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名も知らぬ余韻

夕方、ジムの駐輪場

いつも通り、ひと汗かいてロッカールームを出ると、駐輪場の端に見知った横顔が見えた。


(……あの女の人だ)


名前も知らない。だが、何度か見かけたことのあるあの人。

背筋を伸ばし、淡々とマシンをこなしていた姿が、やけに印象に残っていた。


彼女が、自転車の前で立ち尽くしていた。


「……パンク?」


思わず呟いた言葉に、本人が気づくはずもない。

前輪のタイヤは明らかに沈んでいた。

無表情のまま自転車を見下ろすその顔は、どこか遠い。驚きや苛立ちの感情すら見えない。


(普通なら、もうちょっと困った顔とかするもんだよな……)


なのに、彼女は違った。まるで「こんなこと、よくある」とでも言うような達観した空気。

むしろ、日々の延長にある小さなアクシデントとして受け入れているようにすら見える。


(でも……)


声をかけようか迷った。

迷って、やめようとした。

けれど、気づいた時には、足が向かっていた。


「……あの」


振り返った彼女の視線が、蒼馬の胸を少しだけ締めつける。

冷たいわけじゃない。けれど温度がない。そこに情感がほとんど乗っていないような、空白の視線。


「あの、パンクですよね? チューブとか、持ってます?」


「……今日に限って、ないんです」


淡々とした返答。それでも、蒼馬は食い下がった。


「じゃあ、レバーとポンプは?」


「それはありますけど……」


「……なら大丈夫です。近くにホームセンターがあるんで、買ってきます。少し待っててもらえますか?」


言い切った瞬間、自分でも驚いた。


タイヤののサイズを確認する蒼馬。

彼女は「良いですよ、押して帰るので…」と言いかけるが言葉が出る前に先に、蒼馬の体が動いていた。


【ホームセンターまで】

走りながら、ずっと考えていた。


(なんで俺、こんなことしてるんだ……)


軽く息が上がる。汗が額を伝う。

思えば、ジムでのトレーニングなんかより、よっぽど“実戦”だ。


(……でも、なんか、こういうのも悪くない)


チューブのサイズを確かめて、レジに並び、袋を握りしめて走る帰り道――

ふと頭をよぎったのは、将棋の「角が成って馬になる」イメージ。


(もうちょっと、自分を前に進めたっていいじゃないか)


再びジム駐輪場。

駐輪場に蒼馬が戻った時、両足が絡んで両手を挙げたままつんのめる様によろけた。


一瞬沙耶の口元が緩むが、すぐに元の”仮面”に戻る。


恥ずかしい。けど――彼女の顔が一瞬だけ緩んだのに気づき、それが逆に蒼馬を安心させた。


「チューブ、合ってるといいんだけど……」


息を整えながら、慎重に作業を始める。

ロードバイクに乗っていたのは独身時代のもう十数年前。完全に忘れたわけじゃないが、記憶を頼りに手を動かすしかない。


(俺が直せるのか?彼女の自転車を。落ち着け。パンク修理なんか何度も道端でやってきた)


汗で前髪が額に張り付く。息を吐きながら、地面に膝をつき、慎重にリムを外していく。

軽く手が震え、一つ一つの動作がぎこちない。けど、それでも懸命に。


彼女は黙って見ていた。表情は読めない。

けれど――逃げなかった。

それが、何より嬉しかった。


タイヤに空気を入れ、最後の確認をして立ち上がった蒼馬は、手の汚れをタオルで拭いながら、うっすら息を吐いた。


「……大丈夫だと思います。とりあえず応急処置はできたので、明日か明後日にでも、ショップで点検してもらえれば」


彼女はハンドルを握り、ほんの一瞬だけ目線を落としてから、淡々と口を開いた。


「助かりました。……チューブのお金もあるし……お礼、させてください」


一歩、間合いを詰めたかと思うと、すぐに距離を戻すように視線を逸らす。

その声音には、“丁寧な礼”以上の温度はなかった。


(ああ、これは社交辞令だな)


そう、蒼馬は咄嗟にそう判断した。


(お礼って、たぶん…形だけの。義理堅い人なんだろう。深く踏み込まないほうがいい)


「いえ、全然。僕も久しぶりにパンク修理しましたけど、ちょっと楽しかったです」


笑ってごまかすように言って、チューブの袋を片づけながら目線を合わせなかった。


そうしてしまった。


ふたりの間に、名前も、連絡先も、何も交換されることはなかった。



その夜、蒼馬はシャワーを浴びたあと、冷蔵庫から缶ビールを一本取り出してベランダに出た。


風が少しだけ涼しくなってきた初夏の空。

グラスに注がず、缶のまま一口飲み、ぼんやりと宵の空を見上げる。


(名前くらい……聞けばよかったのかな)


頭を冷やした今になって、さっきの場面が脳裏に何度も再生された。


(お礼……って、あれは本当に社交辞令だったのか?)


彼女のあの声。あの目線の揺れ。


もしかしたら、もう少しだけ、自分から手を伸ばせていたら。

もう一言、勇気を出していれば。


(何やってんだ俺……期待するなよ)


ビールの泡が喉を滑っていく感覚さえ、やけに虚しい。

結局、自分は何も変わっていない。

また、臆病なままの自分がそこにいることに気づいて、苦笑いするしかなかった。


彼女の見た目が気になって勢いで反応してしまった。

"綾香"の事はとっくに振り切ってるつもりだった。



一方――彼女、沙耶は帰宅後、クロスバイクを玄関に押し込み、静かに鍵を掛けた。


脱衣所で服を脱ぎ、いつもより熱めのシャワーを浴びる。

肩の力が、ゆっくりと湯の流れに溶けていく。


(……名前も聞かれなかった)


タオルで髪を拭きながら鏡を見つめる。

自分の表情が、どこかこわばっているように見えて、眉根を寄せる。


(言い方……固かったかな。もっと、自然に言えれば……)


「助かりました。お礼、させてください」


あの言葉が、どこか無機質に響いていたのは自分でもわかっていた。

けれど、そうするしかなかった。


心を開くには、まだ時間が足りなかった。


(でも……)


最後、彼が転けそうになったとき、ほんの少しだけ、笑ってしまった。


そのことが――今は、少しだけ後悔ではなく、温かい記憶になっていた。


こうして、

“名前も知らないふたり”の距離は、ほんのわずかだけ近づき、

同時に、“一歩を踏み出せなかった”ことが、ふたりの胸に小さな種のように残っていた。

沙耶が持っていたポンプは携帯性に優れるCO2ポンプです。通常の携帯ポンプでも良かったのですが、不自然に感じたので・・・CO2ポンプがあるのに、チューブを持っていないというツッコミは軽く流せてもらえれば。(こうしないと話が進まないので)


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