第17話――「遊興ビルの見物、五反田の里佳と横須賀の里香」
銀行を出た尚人は、その足で五反田へ向かい、真弓が交渉を進める遊興ビルを自分の目で確かめに行く。昼の食堂街、紙とインクの匂いが残る不動産屋、地下一階の甘い消毒薬の匂い。建物の昼の顔を見ておくことで、夜に何が動く場所なのかが見えてくる回である。そこで尚人は、五反田の里佳と、横須賀の里香という2つの名を重ねながら、仕事と欲望が同じ街の中で隣り合っているのを感じる。
(4月1日(火)午前11時半。京浜銀行前)
尚人は京浜銀行の自動ドアを抜けた。外の空気は、冷房の残りを押し返すように少し湿っていた。駐輪場に置いたバイクのシートは日差しで温く、手袋をはめると革が指の関節に馴染んだ。ヘルメットの内側に残った汗の匂いが一瞬だけ鼻を刺し、セルを回すと小さな振動が腹の底に響いた。
五反田までは、風景が何度も塗り替わった。幹線道路の排気の匂い、信号待ちの間に横をすり抜けるトラックの風、橋の上でいきなり軽くなる空気。走っているうちは考えが散らばらない。真弓が交渉を進めている東口の遊興ビルを、今日は外からも中からも、ただ見ておく。そう決めた。
五反田の東口に着くと、昼の街は案外せわしない。駅から吐き出される人が、狭い横断歩道で固まり、信号が変わるたびに波になって崩れる。看板の色はまだ明るく、ネオンの主張は薄い。尚人は建物の影を選んでバイクを止め、ヘルメットを外した。耳の奥に残っていたエンジン音が消えると、代わりに踏切の警報と車のクラクションが近くなった。
ビルは、入口だけはきれいに見せていた。ガラス扉の向こうに細いロビーがあり、床が磨かれている。だが、空気は新しくない。ほこりとタバコの名残が薄く混じり、奥の換気扇が一定のうなりを続けている。尚人は壁のフロア案内を見上げた。地下2階が食堂街。地下一階に、以前入った店の名前がある。上の階には、聞いたことのある店名と、知らない店名が同じ字体で並んでいた。
地下へ降りると、匂いが変わった。油の匂いではなく、バターとソースの甘さが先に来る。皿を運ぶ金属の音が重なり、コーヒーの苦い香りが通路に漂っていた。尚人は洋食の店に入った。背中の椅子が少し軋み、テーブルの表面は指先がわずかに引っかかる。メニューを開く紙の音が乾いていて、こういうところの昼は、夜の気配を一度しまい込んでいるのが分かる。
注文した皿が来ると、鉄板が静かに鳴った。肉の焦げた香りに、デミグラスの温い匂いが重なる。ナイフを入れると、中から湯気がほどけ、口に運ぶと脂の甘さが舌に広がった。味が濃い。最近の和食や中華の塩気とは別の、腹に落ちる濃さだ。付け合わせのパンは外が軽く硬く、噛むと小さく砕けた。水を飲むと、喉の奥の熱が少し引いた。
気がつくと時計は午後2時に近かった。尚人は伝票を押さえ、店を出た。通路の照明は白く、壁のポスターがやたらと新しい。ここは食堂街で、客の顔が明るい。尚人は一度、入口のフロア案内の前に戻った。昼と夜で顔が変わる建物だ。昼のうちに見ておくほど、夕方が読みやすい。
近くの不動産屋を2軒だけ覗くことにした。駅から少し外れた角に、小さな店があった。ガラスに物件図面が何枚も貼られ、紙が日に焼けて色が抜けている。扉を開けると、室内は紙とインクの匂いが濃い。奥で電話が鳴り、誰かが短く応対している。尚人は席に腰を下ろし、名刺を出さずに用件だけを言った。
尚人はこう切り出した。「この辺で事務所で借りるなら、どの辺が強いですか。駅からの距離の感じも知りたくて」
応対した男は、いったん尚人の靴と服を見てから、口調を整えた。「駅前は回転が速いです。小さい事務所なら、裏に入ったところでも埋まります。ただ、夜の店が近いと嫌がる人はいますね」
尚人は続けて聞いた。「飲食は、揉めやすい通りってありますか」
男は声を落とし、指先で地図の角を叩いた。「呼び込みが出る通りは、店同士で張り合うから揉めます。ゴミの出し方でも揉めます。逆に、裏に面した店は静かです。大家がうるさいところもありますけどね」
2軒目はもう少し大きかった。床に掃除機の跡が残り、受付カウンターの上に灰皿の跡がうっすらとある。担当の女は、ペンを回しながら淡々と話した。「この辺は昼と夜で客層が変わります。昼の飲食は堅いけど、夜の入れ替わりは早いです。建物の管理が雑だと、テナントが抜けるのも早いですよ」
尚人は、話の端々を頭の中でつないだ。駅からの距離、通りの癖、ゴミの扱い、大家の性格。買うのは建物だが、抱え込むのは人間関係だ。真弓の交渉がどこに落ちるにせよ、尚人が現場で見ておく意味はある。
夕方にはまだ早い。尚人は東口のビルへ戻った。入口のガラス扉の前で立ち止まり、出入りする人を数えた。昼の今は、食堂へ吸い込まれる客がほとんどだ。だが、エレベーター前には、何となく上の階へ向かう気配の男が混じっている。背中がせかせかしていない。目線が定まらず、看板を見上げる角度だけが慣れている。
尚人は階段で地下一階へ降りた。空気が一段重くなる。甘い消毒薬の匂いに、化粧品の粉の匂いが混ざり、鼻の奥に残った。壁の照明は柔らかいが、影が消えない。受付の前のソファは革張りで、座ると背中がじわりと熱を持った。遠くの部屋から、低い笑い声がかすかに漏れ、すぐに途切れた。
尚人は受付の男に顔を向けた。言い慣れた言葉が喉から出るのが自分でも分かった。「里佳と真紀を、両方指名で頼みます」
男は帳面を開き、鉛筆の先で欄をなぞった。紙をこする音が小さい。「真紀は今日は休みです。里佳ならいけます」
尚人は頷いた。里佳だけが来ると聞き、横須賀の里香のことを思い出した。
(五反田の里佳と横須賀の里香か。どちらも読みは『りか』なんだな)
扉の向こうから足音が近づいた。廊下に残る消毒薬の甘さに、香水の匂いが細く重なった。布が擦れる音がして、次に、軽い吐息みたいな笑いが聞こえた。
里佳が顔を出した。髪は長く、照明を受けて黒がしっとりと光った。目が合うと、表情がすぐにほどけた。
尚人の目に入った里佳は、部屋着に近いのに、身体の線だけははっきり出る格好だった。上は白いリブ編みのタンクトップで、生地は薄く、縦の細い筋が胸から腹へまっすぐ走っている。襟ぐりは深めで、肩の上には黒いストラップが2本、左右ともに見えていた。下着かスポーツ用のインナーのようで、白の上に黒が重なり、軽いのに輪郭が引き締まって見える。
タンクトップは胸の下でいったん張り、そこから腰へ向かって絞られる。布が余らず、脇のあたりも背中側もたるまない。動けばリブの影が少しずつずれ、照明の当たり方で白がやわらかく光った。肌は明るく、鎖骨と肩先に薄い艶が出て、室内の光をそのまま返していた。
下は黒い短いショートパンツだった。丈は太ももの付け根までで、裾は水平に切られている。布は伸びるタイプで、腰骨のあたりでぴたりと止まり、股上は浅すぎない。縫い目が前に1本、横に1本、形を整えるように走っていて、腰から尻へ、尻から太ももへと、丸みの移り方が隠れない。脚は生地に切られずそのまま出ていて、室内の涼しさが肌に当たっているのが想像できた。
小物は控えめだった。耳には小さな揺れるイヤリングが1対だけで、髪が動くたび、金具がかすかに光る。髪は黒に近い濃い色で長く、前髪は目にかからない程度に分かれ、肩から胸の横へ流れ落ちる。整えすぎた感じはなく、艶だけがきちんと残っていた。
右手には白いソーサーとカップを持っていた。縁の金色が室内灯を拾い、飲み口の近くに薄い跡が見える。左手は腰に置かれ、指が自然に広がっている。その姿勢のせいで、上は柔らかく、下は締まって見えた。尚人は、派手な服ではないのに、目が勝手に止まる理由だけはすぐ分かった。
里佳はこう言った。「来てくれたの。嬉しいわ。今日は最高の気分よ」
尚人は声を返す前に、肩の力が少し抜けるのを感じた。革張りのソファの熱が背中に残り、空調のぬるい風が頬をなでた。さっきまで外で聞いていた車の音は、ここでは薄い膜の向こうにいる。
里佳は尚人の正面に立ち、明るく笑った。里佳の指先が尚人の袖口のあたりを軽く整える。触れ方はごく軽いのに、手が迷わない。
入口をくぐった瞬間から匂いも音も変わり、時計の針の速さまで違って見える。里佳は尚人の目を外さずに、いつもの調子で言った。「中、行こう。今日は私がちゃんと落ち着かせてあげる」
◇ ◇ ◇
里佳は、尚人の左側に静かに座った。室内には、消毒薬のかすかな刺激と甘い香水が溶けあい、夜の名残を残している。
里佳は無駄な動きを見せず、素早く尚人のズボンと下着を下ろした。次いで、タンクトップを脱ぐと、布地が肩先から滑り落ち、柔らかな音を立てて床に触れる。黒いショーツは指先でつままれ、腰骨のあたりまで下がった。淡い光が、彼女の肌をなめらかに照らす。
自然に顔が近づき、キスが始まる。里佳の唇は驚くほどやわらかく、ためらいなく尚人の唇を探し、舌先がそっと入り込む。静かな呼吸が互いの頬に触れ、熱がゆっくりと移っていく。
里佳の手はたっぷりのローションを使い、尚人のものを慎重に、だが確信を持って包み込む。掌の温もりと滑りが、尚人の神経を心地よく刺激した。
里佳は口元をわずかに上げ、息を潜めて囁いた。
「……すごい、大きい。片手じゃ足りない……」
そのまま、明かりの下で頬に艶を受けながら、ゆっくりと先端を口に含む。唇と舌の感触が、じわじわと熱を帯びて広がっていく。
尚人はすべてを里佳の動きに委ねた。時間の感覚が遠のき、しばらくはただその流れの中に沈む。
やがて、里佳が一度息をつき、唇を離す。尚人は彼女の体をやさしく左の太ももに引き寄せた。肌はうっすら汗ばんでいて、熱が手のひらに残る。尚人の指は太ももから腰骨、そしてなだらかな曲線をたどって胸元へ移る。乳房の柔らかさを包むと、右の乳首にそっと唇を落とした。里佳は細い声をもらし、小さく身を震わせる。
突然、里佳は声をあげた。
「もう……駄目。これ以上我慢できない……」
空気が切り替わる。態勢が変わり、里佳は尚人を迎え入れる体勢となる。最初はわずかな戸惑いがあった。目を閉じ、何度か深く息を吐き、慎重に導き入れていく。二人の呼吸と動作のリズムが重なり合い、徐々に身体が馴染んでいく。
経験が滲む手つきで、里佳は自らの腰を大きく動かした。淡い照明の下、髪が揺れ、汗が鎖骨を伝う。
限られた時間の中で、彼女は幾度も高まりに達し、やがて尚人の胸に顔をうずめ、身を委ねるように静かに動きを止めた。
しばらく、汗ばんだ身体同士が重なったまま、二人は呼吸を整えた。静かな部屋に、里佳の吐息と心拍の音だけが溶けていく。
やがて、里佳はゆっくりと身体を起こし、ベッドサイドに置かれた小さな紙を手に取る。ペンで滑らかに番号を書きつけ、尚人に差し出した。
「……休みは決まってないの。でも、夜の11時半くらいなら電話に出られるはず――」
振り向いた瞬間、耳のイヤリングがほの白い光をはじいた。
その残像が、しばらく尚人の網膜に残った。
◇ ◇ ◇
やがて、廊下の奥で控えめな電子音が鳴った。店の中では目立たない音のはずなのに、尚人の耳にはそれがはっきり届いた。壁の照明は変わらず柔らかいのに、空気だけが少しだけ薄くなった気がした。里佳は動きを止め、尚人の顔を見た。
里佳はこう言った。「時間だね。外、寒いかもしれないから、上着を忘れないで」
尚人は頷き、身の回りを確かめた。指先に残る布の感触を払いながら、ポケットの中の鍵と小銭の形を触って確かめた。床に落ちる自分の影が、さっきより濃い。扉を開けると、廊下の消毒薬の甘さがまた鼻の奥へ戻ってきた。
里佳は尚人の横に並び、歩幅を合わせた。ヒールではない靴の軽い音が、絨毯の上で小さく吸われる。途中の部屋の前を通ると、低い笑い声がひとつだけ漏れ、すぐに壁に飲まれた。尚人は視線を逸らさず、ただ受付の明かりへ向かった。
受付の男は帳面を閉じ、顔を上げた。男はこう言った。「お疲れさまでした。延長はなしでよろしいですね」
尚人はこう言った。「はい。今日はここまでにします」
支払いを済ませると、レジの引き出しが短く鳴った。紙が重なる音がして、控えが指先に渡された。薄い紙なのに、そこだけ妙に現実味があった。尚人は財布をしまい、背筋を立てた。
里佳は尚人の正面に立ち、笑い方だけは入ってきた時と同じにした。里佳はこう言った。「また来て。日曜日だと真紀もいるよ。私は休みだけどね」
尚人はこう言った。「研修中に、また来るよ」
里佳は小さく手を振った。耳のイヤリングが一度だけ揺れて、照明を拾った。尚人が階段へ向かうと、背中に視線が残るのが分かったが、振り返らなかった。
この回で見えてくるのは、尚人が建物や女を、気分だけで眺めていないことだ。昼の五反田では、食堂街や不動産屋を歩き、夜の顔になる前のビルの癖を拾う。地下一階では、里佳の体温と匂いが、横須賀で知った里香の記憶と重なり、街が尚人の中で1本の線につながる。読み終えたあとに残るのは、五反田という場所が、ただ遊ぶだけの街ではなく、見て、選び、踏み込む順番まで含めて尚人の中へ入ってきたことだ。




