錆びついた身体、揺れた心
日曜の午後。
曇りがちな空の下、蒼馬はジムの前で一呼吸おいた。
真新しい外観、ガラス張りの自動ドア、その向こうに見える受付と明るい照明。
ジムといえば汗臭いイメージだったが、実際の中はどこかホテルのロビーのように清潔で、スタイリッシュだった。
受付に立っているのは若いスタッフ。
笑顔で「見学ですか?それともご入会ですか?」と訊かれ、「あ、えっと……入会で」とぎこちなく答える蒼馬。
タブレットで情報を入力しながら、スタッフは手慣れた口調で説明を進める。
「ロッカーは男女で完全に分かれてまして、トレーニングエリアとフリーエリアはこちらになります」
案内される間、ジム内を見渡すと、筋骨隆々の若い男性や、スタイルの良い女性が黙々とトレーニングに打ち込んでいた。
(…場違いなところに来てしまったかもしれないな)
そんな思いが一瞬頭をよぎる。
けれど、その気後れを誤魔化すように、蒼馬は口角を上げた。
(大丈夫だ。何かを変えたくて来たんだ。まずは一歩。)
インストラクターによる簡単なオリエンテーションを受けた後、ランニングマシンに乗って軽く汗を流す。
設定した時速は7キロ。自分のペースで、リズムよく走る。
ランニング中の鏡に映る自分の顔は、少し息が上がっていたけど、妙にすっきりした表情だった。
そのときだった。
視界の隅に、静かにストレッチをしている女性の姿が映った。
落ち着いた色のTシャツに黒いレギンス。高い位置でひとつに束ねられた髪。
化粧っ気はほとんどないけれど、輪郭がはっきりしていて、整った横顔。
思わず目を止めた自分に驚いて、すぐに視線を戻した。
(……印象的な人だな)
それが、後に人生を共に歩むことになる “藤沢沙耶”との最初の記憶だった。
初回トレーニングの筋肉痛
翌朝、布団から起き上がった瞬間、蒼馬は思わず呻き声を漏らした。
「……っ、いててて」
脚、腕、背中、まんべんなく筋肉が張っている。
特に階段を降りるときの太ももは、もはやギャグのように痛い。
昨日、マシンの使い方をインストラクターに一通り教わり、気を良くしてベンチプレスやラットプルダウンまで調子に乗って挑戦したのが原因だった。
「久しぶりに体を動かすって、こんなにキツかったか……」
夕食後、父と将棋を一局指すのが恒例となっていた。
「筋肉痛か。年取ると2日後にくるぞ」
と言いながら駒を指す父。
「それ、笑えないんだけど……」
と言いながら次の一手を指す蒼馬。
「ほい、王手飛車取り」
「もう~親父強すぎるんだよ〜」
そんなやり取りを母はキッチンからそっと見ていた。
父とふたりで軽く笑いながらも、蒼馬の内心にはどこか充実したものがあった。
久しぶりに感じる、前向きな痛み。
思えば、離婚してからずっと「無理をしない」ことを自分に課してきた。
無理して傷つくくらいなら、何も望まない方が楽だと。
でも今は――この痛みの先に、少しでも何か変化があるなら、続けてみたいと思った。
ふと、昨日見かけたあの女性の姿が頭に浮かんだ。
(……また、会えるかな)
そんな淡い期待を胸に、蒼馬は湿布を貼りながら、今日もジムへ行く準備を始めた。
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