星間明生(4)
「いやあ、うちの娘がそちらの従業員の方に深く傷つけられたようで」
皆目一番、男はそう口にした。ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべて下賤の民を睥睨するように中里たちを見渡している。
男の隣では、これみよがしに足に包帯を巻いた女が膝に両手を乗せて俯いていた。転んだ弾みで足を捻ったという設定らしい。
女の名は中野律。丸の内で働く事務員というが、どこまで本当かはわからない。
男は女の父親だと名乗り、しきりに娘が心配なのだと主張した。
話し合いの場に相応しいとは思えない柄シャツといい、首から下げた金のネックレスといい、どことなくチンピラ臭がする。
どう贔屓目に見ても親子には見えない。どちらかといえば元職場の――と考えたところで、中里が口火を切った。
「お嬢様を避けようとしたところ、体勢を崩して転倒されたとのことで誠に申し訳ありません。ですが弊社の従業員が傷つけたというのは事実無根です」
「事実無根? この写真を見てもそう言えるか?」
「確かに腕は当たってしまいましたが、突き飛ばしたとはいえません。それとも前後の状況がわかる写真か動画をお持ちですか」
男の眉がぴくりと動いた。一筋縄ではいかない相手だと気づいたのだろう。さっきまでの嫌な笑みが鳴りを潜めている。
中里は普段物静かだが、長年会社を経営しているだけあって肝が座っている。今も男に見せつけるように老眼鏡を額に上げ、印刷された写真を手に取ってしげしげと眺めていた。その口元にはかすかに笑みが浮かんでいる。
「この写真はあなたが?」
「ああ、そうだよ。娘が戻ってこないから心配で車を流していたら、この現場に出くわしたんだ。まさか暴力を振るわれているとは思ってなかったぜ」
「そうですか。それにしても、よく撮れていますね。まるで待ち構えていたみたいです」
中里が男を上目遣いに一瞥した。
「私があなたの立場なら写真など取らず真っ先に駆け寄ると思いますが。そもそも何故、妙齢のお嬢様が星間の自宅にいたのか理由をお尋ねになられたのですか」
川のように滑らかに流れる言葉に男がぐっと喉を鳴らした。苛々と足を揺らし、しきりに膝を指で叩いている。こうして乗り込んでくる割に沸点は低いようだ。
「うるせえな! 言い逃れされたくねえから証拠を押さえるために撮ったんだよ。あの場にいた理由なんて、そいつが誑かしたに決まってんだろ」
「星間はお嬢様とお会いしたことがないと申しております。仮に交際していたとして、それこそ証拠はお持ちですか」
「とぼけんなよ。そいつに街でナンパされたって聞いたぜ。一方的に言い寄られて付き合ったが、急に連絡が取れなくなったってな。そうだよな!」
女が頷く。視線は星間から逸らしたままだ。その表情は成層圏のように冷たく、昨日の印象とは真逆だった。あれが演技だったとすれば、とんだ大女優だ。そして、その術中にみすみす嵌った自分が嫌になる。
「そいつのせいで娘は男にびびっちまって、一人じゃ外に出られねぇって言ってんだ。どう落とし前つけてくれんだよ」
隣で星崎が小さく舌打ちをした。
ここまでくると彼らの魂胆がわかってきた。グルなのか、女に乗せられているのかはわからないが、男は星間から金を巻き上げようとしているのだ。
ズキズキと痛み出した頭に顔をしかめながら、中里を横目に見る。中里は表情を一切変えることなく、冷静に男たちを見つめていた。
「落とし前とはどういうことですか」
「落とし前は落とし前だよ。あんたもガキじゃねえならわかんだろ」
「こちらとしては法廷で争っても構いませんよ。世間様に後ろ暗いことは何もしていません」
キッパリと中里が言い放った瞬間、男がニヤッと笑った。最初に浮かべていたのと同じ嫌な笑みだ。
「これでもか?」
こちらが身構える間もなく、男が鞄から取り出したタブレットを机の上に置いた。
鈍器で殴られた衝撃とはこのことを言うのだろうか。
タブレットには髪を金色に染めた男が両手に女性を侍らせている姿が映っていた。歌舞伎町のギラついたネオンの中に、『ホストクラブ・スターシャイニング』というふざけた看板がかかっている。
ここは歌舞伎町の中でも特にタチの悪いホストクラブで、客を夜職に沈めて金を巻き上げる蟻地獄のような場所だった。
何故、知っているか? 星間はここのナンバーワンホストだったからだ。
写真に写っている金髪の男は間違うことなく星間自身だった。とうに封印した過去を容赦なく暴かれ、手のひらに汗が滲む。
中里は星間がホストだったと知っている。しかし、星崎は知らない。表面上は冷静さを保っているものの、目はしきりに写真の上を彷徨っていた。それもそうだろう。同僚が元ホストだなんて、どうして思うだろうか。
「裁判になれば、この過去も明らかになる。日の当たる場所では働きにくくなるだろうなあ。こいつを雇っていたあんたも道連れだよ。それでもいいのか?」
「私は彼の過去を承知で雇用しています。星間は真面目で優秀な社員です。手放す気はありません」
「あんたはよくても世間はどう思うかな。ネットってやつは怖いぜ。炎上したらITPだって口を出さずはいられないんじゃないか」
こちらの喉元に食いつかんばかりに男が大きく身を乗り出す。古びた革張りのソファが耳障りな音を立てた。
「ITP? ITPですか……」
中里は顎に手を当てて何かを考え込んでいるようだったが、やがて静かに口を開いた。
「示談をお望みなんですね?」
「社長!」
その場に立ちあがろうとしたが、すかさず星崎に肩を押さえられてしまった。星間より小柄なのにすごい力だ。
「こうなったのは俺のせいです! だから俺が……」
「こら、いらんこと言うな。お前は黙っとれ」
今度は口を塞がれる。どんなにもがいても振り払えないので、うめきながら必死に中里に視線を向ける。けれど、中里は一度も星間を見てはくれなかった。
「話が早いね。こちらの希望はこれなんだが」
男が指を三本立てる。三百万ということだろう。巨大星の利益があるとはいえ、中里エネルギーサービスには大きい金額だ。
なす術もなく星間が見守る前で、中里は狼狽えることなく泰然と頷いた。
「いいでしょう。ですが、ご覧の通り小さな会社ですから現金の蓄えがありません。明日銀行に参りますから、少々お待ちいただけますか」
「そう言って警察にチクるつもりじゃねぇだろうな」
「チクられて困ることでもあるのですか」
挑発的な言葉にニヤリと笑い、男は悠然とソファから立ち上がった。
「あんた、ここの社長にしとくのはもったいないな。また同じ時間に来るぜ」
退出する男に続いて、女もソファから立ち上がる。
去り際に星間を一瞥した目は、怒りの炎に燃えているように見えた。




