第3話
かすみさんが出ていき一人になると、私はベッドに背中から倒れて天井の柄を見つめた。私だってこの夏休み、何も考えてなかったわけじゃない。
ツグミは勉強が出来るから、ツグミがお母さんに勉強しろなんて言われてるところなんて見たことない。受験生の時期なんてあったのかってくらいなんなく難関大学に受かって、悠々自適に過ごしてる。
夏休み前の三者面談で、担任の藤咲先生がお母さんに余計なことを言うからだ。私の成績は一年の頃から順調に下降を辿り、今や学年でトップテンを競うほどに劣等生の代表になっていた。このままじゃまずいと自分でも多少焦り、そのうちなんとかしようと思ってはいた。だけどタイミング悪く、なんとかする前にリアルな現状がお母さんにバレてしまったのだ。
お母さんは今まで、それほど成績にうるさいわけじゃなかった。だけど、藤咲先生が脅すようなことを言ってくれたお陰で、お母さんはまんまと迷える信者のように、藤咲先生の言葉を鵜呑みにするようになってしまった。
「進学が無理なら就職しますから」
面談の最中、怪訝な顔をする二人の大人に囲まれ面倒になった私は、会話に横槍を入れた。それが逆に火に油を注ぐことになった。
「就職が進学よりも楽だと思ったら大間違いですよ?」
藤咲先生はその一言で私を簡単に仕留め、お母さんに向かって本題を話し始めた。
「まさに今日お伝えしたかったのはそのことなんです。お母さん、今の雨さんの成績では、はっきり言って進学どころか就職も難しい状態です。確かに、就職を望む生徒には学校から就職先を紹介することは出来ます。ですが、企業も昨今の不景気です。いくらパイプがあるにしても、あまりにも成績の悪い生徒を取ってくれるほど余裕があるわけではありませんから……」
深刻に語る藤咲先生の話を聞いたお母さんは、私の近い将来を唐突に案じ、今さら娘の教育に目覚めたのだ。
私自身、藤咲先生の話を聞いて少しはビビった。生まれてたかが十六年で、私はそんなにも社会の底辺に属する人間になっていたのか。進学は別としても、就職出来ないとなるとそれは困る。馬鹿なくせに、高校を出てバイトで生きてくなんてことはプライドが許さなかった。
それは世間へのプライドじゃなくて、ツグミへのプライドだ。そんなことになったら、ツグミへの完敗は確定する。だからこの夏休み、なんとか挽回しなきゃいけないと本当に考えてはいたのだ。
そうは思っても、とことん要領の悪い私は、まず何から始めたらいいのか、それすら分からなかった。そうやって悩んでいるうちにふと気づけば催眠術にかかったかのように手にはマンガを持っていて、そんな時に限ってノックもせずに入ってきたお母さんにそれを目撃される。結果、私はなんにも考えていない危機感ゼロの馬鹿娘に映る。
まぁ否定は出来ないんだけど。
「あの人も頭いいんだなぁ……」
私は隣のツグミの部屋にいるかすみさんのことを思い出しながら、一人呟いた。
ツグミの大学は全国でも五本の指に入る、有名大学で、浪人して入っても自慢出来るレベルだった。そこで出会ったかすみさんも、当然それほどの頭脳ってことだ。
私の中には、かすみさんならいいかな……という気持ちが少しづつ生まれ始めていた。結局、このままいけば強制的に何かしらの制裁を受けるだろう。
気が落ち着かない塾や予備校に行かされるとか、どこの誰とも知れない人に家庭教師をされるとか、そうなるくらいならかなりマシなんじゃないか?
得意の消去法が頭を巡った。
「じゃあツグちゃん、今日はありがとう。雨ちゃんにもよろしくね!」
「うん、色々悪かったね」
部屋の外からかすみさんが帰るらしいやり取りが聞こえた。来てからまだ一時間ちょっとしか経っていない。いつもは余裕で暗くなる頃までいるのに。私は慌ててドアを開けた。
ガチャッ
「あっ、雨ちゃん!」
私が何かを言う前に、かすみさんの方から声をかけられた。同時に振り返ってきたツグミの存在を無視して、私はかすみさんに尋ねた。
「……もう帰っちゃうんですか?」
「うん。今日はこの後バイトだから。今度はもっと話そうね!」
「かすみ忙しいのに、バイトまでの少しの時間を使ってわざわざ来てくれたんだよ」
ツグミが私に罪悪感を持たせるような言い方をする。
「そんな!ツグちゃん大げさだって!」
私はまたツグミをスルーして、かすみさんだけを見て言った。
「あ、あのかすみさん、よかったら……やっぱり私に勉強……教えてくれませんか?」
かすみさんは驚いた表情でツグミを見た。ツグミはひょうひょうとした顔でかすみさんに任せるような素振りをする。
「雨ちゃん、本当にいいの……?」
「はい。かすみさんがよければお願いします……」
私は頭を下げて返事を待った。
「嬉しい!!喜んで務めさせてもらうね!」
「ありがとうございます……」
「こちらこそ!」
「かすみ時間ないでしょ?また詳しいことは電話するから」
ツグミがかすみさんを気遣うとかすみさんは腕時計を見て、難しい顔をした。
「うん、ごめんね。じゃあ雨ちゃん!これからよろしくね!」
その人は玄関を開けると、燦々と照りつける太陽の中、眩しそうな笑顔を残して帰っていった。