星崎直輝(3)
星崎の半生を一言で表すなら、忍耐。それに尽きる。
和歌山県の南部、一面に広がる海と夕陽が美しい漁師町が星崎の故郷だった。
家族は母親と生意気盛りの妹、そして犬だけ。父親はある日、漁に出てそのまま戻らなかった。海に落ちた仲間を助けるために身を投げ出し、命を落としたのだ。
今振り返ってみても、父親はよく人に尽くした男だった。寡黙ではあったが声を荒げたことは一度もなく、誰かが喜べば共に喜び、誰かが悲しめば一晩中でも寄り添っていた。
父親がいるだけで安心できる。そう言われることも少なくなかった。
葬式では大勢の人間が涙を流し、残された星崎たちを優しく支えてくれた。ただ、父親は死亡保険に入っていなかったので、貯金は目減りしていく一方だった。母親がどれだけ身を粉にして働いても、食べ盛りの子供が二人もいては、生活は一向に楽にならなかったのだ。
当時、星崎は中学二年生で、妹はまだ小学校に入学したばかりだった。少しでも家計を助けるために父親の漁師仲間に頭を下げ、学業の傍ら漁師仕事に精を出し、仕事から戻れば家事や妹の世話に勤しんだ。
青春に背を向けて朝から晩まで働く。そんな星崎の心を慰めたのは、図書館に並ぶ数多の物語だった。ファンタジー、SF、ホラー、純文学……現実では感じることのない夢や希望がページの中にはいつでも存在していた。そしていつしか、自分も物語を世に送り出す側になりたいと思うようになった。
とはいえ、日々食べるのにやっとの生活では金のかかる大学には行けない。寝る間も惜しんで勉強して奨学金返済不要の国立大学に何とか入学し、卒業後は大阪市内の出版社に就職した。
夢だった文芸誌に携われた時、今までの努力がようやく報われたと思った。
これからは好きな仕事をして金を稼ぎ、家族を養っていくのだ。そんな密かに抱いていた希望はすぐに打ち砕かれた。父親が海の藻屑になった時のように。
星崎が入社したのは日乃丸出版という、小所帯だが歴史の古い出版社だった。世に多くの作家を送り出し、電子書籍が主になった今も紙媒体に重きを置いていたところが琴線に触れ、入社を決めたのだ。
ただ、古きを良しとするということは、新しい風が吹きづらいということでもある。特に文芸誌は旧態依然としたやり方が蔓延していて、上司に逆らえない空気があった。
当時の上司は文芸誌一本でやってきた叩き上げで、いかに泥臭い修羅場を潜ってきたかを常に自慢し、部下に対する当たりがとてもきつかった。一言目には舌打ち、二言目には罵声、時には手が出ることもあった。
何人かいた同期の中でも特に目の敵にされたのは鈴宮だった。関東出身で物腰が柔らかく、女性社員に人気があったからだ。そんなくだらない理由で、鈴宮は毎日罵声を浴びせられるようになり、みるみる目の光を失っていった。星崎自身も、連日の深夜残業で心身ともに疲弊していた。
辞めたくとも、妹を思うと辞める選択肢はなかった。それに、せっかく叶えた夢に対する未練もあった。
今なら外部機関に相談したり、労基に駆け込んだりするのだろうが、当時はそんなことを考える余裕もなく、日々押し付けられる業務をこなすことだけで精一杯だった。上層部もなまじ実績を上げている上司には強く言えず、知らぬふりを決め込んでいた。
――このままやと、死んでまうかもしれん。
そう思いながらも働き続けていたある日、徹夜で詰めていた作家宅から戻った星崎は、いつにも増して酷い罵声を浴びせられている鈴宮を目撃した。
鈴宮も星崎と同じで養う家族を抱えていた。どうも長年、兄が重い病気と戦っていたらしい。上司の言葉はそんな精一杯生きている人間を貶すものだった。
「家族が何や! そんなくだらんもんに拘っとるから、いつまでも仕事がでけへんのや! この役立たず!」
鈴宮の顔が今にも泣きそうに歪んだ。その瞬間、頭の中で何かが切れる音がして、体が勝手に二人の間に割り込んでいた。
「役立たずはお前や、このボケナス!」
生まれてこの方、人に怒声を上げたのは初めてだった。父親を尊敬していたし、周囲からも父親みたいな人間になれと言われて育ったからだ。
周囲から悲鳴が上がり、上司の顔が茹蛸みたいに真っ赤になった。怒りが頂点に達した人間は小説みたいにわなわなと震えるのだと、どこか冷静な頭で考えていた。
「上司に向かって何ちゅう口を利いとんのや!」
返答は固められた拳だった。長年の漁師仕事で、ある程度は鍛えられてはいたが、いかんせん星崎は百六十三センチの小柄な体型。巨漢に組み付かれると勝ち目はない。すぐに床に転がされ、全身を強かに打ち据えられた。
「もうやめてくれ! 星崎が死んでしまう!」
霞む視界の先で、鈴宮が顔面蒼白で叫んでいたことだけは覚えている。
気づけば事務所を飛び出して、最寄駅だった新大阪から新幹線に飛び乗り、東京駅の片隅に座り込んでいた。持ち物はスーツのポケットに入れていたスマホと財布だけ。鈴宮と家族から何度も着信が入っていたが、とても出る気にはならなかった。
目指したのがどうして東京だったのか今でもわからない。どこか遠いところに行きたかっただけだったのかもしれない。ともあれ星崎は全てを投げ出して逃げ、家族たちの信頼も裏切ったのだ。
あの日は霧雨が降っていた。どこへ行く宛てもなく、ベンチに座ってぼんやりと外を見つめる星崎に声をかけたのは外回り中の中里だった。中里は星崎を自宅に招き、全ての事情を聞いた後、懇意の弁護士を紹介してくれ、家族との仲立ちも引き受けてくれた。
その頃にはすっかり夢を追う気も失せていた星崎は、上司から幾許かの示談金を受け取って会社を退職。滅多に帰らなかったアパートも引き払って、家族以外の連絡先を全て消した上で東京に引っ越した。
中里エネルギーサービスに転職したことは全く後悔していない。
だが、今も考えている。
上司に噛みついたあの時、星崎は父親を二度殺したのではないかと。




