星野あかり(10)
除夜の鐘が鳴る。目の前には『中里家』『与野坂家』と刻まれた御影石が夜の闇に溶け込むように佇んでいた。
境内の喧騒とは裏腹に、ここは静けさに包まれている。それもそうだろう。身を切るような寒さの中、大晦日に墓参りをするのは星野たちぐらいものだ。
何かあれば墓場に集合するというのは元々与野坂が言い出したことらしい。与野坂家は躾が厳しく、何か理由がないと自由に家を出られなかったので、墓参りをよく言い訳に使っていたそうだ。とんだ罰当たりである。
「星間くんたち、ようやく渋滞から抜けたって。後十分ほどで着くみたいよ」
「なら先に始めましょうか。体も冷えてきましたし」
スマホを操作する星野の隣で手を合わせていた中里が、持参した保温バッグから日本酒のワンカップを二つ取り出した。さすが中里のお手製バッグ。さっきお湯から出したみたいに温かい。
住職に許可は取っているといえども墓場で酒を飲むのは気が引けたが、漂う甘い香りに負けてそっと口をつけた。身体中に熱が巡って、綿飴みたいな白い息をつく。
「久しぶりねえ、こうしてみんなで集まるのは」
「星間くんと星崎くんが来てからは年末も仕事でしたからね。海人も拓海くんがいましたし、遠慮していたのでしょう。人一倍寂しん坊なのに本当に意地っ張りな男です」
墓石に刻まれた『与野坂海人』の文字を優しく見つめる姿に涙腺が緩みそうになる。与野坂を失った悲しみが完全に癒えることはないのだろうが、こうして軽口を言えるまでには回復してきたということだろう。
「納骨は四十九日を過ぎてからだと思ってた。ITPでも反対の声があったのよね? 拓海くんも寂しいだろうに、よく決断したわね」
「拓海くんは海人の気持ちに気づいていたのでしょうね。だから早めたのだと思います」
中里は酒を口に含むと、首を傾げる星野に微笑んだ。その目には与野坂に対する慈しみの他に、寂寥と後悔の色が濃く浮かんでいるように見えた。
「海人は裕子が好きだったのですよ。それこそ僕たちがランドセルを背負っていた頃から。僕がそれに気づいたのは裕子と結婚した後でした」
言葉を失った星野から墓石に視線を戻し、中里が話を続ける。
「きっかけが何だったか忘れてしまいましたが……。動揺した僕はどうして言わなかったのかと海人を問い詰めました。でも、そんな僕を海人は笑い飛ばしたんです。『俺はお前に惚れたゆうちゃんを好きになった。だから、万に一つも俺がゆうちゃんと添い遂げるなんてあり得ないんだよ』って。結婚せずに拓海くんを養子にしたのも、海人の心には裕子がいたからなのですよ」
追憶にゆらめく瞳がそっと瞼の下に消える。頬に刻まれた皺は笑みの形を保っているものの、カップを握る手はかすかに震えていた。
「僕は海人にたくさんのものをもらいました。裕子にもです。でも僕は? 僕は二人に何も返せていない。恩返しをする前に二人ともいなくなってしまいました。裕子との約束だって思い出せない。僕は薄情な男なんです」
「それは違うわよ。裕子さんも与野坂さんも、社長のことが大好きだった。私、直接二人から聞いたことがあるの」
カップのぬくもりを感じながら、過去の記憶を掘り起こす。
――あれは星野がゆうを産んで一年ほど過ぎた頃だった。
確か中里は出張で不在だったと思う。裕子は星野を手伝うためにアパートにいて、与野坂は両手にオムツや食料を抱えて拓海を迎えにきた。
けれど、あいにく拓海はあきらと遊び疲れて眠ってしまっていたので、子供たちが目を覚ますまで三人で晩酌することにしたのだ。
すやすやと眠る子供たちを微笑ましそうに見つめながら、二人は過去を語ってくれた。
裕子は両親が事業に失敗して自殺し、遠縁の三田家に預けられて毎日肩身の狭い思いをしていたと苦しそうに言った。与野坂は大企業の一人息子という立場のせいで、周囲から孤立していたと寂しそうに笑った。
そして、そんな二人を孤独から救い出してくれたのは中里だったと口を揃えて言ったのだ。
中里が手を差し伸べてくれなかったら、きっと今も一人だっただろう。こうして子供や赤ん坊を可愛いと思うこともなかった。だから一生をかけて恩を返していくのだと、潤む瞳でそう語った。
「裕子さんとの約束が何だったのか私にはわからない。でも、先に与えたのは社長よ。二人は社長に会えたから幸せだったのよ」
ゆっくりと開いた目が星野を見つめる。
静かに降り始めた雪は生者と死者の垣根を覆い隠すように世界を白く染め上げていく。
やがて中里は夜空を降り仰ぐと、頭上に瞬く星を見つめながら唇に弧を描いた。
「なら、二人が好きでいてくれた僕でいなくてはいけませんね。これからも僕を……中里エネルギーサービスを支えてくれますか」
「もちろんよ。決算も無事に終わったしね」
ウインクしたその時、墓場には似つかわしくない大声が夜のしじまを切り裂いた。
「社長ー! 星野さん! お待たせしました!」
律がプレゼントしたらしい手袋に包まれた手を力一杯振る星鳥の背後で、星崎、星間、拓海が呆れた顔を浮かべている。そして、その横で律に手を引かれた子供たちが頬を林檎色に染めてこちらを見つめていた。
最後の除夜の鐘が鳴る。
二千二十六年一月一日。新しい年の始まりだ。
「今年もよろしくお願いしまーす!」
星鳥が元気よく挨拶をする。境内の賑わいに負けない笑い声がこぼれる。
だが、この場にいる誰もが気づいていなかったのだ。世界が変わる時はいつも突然だということに。




