星野あかり(7)
『子供 邪魔』
『金を使わずおろす方法』
咄嗟に下腹に手を当てる。
確かにこの中には命が宿っているのに、山口は消そうとしている。まだ見ぬ我が子は決して父親に愛されることはない。
子供の頃の星野みたいに。
その後のことはあまり覚えていない。気がついたら半纏を着せたあきらを抱いてバスに乗り込んでいた。
ポケットには幾許かの現金と、持ち出してしまった山口のスマホだけ。どこへ行く宛てもない旅の果てに辿り着いたのは、東京都大田区の端に位置する星海市だった。
元々帝国技研の発祥の地であったことから、星産業の一大地として発展した星海市には大きな港が存在していた。
目の前には水平線の彼方まで続く暗い海が横たわっている。ここに足が向いたのは、まだテレビを観ることを許されていた頃に流れていた特集が脳裏に焼き付いていたからだろうか。それとも無意識に自由を求めていたことの証明か。港の小さなベンチで寒風にさらされながら、夜間飛行に挑む採取船の明かりをただ眺めていた。
「あなた、大丈夫?」
まるでひと足先に春がきたようだと思った。
眩く輝く月と星を背負い、隣に優しそうな男性を連れた初老の女性は、躊躇なく隣に腰掛けると何も言えずに震えている星野の肩を抱いた。
「まあ、すっかり冷えて」
優しく響く、心配そうな声。肩に触れる柔らかい温もり。星野はその時、自分に向けられる温かい眼差しというものを初めて見た。
女性は中里裕子、隣の男性は夫の知幸だと名乗った。促されるまま中里の車の後部座席に乗り、裕子と並んで湯気の立つコーヒーを口にする。
星野は今でも、この日以上に美味しいコーヒーを知らない。
冷えた体にぬくもりが戻るにつれて、星海市に来た経緯を話し始めた。今思い出しても顔から火が出るほど拙い説明だったと思う。けれど最後まで静かに聞き終えた裕子は、星野に温かな眼差しを向けたまま、たった一言、「よく頑張ったわね」と告げた。
堰を切ったように嗚咽がこぼれ出した。とうの昔に死んだと思っていた感情が、ただ胸の内で眠っていただけだったのだとようやく気づかされた。
その後、中里の家に厄介になった星野は裕子から事情を聞いた与野坂に弁護士を紹介してもらい、養育費を求めないことを条件に子供たちの親権を得て離婚した。
山口は相当ごねたが、星野が持ち出したスマホにたんまりと残っていた浮気の証拠を突きつけられて黙らざるを得なかった。自分の浮気が原因で離婚したとなれば体面が悪いからだ。それなら星野を突然出奔した悪者にした方がいいと思ったのだろう。後日、浮気相手も資産家の娘だったと知って呆れるばかりだった。
そして、与野坂が当時養子に迎えたばかりだった拓海の面倒をたまに見ることを条件にアパートを世話してもらい、中里金属の事務員として働き始めた。
何しろ初めての経験だ。最初は右も左もわからない状態だったが、裕子が文字通り手取り足取り教えてくれたおかげで徐々に上手く業務を回せるようになり、失われた自尊心も取り戻すことができた。
今の星野を形作ったのは裕子だと言ってもいい。そんな恩人の名を貰い受けた大切な娘を自分の愚かさのせいで失いかけているなんて。
「私……母親失格ね」
「何言ってんのさ。今こうして必死に探し回ってるのに。俺の親だったら探そうともしないよ。何なら、いなくなったことにも気づかないかもね」
星間の横顔を見つめる。いつもと変わらぬ穏やかな顔。けれど、その目には隠しきれない悲しみが浮かんでいる気がした。
「星野さんは立派に母親してるよ。事務員としても頼りにしてる。いつも助けてもらっている分、俺たちも助けたいんだ。社長や与野坂さんみたいに頼りにならないかもしれないけどさ。もっと甘えてくれていいんだよ」
嘘のない笑顔。十年前のあの日、港のベンチで感じたぬくもりが胸の中に広がる。
潤んだ目を誤魔化すために窓の外に目を向けた。
「……随分と大人になったのね。入りたての頃は削りたての鉛筆みたいに尖ってたのに」
「やめてよ。俺の黒歴史なんだから」
車に搭載されたAIがメッセージの着信を告げた。スマホとカーナビを無線で繋ぐと、カーナビからスマホの操作ができるのだ。
画面には星鳥の名が記されている。星間がAIにメッセージの開閉を命令すると、涼やかな声で読み上げ始めた。
『律ちゃんが星海モールで、ゆうちゃんに似た子供を連れた男を見たそうです。さっき行ったばっかりだって言ってたから、まだいるかも!』
星海モールは星海市の北側に位置する巨大モールだ。近くに有名なテーマパークがあるため利用客も多い。海辺にはジャングルジムなどの遊具を備えた公園があり、ゆうもここが大のお気に入りだった。
「星海モールってこの近くだよ。急ごう!」
近くにいたらしい中里と星崎からもすぐに向かうと連絡がきた。拓海も忙しい仕事の合間を縫ってあきらのそばについてくれているらしい。有休中だった律も駅からモールに引き返してくれるという。
響くエンジン音に呼応して、鼓動が早まっていく。ゆうに似た子供を連れた男が本当に山口なのかはわからない。どちらにせよ良くない事態に陥っているのは確かだった。




