはこう言った。「なおと、なに、みてる?」


 尚人はこう言った。「客の入り方だ。時間でどう変わるのか、見ている」


 ローザはうなずいた。ローザはこう言った。「よる、もっと、くる。8じ、9じ、いっぱい」


 テーブルの伝票の端で、開始時刻の文字が光った。60分の枠の中で、店の音と匂いが少しずつ濃くなっていく。尚人はグラスを取り、冷えた縁を指で確かめた。

この回で残るのは、味噌汁の湯気と、1階の伝票に書き込まれる金額である。ローザは食事の席では仕事の顔を少し引かせ、店へ戻るとすぐに切り替わる。尚人は女を見ているのと同じだけ、建物と客の流れも見ている。読み終えたあとには、五反田東口の遊興ビルが、ただの遊び場ではなく、食堂街、フィリピンパブ、受付、料金表、歌の順まで含めて1つの生きた場所として立ち上がる。ローザとの一晩の入口は、そのまま尚人にとっての『現場見物』にもなっている。

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