第8話――「火曜日の訪問、翌朝のロビーと留守録の点滅」
久里浜に住むと言い切った尚人に対し、沙也加ママは気持ちは受け取るが、それだけはやめなさいと告げる。自分には夫も子どももいると明かしたうえで、それでも今夜は部屋へ行くと言う。この回では、昼の喫茶店で交わされた現実的な線引きと、夜の密かな訪問がそのまま重なり、翌朝にはホテルのロビーで青い瞳の女が現れる。さらに横須賀へ戻った尚人を待っているのは、部屋の静けさの中で点滅する留守番電話である。
(1986年3月28日金曜日)
沙也加ママは、しばらく尚人の顔を見ていた。店の中では鉄板の油がはね、皿が触れ合う乾いた音が続いているのに、その一角だけ空気が静かになった。コーヒーの湯気がママの頬をかすめ、甘い香りの奥に、洗剤と煙草の匂いが薄く残っていた。
ママはカップを受け皿に戻し、指先で縁を1度なぞった。決心を固めた人の動きだった。
「尚人。貴方の気持ちは確かに受け取った。でも、久里浜に引っ越しするのはやめなさい」
言い方は強いのに、声は荒れていない。尚人は背筋を伸ばした。椅子の脚が床をわずかに擦り、店の明るい音の中で小さく響いた。
「理由を言うわ。私も貴方が好きよ。でも私には夫も子どもも居るわ」
ママは視線を落とさず、真っすぐ言った。言葉が落ちるたびに、尚人の喉の奥が乾いた。窓の外では車が通り、タイヤが濡れた路面を切る音が1度だけ伸びた。
「家族を捨てて、貴方を選ぶことは出来ない」
1拍おいて、ママは息を整えた。店の換気扇が低く回り、熱い鉄板の匂いがまた戻ってくる。
「でも今夜、貴方の部屋にお伺いするわ」
尚人は1度だけ唇を噛み、うなずいた。軽い返事ではなかった。ママの目が揺れていないのを見て、冗談ではないと分かった。尚人はそのまま、彼女の気持ちを受け取った。
◇ ◇ ◇
夜になり、店の前の明かりが雨上がりの路面ににじんでいた。潮の匂いが昼より濃く、冷えた空気が喉の奥を撫でた。尚人の部屋は狭いが整っていて、洗い立てのシーツには石けんの匂いが残っていた。壁の時計が小さく刻む音が、静けさを押し広げていた。
インターホンが1度鳴った。扉を開けると、ママが立っていた。店の香水の甘さと外気の冷たさがいっしょに流れ込み、髪はきちんとまとめられているのに、目元だけに疲れが残っている。それでも視線は逃げず、来たことを後悔していない顔だった。
「遅くなったわ。店を閉めてから来たの」
尚人は「うん」とだけ返し、廊下に頭を下げた。ママが靴を揃える音がして、扉が閉まる。鍵が回る音が小さく鳴った瞬間、ふたりの間の空気が変わった。外の世界が切れて、部屋の中だけが残る。
尚人は水を出してグラスを1つ差し出した。氷がぶつかって高い音がした。ママは1口飲み、息を整えた。手の甲に浮いた細かな水滴を指で拭い、その指先をしばらく見つめた。迷いを飲み込む仕草だった。
尚人は、ここで言わないと一生言えないと思い、不安を口にした。自分の身体〈巨根〉のことで、これまで何度も引き返してきたこと。相手を傷つけるのではないかという怖さ。言葉にするほど、喉が乾いていく。みっともなさも、情けなさも混じった。
ママは笑わなかった。少しだけ眉を寄せて、尚人の顔を見た。責める目ではない。確かめる目だった。やがて、きっぱり言った。
「バカね。出産を経験した女よ。怖がる話じゃないわ。用意もある」
引き出しが開く音がして、キャップが外れる軽い音が続いた。手に触れたものの温度が変わる。尚人はその手つきで、ママが場当たりではなく、覚悟を持って来たのだと分かった。
灯りを落とすと、窓の外の街灯が天井に薄い影を作った。潮風が窓枠を鳴らし、カーテンがわずかに揺れた。
ママは、尚人のそれを目にした瞬間、ひと息のんだ。
「……大きいわ。思っていたより、ずっと」
おそるおそる右手を伸ばし、確かめるように包む。指の腹に伝わる張りに、声が低くなる。
「硬いのね。反って……熱もある。少し、怖いくらい。若さって、こうして触ると分かるのね」
尚人は、言葉を返さず、ママをそっと仰向けにした。両脚を肩に掛けると、ママの喉が鳴る。
「無理にしないで。急がないでね」
尚人は胸元から撫で上げた。掌の温もりを残すように、指先で柔らかさを確かめる。下半身を近づけ、周囲に軽く触れさせるだけ。ぶつけることはしない。
それでも、ママの喉から抑えた声が漏れ、肩がわずかに震えた。
潤滑剤の感触と、時間をかけた愛撫が重なり、ママの身体はゆっくりと応じていく。
尚人は先端だけを、ほんの少し出し入れした。呼吸のリズムが変わり、胸元に顔を埋めて乳首を舐めると、ママは無意識に腰を寄せた。
だが、尚人が深く進めようとした瞬間、ママの手が尚人の胸に触れ、静かに押し返す。
それ以上はだめ、という明確な合図だった。
尚人は体勢を変え、後ろ向きのママの腰を支えた。確かめるように、ゆっくりと進める。半分ほど入ったところで、ママの声が震える。
「なおちゃん、そこまでで……動かさないで」
尚人は、その言葉どおり、動きを止めた。
◇ ◇ ◇
挿入は続けず、尚人は小さく円を描くように腰を動かした。背後から胸を包み、親指の腹で乳首を擦る。強くはしない。反応を読み取りながら、間を置いて続ける。
その細かな動きが合ったのか、ママは口を押さえ、息をこらえながら声を漏らす。
「なおちゃん……全部入らなくてもいい。もう、十分……」
向きを変え、尚人を見上げる。
「このままだと、あなたが辛いでしょう。代わるわ。手で、してあげる」
座り直し、丁寧に手を動かす。時間は長くなかった。
尚人は耐えきれず、低く声を漏らす。
ママは慣れた仕草で口を使い、整える。舌の温度と湿りに、尚人の身体はすぐに応えた。抱き寄せられたママの腰に手が回り、そのまま下半身を当てる。
今度は、抵抗がなかった。力を入れなくても、自然に受け入れられていく。
与える側に回ったことで、ママの身体が先にほどけていたのだろう。
ここまでに2時間近くかかっていたが、ようやく歯車が噛み合った。
二人は夜が明けるまで身体を重ね、互いの息が落ち着くまで、静かに、しかし確かに満たされた。
ママは尚人の胸に抱かれながら、こう言った。
「時々、久里浜に遊びに来てね。店に連絡くれたら、なおちゃんに会いに行くから」
尚人はひとつうなずき、約束した。両手で背中をゆっくり撫でた。ママは目を閉じたまま、少しだけ笑った。
窓から入る潮の匂いが薄まり、時計の音だけが残った。部屋は静けさを取り戻していた。
◇ ◇ ◇
(1986年3月29日土曜日)
翌朝、尚人が目を開けると、隣の空気が軽かった。シーツは昨夜の体温をまだ抱えているのに、枕元の気配だけがすっぱり切れていた。カーテンの隙間から白い朝日が差し込み、窓ガラスの向こうで海の色がうっすら揺れている。時計を見ると、針は朝の7時を指していた。
廊下のどこかで客室係のカートが小さく軋み、遠くでドアの閉まる音が乾いて響いた。ママはもういなかった。尚人は、呼吸を整え、冷たい水で顔を洗い、歯磨き粉の薄いミントの匂いを口の中に残したまま、シャツの襟を指で直した。
『久里浜マリーナホテル』の朝食会場に入ると、皿とフォークが触れ合う高い音が、天井に跳ね返っていた。和食の席からは焼き魚の脂と味噌汁の湯気が流れ、別のテーブルでは中華の湯気が立ち、白い粥の匂いがほのかに混ざっている。
尚人は迷わず洋食を選んだ。欲しかったのはコーヒーだった。カップを口に近づけると、焙煎の苦い香りが鼻の奥を通り、ひと口で舌が目覚めた。バターを落としたトーストは熱で表面が少し汗をかき、ナイフを入れると軽い音がした。窓際の席では、朝の潮風がガラス越しに光だけを運び、肌には届かないのに、見える景色だけが冷たく澄んでいた。
食べ終えてフロントへ向かうと、ロビーはワックスの匂いがして、足音が床に細く鳴った。チェックアウトのカウンターの脇で、ホテルのオーナーらしい女性と、案内係の若い女性が、ひとことふたこと交わしていた。オーナーの女は、目の覚めるような青い瞳をしていた。金髪は朝の光を受けて淡く透け、年の頃は27、8に見える。背は175センチほどで、姿勢がまっすぐで、制服の若い案内係が隣に立つと、空間の中心が自然にそちらへ寄ってしまう。
尚人と目が合った。女は、仕事の笑顔のままではない、ほんの少し柔らかい笑みを返した。その瞬間、胸の奥が1拍遅れて熱くなり、足元がふらりと浮いた気がした。その女が鳴海を殺したフランス人女性だとは、この時の尚人はまだ知らなかった。
ただ、なぜか視線を切る前に、尚人は鞄に入れていた薄い35ミリのコンパクトカメラに手を伸ばしていた。胸の前まで持ち上げず、脇を締めたまま角度だけを合わせ、周囲の物音にまぎれる一瞬でシャッターを切る。かすかな作動音は、ロビーのざわめきに吸われて消えた。尚人は、それから視線をいったん床へ落とし、もう1度、気持ちを切り替えるように息を吐いた。
◇ ◇ ◇
外に出ると、空気は海の塩を含んでいて、鼻の奥がきゅっと締まった。バイクのキーを回し、スターターを押す。エンジンが目を覚ます低い振動が掌から腕へ上がり、排気の匂いが1度だけ背中を撫でた。久里浜の道は朝の顔をしていて、トラックの走る音が遠くで続き、港の方からカモメの声が切れ切れに飛んでくる。尚人は身体を前へ預け、風を受けながら横須賀へ戻った。道沿いの店はまだシャッターが多く、信号待ちの間に、パン屋の焼けた匂いと、ガソリンの匂いが交互に流れた。
アパートに着くと、階段の鉄が朝の冷えを残し、手すりに触れた指先が少しだけひやりとした。部屋の鍵を回し、ドアを押す。室内は夜のまま静かで、カーテン越しの光が薄く床をなぞっている。靴を脱いだ瞬間、外の潮の匂いがふっと遠のいた。代わりに、部屋のこもった空気と、昨日の自分の生活臭が戻る。次の瞬間、留守番電話の表示がピカピカと光っているのが目に入った。点滅の規則正しさが、部屋の静けさをかえって強くした。1986年3月29日土曜日。尚人は、その光を見つめたまま、息を止めずに、しかし音を立てないように1歩近づいた。
第8話では、尚人と沙也加ママの関係が、勢いだけでは進まないことを先に言葉で示し、そのうえで夜の訪問と翌朝の余韻を並べている。喫茶店の鉄板の匂い、部屋の石けんの匂い、ホテルの朝食会場の湯気、ロビーのワックスの匂いを順に置くことで、関係の熱と現実の冷えが同じ朝の中に残る形にした。沙也加ママは家族を捨てないとはっきり告げながらも、尚人を拒み切らない。その曖昧さが、翌朝ロビーで現れる青い瞳の女と、部屋で点滅する留守録の光によって、さらに次の話へ押し出される。題名の『火曜日の訪問、翌朝のロビーと留守録の点滅』は、ひと晩の出来事がそれだけで閉じず、次の人物と次の事件の入口をもう開いていることを示している。




