崩れる城と、新しい拠り所
すいません、蒼真が蒼馬になりました(投稿前に修正するのを忘れました)理由は将棋が好きなので⋯角成の馬を使ったほうが自分的にしっくり来ました。今後も見守っていただければと思います。
一週間後。
スーツケース一つとリュックを抱えて、蒼馬は実家の門をくぐった。
「ただいま。……ちょっとだけ、世話になるよ」
「何言ってるの。何年でも居てくれていいのよ」
母が言った瞬間、蒼馬の胸に何かがこみ上げた。家の匂い、窓の角度、仏壇の前に座る祖母の写真。すべてが懐かしく、そして寂しかった。
昔の自分に戻ったようだった。
ただいまと言えば迎え入れられ、朝食が出てきて、夜はテレビを見て笑っていればいい。確かに楽だった。けれど、それは“大人”としての人生ではなかった。
夕方、こたつに足を入れたまま、蒼馬は親友の匠にLINEで報告した。
電話がすぐにかかってきた。
「は? 証拠握ってたんだろ? 裁判すりゃ慰謝料取れただろ」
「……もういいんだよ。争う気力がないんだ。それに綾香から慰謝料はもらいたくない。それが俺の小さなプライド」
「……あー、そっか。そういうとこ、お前らしいわ」
「……でもな、勝ったところでどうせ綾香は”慰謝料払ってハイサヨナラ”って言うよ。それに、家のことも妻のケアもしなかった男が今さら泣き言言うなって。そう言われる自分が目に浮かぶんだよ……」
どこまで行っても綾香のほうが一枚上だった。
冷静で、計算高く、戦略的。
世間の同情も、ブランドの信頼も、綾香が全部持っていく。
不倫&離婚妻という炎上案件も綾香なら武器にできる。そんな想像が容易かった。
蒼馬はこたつにうつ伏せになりながら、ぼそりと呟いた。
「俺さ、ほんとは……あいつと、狭いアパートで一緒に笑ってた日々が、
いちばん好きだったんだよな。あれが全部、最初から嘘だったのかな」
――いや、嘘じゃなかった。
ただ、変わってしまったんだ。成功と環境が、人を変えていく。
そしてそれに気づけなかった自分が、一番の敗者だった。
夜。自室の天井を見つめながら、蒼馬は思う。
「もう二度と、女性を信じられないかもしれない」
ーーーーーー
29歳で実家に帰り、37歳まで。
気づけば、8年という月日が流れていた。
結婚生活の終わりとともに退職し、燃え尽きるような日々を送ったあと、蒼馬はかつての仕事で得たスキルを活かして、小さな会社に再就職した。
以前のような激務やプレッシャーはなかった。収入は減ったが、そのぶん自由な時間が増え、心に少しずつ余裕が戻ってきた。
両親は、離婚して戻ってきた蒼馬を責めることはなかった。
むしろ「また家族でやっていこう」とでも言うように、静かに寄り添ってくれた。
そんな両親の想いと蒼馬が入れる生活費もあって、実家は新築に建て替えられた。
「いつかお前が再婚してくれたら、二世帯にすることもできるからな」
父の言葉に、蒼馬は曖昧に笑った。
この8年、何もしてこなかったわけではない。
婚活は続けていた。合コンに誘われれば顔を出し、マッチングアプリにも登録した。
だが、“実家住まいの長男”というレッテルが、思っていた以上に重かった。
相手の女性に自分の現状を話すたび、目に見えない壁が生まれるのを感じた。
――たしかに、俺が女だったら、警戒するかもしれない。
それに、どんな女性と会っても”綾香”が脳裏に残って比べてしまう。
そんな自嘲すら、いつしか日常の一部になっていた。
思い描いていた未来と、どこかズレてしまった現在。
それでも、両親との穏やかな日々に救われていたのは事実だった。
このまま、結婚できなければそれはそれでいいのかもしれない――
親が老いたら自分が支え、三人で生きていくのも、悪くはない。
そんな風に、折り合いをつけようとしていた。
だが――
そんなある朝だった。
リビングのテーブルの上に、郵便物や新聞と一緒に一枚のチラシが紛れていた。
「〇〇スポーツジム リニューアルオープン」
鮮やかな文字と、スタイリッシュな内装の写真が目に飛び込んでくる。
(ジムか……)
しばらく遠ざかっていた言葉だった。
昔は走ったり、汗をかいたりして、自分の中のもやもやを整理していた。
身体を動かすことで、前に進める気がしていた。
しかし、ジムに行ったからといって、何かが劇的に変わるわけじゃない。
それでも、何も変えないまま歳を重ねる方が、もっと怖かった。
何より――
その裏側にはほんの少しの下心もあった。
「出会いがあるかもしれない」
それがきっかけでも構わない気もした。
蒼馬は、チラシを手に取って、しばらく眺めた。
何の予定もない日曜の午前。
差し込む日差しの中、まだ温かいコーヒーの湯気が立ちのぼっていた。
(……行ってみるか)
そう思えたこと自体が、久しぶりに自分の中に小さな火が灯った瞬間だった。
数日後、蒼馬はジムの自動ドアの前に立っていた。
その先に、彼の人生を大きく変える「彼女」との出会いが待っているとは、このときはまだ知る由もなかった。
プロローグ終了です。次回から本編が始まります。お気に入り登録&感想も励みになります!今後も更新します!