声の距離、心の間合い
平日の夕方、ジムのフロアにはいつもより少し活気があった。蒼馬は一人、ストレッチゾーンの片隅で黙々と肩回りの可動域を確認していた。
──今日こそは。
沙耶は、心の中で何度目かになる決意を繰り返していた。
あの日、自転車のチューブを買いに走り懸命に修理してくれた男。
無駄に話しかけてこない、不器用だけどまっすぐなその姿が、不思議と記憶に残っていた。
「…ちゃんと、お礼、しなきゃ」
誰に聞かせるでもなく、そんな言葉をつぶやいている自分に驚いた。
自分は「鉄の女」。ジムでは誰とも馴れ合わず、笑顔もなく、トレーニングだけに打ち込むストイックな存在。
──そう周囲に思われていると自覚しているようで、実は本当のところはあまりわかっていなかった。
だからこそ、その「自分」が、蒼馬に声をかけた瞬間。
「えっと……この前は、ありがとうございました。」
その場の空気が、ピタリと止まった。
視界の端でストレッチしていた男性がフォームを崩し、女性がトレッドミルの速度を落とし、筋トレエリアにいた若者がダンベルを握る手を止める。
ざわついたわけではない。ただ、空気が一瞬、揺れた。
蒼馬は一瞬「自分が呼ばれたのか」と思った。
彼女は真っ直ぐにこちらを見ている。あの、鉄壁のような女性が。
「……あ、え、あの、いや……全然、大したことじゃ……」
見事なまでのしどろもどろだった。
沙耶はそれを見て、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
「⋯後で連絡先教えて下さい。」
沙耶はそれだけ伝えると肩の荷が下りたように自分のメニューに戻っていった。
ザワつくジム内。
その光景を遠くから、視線を送るある女性会員。
ミカ──小悪魔的な雰囲気をまとい、いつも周囲の空気を読んで行動する彼女が、ジムのラウンジスペースの柱の影からこちらを見ていた。
「ふぅん……」
そんな小さな声が、誰にも聞こえないようにミカの唇から漏れた。
その目は、まるでおもちゃを取られた子どものように曇っていた。
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