第9話
その日からまた会えるまでの時間は、私にとって感じたことのない幸せな時間だった。あの時のことを思い出すだけで体が簡単に熱くなる一夜一夜を重ね、かすみさんへと近づいてゆくのを感じていた。
そして四日後、あの日から初めての家庭教師の日。チャイムが鳴ると私は部屋を飛び出して玄関へ走った。
ガチャ……
「かすみさん!」
「こんにちは……」
扉を開けて現れたかすみさんは、私と正反対の顔をしていた。
「かすみ、さっき電話したんだけど」
「ツグちゃん!」
私の後ろから聞こえた声に、かすみさんは突然嬉しそうに顔を上げた。
ついさっきまで今日の空のように晴れ渡っていた私の心の中に、冷たい雨が降り出した。
「ごめんね!全然気づかなかった!なに?なんの用だったの?」
そんなことに気にもしないかすみさんはツグミに必死にシッポを振っている。
「いや、来る時にコンビニでアイス買ってきてもらおうと思っただけ」
「そうだったんだ……ごめんね!今、私買ってくるから!」
「いいって、下僕じゃないんだからさ。かすみは雨に勉強教えてやって。今日はそのために来たんだから」
「……そうだね」
断られて残念そうにするかすみさんは、すぐ側を通り過ぎて玄関から出てゆくツグミの横顔を目で追っていた。私は強く拳を握りながらその姿を見つめていた。
ツグミがいなくなると私達は部屋に入り、いつもの椅子に並んで座った。二人きりになり不機嫌を隠しきれない私に気づいてしまったかすみさんは、後ろめたさからか突然明るく振る舞いだした。
「あれ?雨ちゃん、髪切った?」
「前髪だけ」
「そっか!前髪違うだけでだいぶ雰囲気違うね。ちょっと幼くなったみたい」
「……かすみさんはガキは嫌いですか?」
「ガキって、雨ちゃんのこと?雨ちゃんのことはもちろん好きだよ」
「好きって、どうゆう好きですか?」
「……好きは……好き、だよ。」
「じゃあ、ツグミと同じ意味?」
「それは………」
分かってるくせに、私は自分で自分の傷口を開いてしまった。
「雨ちゃん、話があるの。こないだのことだけど私……」
「聞きたくないです」
私が強く静止しても今日のかすみさんはこないだのように驚くことはなく、構わずに話を続けた。
「私、雨ちゃんに酷いことした。ごめんなさい。やっぱり私は……」
「聞きたくないって言ってるじゃないですか!」
聞きたくない話をやめてくれないかすみさんへ怒りをぶつけるように、さらに声を荒げてしまった。かすみさんはそれでもまだ申し訳なさそうにする。
「……大きい声出してごめんなさい。分かってるんです、かすみさんが言おうとしてること。こないだは、魔が差しただけなんですよね。いくらツグミと私が似てるからって、かすみさんが好きなのはツグミだから。私じゃないから……」
かすみさんは否定しなかった。
「初めから雨ちゃんに恋すればよかったのにね……そしたらきっと私、幸せになれたのに」
かすみさんが本当に酷いことを言うので、私は何も言えなくなった。
「私、家庭教師辞めた方がいいよね」
「そんな!辞めないで下さい!」
「でも、あんなことしといて私が教える資格なんてもうないし、側にいたらきっとそのうち雨ちゃんは私のことを憎んで嫌いになると思う……。勝手かもしれないけど私、雨ちゃんに嫌われたくないの」
かすみさんの言う通り、私も勝手だと思った。だけど、そんなズルいかすみさんのセリフにも私の心は反応してしまう。
「私はかすみさんのこと、絶対に憎みも嫌いにもなりません。好きで好きでどうしようもないのに」
「雨ちゃん……」
「だけど、かすみさんを困らせるならもう二度と好きだなんて言いませんから……。だから、お願いだから辞めるなんて言わないで下さい。お願いします……」
この人が側に居ればきっとその方が辛いはずなのに、私にはその道を選ぶことしか出来なかった。
ガチャ……
突然部屋の扉が開き、私とかすみさんは思わずシャンとして振り返った。
「なに二人で深刻そうな顔してんの?」
アイスを食べながら入ってきたツグミが半笑いで言う。
「だから!ノックしてよ!」
「ノックしないとまずいことでもあんの?」
「……そうゆうわけじゃないけど……」
「じゃーいいじゃん。はい、コレ」
ツグミは私とかすみさんの分のアイスを渡すと挨拶もなく出て行った。その後ろ姿を見つめるかすみさんのことは、もう見ることが出来なかった。