大鹿様の奇跡
セーラとミナ、護衛の男は恐ろしの森の深くへと進んでいた。
ミナから握られた手に残った爪の痕を摩りながらセーラは歩いていた。
雲が空を覆いはじめてきた頃だった。
「ちょっと、休憩しよう」
息を途切れ途切れにさせながら、セーラはミナに言った。
セーラの体はなぜか重くなり、抗いようのない眠気が襲ってきたのだった。
ピーチティーの香りがふわりと香る。
クタクタになったセーラは枯れ切った朽ち木にもたれかかるように倒れた。
「ミナ……、待って……」
セーラの声はミナと護衛の男には聞こえなかった。
(お願い、待って……)
セーラの願いも虚しく、二人の落ち葉を踏む足音が遠ざかっていく。
セーラはそこで意識を失った。
「冷たい……」
セーラは頬に冷たさを感じ、目を覚ます。
雨が降ってきたようだった。
頬にノワのしっぽがブルブルと震えて触っていた。
手でノワを包み込むように暖めた。
ノワが体を添わすように寄り添ってくる。
起きあがろうとすると首を痛めたのか、頭の付け根にジンと痛みを感じた。
「帰らなくっちゃ……」
セーラは足元をふらつかせながら歩き出した。
雨粒がセーラの体をつたって、体温を奪う。
「ノワ、中に入って」
セーラは震えるノワを胸元に入れた。
岩肌を左手でつたいながら歩く、右は斜面になっていて草木が傾斜に沿って生えている。
道幅が徐々に狭くなって、人一人がやっと通れるほどの場所まで来てしまった。
「帰らないと……」
セーラの頭の中はそれだけでいっぱいだった。
目の前を見ているようで見ていない、セーラの意識は遠い昔の温かな記憶を見つめていた。
アップルパイを暖炉の前で頬張っていた時のことを思い出す。
「ノワ……ごめんね、私のせいで。……帰ろう」
ノワの小さな温もりがセーラの進む気力になっていた。
雷がゴロゴロと鳴り出した。
このままだと土砂崩れに巻き込まれるという、嫌な想像が頭をよぎった。
無意識に足早になって進む。
右足を前に踏み出した時だった。
ビシャーーン!!!
眩しい光がセーラの視界を奪った。
稲光が空を駆け、少しも時間のたたないうちに轟音が地響きと共に襲ってきた。
振動によって、セーラが捕まっていた岩にヒビが入って足元が崩れた。
岩が斜面を転がり落ち、草や木の幹をバキバキと引き裂く。
セーラは転がり落ちながらその音を聞いていた。
肌に枝が突き刺さり引き裂く感覚もあったが、その痛みさえ感じることはなかった。
ノワを守ろうと左手で胸を抑える。
右手で無我夢中で何かに捕まろうと手を伸ばした。
まだ幼い若木に掴まることができた。
ジリジリと雨で手が滑る。
その若木を放すまいと両手で掴み、ぬかるんだ斜面に足をかける。
体を引き上げようと力んだときだった。
「あっ!!」
若木が根っこから抜けて、再びセーラは斜面を転がり落ちた。
落ちた先には川が流れていて、土砂の混ざった激流の中へと放り出された。
(ノワお願い……! 死なないで!)
水の中、胸の中にいるノワの温もりが弱くなっていくのを感じた。
周りの音が静かになった時、川を流れる水の流れが止まった。
灰色の雲が空を覆っていたのが嘘かのように、青空が垣間見えた。
水に埋もれたセーラの元へ、何かが近寄る。
光に包まれたその何かに道を開けるように、水が避けていった。
川底が青空の下に晒される。
宝石が輝くように煌めく川底を、蹄が叩く音が水面に響く。
光る何かがセーラの目の前に立った。
朦朧とした意識の中、あまりにも眩しい光にセーラは水の中で目を開いた。
「大鹿様……?」
目の前の光の影がこちらを見ているのがわかった。
大鹿様の角の影がむくむくと伸びていく。
角の先の葉が蔓のように変形し、セーラの方に伸びてきた。
大鹿様はセーラの体を優しく掘り出すように、水の中から救い上げた。
持ち上げられたセーラの頬が太陽の光に照らされる。
ゆっくりとセーラの体は大鹿様の背中に乗せられた。
大鹿様の背中は小麦畑のように金色に輝いていた。
(誰かに運ばれている……?)
セーラが揺れる振動に気づいて、目を覚ました時。
大鹿様は少し振り返り、微笑んだように見えた。
すると、大鹿様の体はだんだんと光が分散するように薄れていった。
セーラを背中に乗せたまま、川岸に乗り上げるとそのまま消えるようにセーラを小石の河原に下ろした。
初めて大鹿様に出会ったセーラは、夢から覚めた時のような余韻に浸って、しばらく河原に座り込みポカンと空を眺めていた。
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