届きそうで、まだ遠い
一度この形で公開したので、、、やはり次話の冒頭に入れます。何度も修正してすみません
「……後で連絡先を教えて下さい」
トレーニングの合間にそう声をかけたのは、ほんの数十分前のことだった。
けれど、沙耶はもう後悔していた。
あの場面は完全に間違っていた。
蒼馬の反応も、あまりにしどろもどろで。声をかけられた本人も、どう返せばいいのかわからずに困っていたのが伝わってきた。
(なんで、あんなに注目される場所で……)
沙耶はジムの片隅でタオルを握りしめながら、そっとため息をついた。
──人として礼儀を尽くしたかっただけ。
それは確かに沙耶の本心だった。
チューブを買いに走り、息を切らせながら自転車を修理してくれたあの男の人に――けじめとしてお礼を言いたかった。ただそれだけ。
軽く何かを飲みながら、形式的に礼を伝える。
それで、終わり。
進展なんて、あるわけがない。
そもそも、この自分がそんなことを望むはずがない。
──私は、誰にも期待なんかしてない。
そう、自分に言い聞かせていた。
けれど――
「本日も、ご参加ありがとうございます! これより自由参加のペアトレーニングを始めます。参加ご希望の方はフロア中央へどうぞー!」
館内スピーカーから明るいトレーナーの声が流れる。
沙耶は少しだけ顔を上げた。
(自分には関係ない。今日は帰ろう)
と思った瞬間、視線の端で蒼馬がすっと立ち上がって、フロアの中央へ向かう姿が見えた。
(……また、あの人)
なぜだろう。彼の動きひとつで、自分のペースがほんの少し乱される。
参加する理由なんて、ないはずだった。けれど――
「……行ってみようかな」
つぶやくように自分に言い聞かせ、沙耶は立ち上がる。
フロアに足を踏み入れた瞬間、微かなざわめきが生まれた。
"鉄の女"、"高嶺の花"とジム内で噂される存在――沙耶が自らペアトレに参加するなんて。
だが、当の本人はそんな空気に気づいてすらいなかった。
沙耶とパートナーを組んだのはミカ。彼女は、最初からフレンドリーだった。
「沙耶さんって、いつもひとりでストイックに頑張ってて、ちょっと憧れちゃいます」
そう言って、ミカはトレーニングマットに手をつきながら笑いかけてくる。
「そういう人って、なんとなく近寄りがたいというか……でもこうして話してみると、意外と話しやすいかも」
沙耶は笑みを返すでもなく、ただ曖昧に頷いた。
慣れている。こういう“距離を詰める手口”には。
その後も、ミカは軽く雑談を交えながらトレーニングを進めていった。
沙耶は必要最低限の言葉だけを返しながらも、相手のペースに飲まれないよう努めていた。
だが、不意にミカが投げかけた言葉に、指先が一瞬ぴくりと止まる。
「……ところで、えっと、佐伯さん、でしたっけ? あの、この前沙耶さんの自転車を直してくれた人」
──心臓がひとつ、大きく跳ねた。
沙耶はトレーニングの動きを止め、無意識にミカの方を見ていた。
表情は崩さず、笑みを浮かべているその顔を。
(……なんで、そのことを知ってるんだろう)
あの日のことは、誰にも話していない。
そもそもあのやり取りは、ほとんど人の目につかない場所で起きた出来事だったはず。
沙耶は一瞬動きを止める。
「……ああ、はい。そうでしたね」
言葉を返すのが精一杯だった。
それ以降の会話は、すっかり形だけのものになった。
──なぜそれを知っているのか。
とはいえ、沙耶は考えても仕方のないことは考えないようにした。
トレーニング終了後、ペア同士が連絡先を交換する小さな輪ができていた。
スマホを出しながら話す声が飛び交う中、沙耶はふと、蒼馬の方へ歩み寄った。
「さっきは、突然で……ごめんなさい。タイミングも悪かったかも」
「い、いえ。僕の方こそ。びっくりしちゃって……どう返したらいいのか、分からなくて……」
蒼馬は少し照れたように笑った。
「よかったら、メールアドレス……交換しませんか?」
「メール……? あ、LINEじゃなくて?」
一瞬だけ、沙耶の表情がわずかに曇る。
ほんの一秒ほどの間だったが、蒼馬の目にははっきりと映った。
「スマホ、使い出すとどんどん時間が減ってしまうので……ガラケーに戻しました」
そう言って、沙耶はバッグから折りたたみ式のガラホを取り出した。
「……へえ。今どき珍しいですね」
変わっている。でも、そこに嫌味な感じはなかった。
むしろ、どこか浮世離れしたその沙耶の雰囲気が、蒼馬には心地よかった。
「えっと……藤沢沙耶さん、ですよね?」
「はい。佐伯蒼馬さん、で合ってますか?」
互いの名前をはっきりと確認する、それだけのやりとりが、不思議と胸に残った。
──人としての礼儀。それ以上でも以下でもない。
──けれど、なぜだろう。さっきよりもほんの少しだけ、心が柔らかくなっている気がした。
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