第二回 ー記憶の門ー
湖上の風が、三人の頬をやさしく撫でた。
水面は鏡のように穏やかで、
遠くの塔が蒼い空をそのまま映している。
セイルが先を歩きながら、振り返って微笑んだ
「……この道の先に、
“記憶の泉”
がある。
リヴェリスの理はそこに宿る。」
レアは少し歩を緩めながら、水面に足を映した。
「“記憶の理”
って、どんな理なの?」
セイルは少し考えるように空を見上げ、
穏やかに答える。
「記憶とは――
“選ばれた痛み”
のことだ。
人は忘れたいものを忘れ、
忘れてはいけないものを心の奥に留める。
水の理は、その選択を見守るだけだ。」
「……痛みを選ぶ、か。」
レアが小さく呟く。
リュカは沈黙したまま歩いていた。
絵本のページがわずかに光を放ち、
風の流れに合わせて微かに震えている。
「……君の本、ずいぶん古いものだね。」
セイルがふと問いかける。リュカは頷いた。
「ずっと、持ってた。
でも……いつから持っていたのか、
思い出せないんだ。」
その言葉に、
レアとセイルは顔を見合わせた。
レアは微笑んだが、その瞳の奥には、
かすかな不安が揺れていた。
⸻
湖上の小道を抜けると、
巨大な水晶の柱がいくつも
立ち並ぶ神域へ出た。その中心に、
青く揺らめく泉――
“記憶の泉”
が静かに光っていた。
「……これが。」
レアが息を呑む。
泉はまるで空を抱くように広がり、
その表面には数えきれない
“記憶”
が映し出されていた。
笑顔、涙、祈り、そして別れ。
人の過去が、光の泡のように
浮かんでは消えていく。
「この泉は、理に選ばれた者の
“記録”
を映す。
君が触れれば、炎の記憶が現れるだろう。」
セイルが静かに言った。
リュカはゆっくりと膝をつき、
水面に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、水面が波紋を描き、
青から紅へと一瞬だけ色を変える。
「誓いは終わらない。
炎は命と共にある。」
紅竜ヴァルドの声が、
遠い記憶の中から響いた。
リュカの目に、
イグナリアの光景が映る。
燃え上がる王都、レアの涙、
そして――
自分が剣を振るった
“瞬間”。
しかしその映像は、
途中で霧に覆われる。
見えない。まるで
“誰かの手”
によって、その記憶の一部が
消されているようだった。
リュカは思わず水面を掴んだ。
「……どうして、
ここから先が――」
泉の光が一瞬強くなり、
彼の体を包み込む。
レアが慌てて駆け寄る。
「リュカ! 大丈夫!?」
セイルが目を細めた。
「……記憶の欠損。
理が
“拒絶”
している……?」
リュカは息を整えながら
立ち上がった。
「……何かが、見えなかった。
誰かが、俺の
“始まり”
を隠してる。」
レアはそっと彼の肩に手を置いた。
「無理しないで。
理が見せたくないなら、理由がある。」
けれど、セイルは静かに首を振った。
「……理は何も隠さない。
隠すのは――
人間自身だ。」
その言葉に、
レアははっと息を呑む。
「……じゃあ、誰が……?」
セイルは泉を見つめ、
低く呟いた。
「リュカ。
君の記憶は、焔の国よりも前から
“欠けている”。
この理の流れに入る以前から、ね。」
水面の紅が再び蒼に戻る。
波紋の中心に、ほんの一瞬だけ
“白い光”
が浮かんで消えた。
その光を見たレアは、
胸の奥で何かがざわめくのを感じた。
「……あの光、まるで
“白の理”みたい。」
セイルは目を伏せ、ただ静かに呟く。
「白の理――
それはまだ誰も知らない、
“第六の理”の名だ。」
リュカは息を飲んだ。
そして泉にもう一度視線を落とす。
波紋は消え、
水は再び静けさを取り戻した。
だが――
その底では、
確かに何かが動き始めていた。




