星野あかり(6)
「この辺りにもいないね」
窓からゆっくりと流れていく景色を眺めながら小さく頷く。
あれから数時間が経過したが、膝の上のスマホは鳴る気配がない。時折、星崎たちから状況報告のメッセージが届くものの、未だゆうの足取り一つ掴めないでいた。
「他に行きそうなところはない?」
「山ほどあるわ。あの子ったら行動範囲がやたら広いのよ。最近は市の野球クラブの子たちと遊びに行くことも増えたし。一体、誰に似たのかしら」
「間違いなく星野さんだよ。特売のためにチャリで隣町まで遠征するって言ってたじゃん」
いつも通りの軽い口調。星野の気を紛らわそうとしてくれているのだろう。
――もし最初に出会ったのが星間みたいな男だったなら、こんな思いをしなくても済んだのだろうか。
そんなくだらないことを考える。
山口と出会ったのは高校二年生の夏だった。翌年の大学受験に備えて通っていた予備校の若い新任講師。それが山口だったのだ。当時の山口は巧妙に自分の牙を隠しており、俳優にも引けを取らない美形さも相まって、女子生徒に人気が高かった。
星野もその一人だ。星野家は地元ではそれなりの名士で、他の生徒よりも多くお小遣いをもらっていたのをいいことに、山口に高価なプレゼントを繰り返し、愛の告白を引き出すことに成功した。
講師と生徒の恋なんて甘酸っぱいものではない。今思えば星野は息苦しい家から逃げ出す口実を探していただけだったし、山口も星野家の財力にしか興味はなかったのだ。
それに気づいたのは大学受験を間近に控えた高校三年の冬だった。星野の妊娠が発覚した。山口は責任をとって星野の家に入ると言ったが、何よりも体面と血を重視する親族たちが許すわけもなく、高校卒業と同時に幾許かの手切れ金を渡され、金輪際家の敷居を跨ぐなと放逐された。
嫌だった大学にも行かなくてもいい。もう親の顔色を伺わなくてもいい。これからは好きな人と温かい家庭を築いていける。
そう無邪気にはしゃぐ星野に山口は言った。
「当てが外れた」と。
教え子に手を出した講師がそのまま地元にいられるはずもなく、山口は身重の星野を連れて東京に向かった。役立たずを置いてさっさと逃げなかったのは妻子への愛情があったわけではなく、将来相続できるかもしれない遺産を当てにしていたからだろう。
ともあれ山口は東京で新たに講師の職を得て、星野は育児に専念することになった。
歪とはいえ夢に見た生活。だが、山口が隠していた牙を剥き出しにするのは存外に早かった。
「なんだよ、こんな飯食えるか!」
料理をすればゴミ箱に投げ捨てられる。あきらが夜泣きすれば怒鳴られる。俺がこんな侘しい生活をするのはお前のせいだと毎日責め立てられ、グズだノロマだと罵倒された。
最初は泣き暮らしていたものだが、不思議なもので人間どんな環境にも慣れるものだ。いつしか星野は山口の機嫌だけを伺い、彼の思い通りに動く人形になった。
幸い山口はあきらにだけには手を出さなかったので、自分さえ我慢していれば丸く治ると本気で思っていたのだ。
それが覆されたのはあきらが三歳になったばかりの夏だ。ゆうを身籠った。
もしかしたらこれをきっかけに変わってくれるかもしれない。今度こそ、夢に見た温かい家庭を築けるかもしれない。そんなささやかな希望を胸に妊娠を告げた星野に山口は言った。
「お荷物が増えた」と。
その夜はどうしても眠れず、あきらの寝顔を見つめながら自分の人生を振り返っていた。確か二十二時過ぎぐらいだったと思う。山口は飲みに行くと言って、妻と息子を残して家を出ていた。
どうしてこうなったのだろう。何が悪かったのだろう。ぼんやりとする頭でそう思った時、視界の端で何かが白く光った。
山口が置き忘れていったスマホだ。一瞬躊躇した後、恐る恐る手を伸ばす。震える右手にずっしりとした重みが伝わった。星野のスマホはとうの昔に取り上げられていたから懐かしい感触だった。
画面に触れると難なくホーム画面に変わった。ロックをしていなかったのは星野のことを舐め切っていたからだろう。壁紙には見知らぬ女とのツーショットの写真が臆面もなく飾られていた。ご丁寧にハートマークのスタンプも押してある。
ここで初めて、星野は山口が残業や飲み会を言い訳に浮気していたと知った。そして何気なく開いた検索サイトの履歴を見て、その場に凍りついた。




