3-7 亀千代先生による初めての算数教室
読んでくださり、ありがとうございます。
○この回の主な登場人物○
御神野 緋凰(通称 凰姫)……主人公。この国のお姫様。六歳
御神野 律ノ進 煌珠……緋凰の父。お殿様
亀千代……緋凰の従兄。十歳
瑳矢丸……緋凰の世話役。八歳
百敷 喜左衛門 博楽……重臣の一人。文系の人
本丸表御殿にある書庫は、書物や資料が所狭しとぎっしり並べられていて、なおかつとても広い。
御神野一族は、ほとんどの者が読書を一つの趣味としている為、贈答だったり個人で入手したり等、さまざまな理由で城の敷地内にある書庫には膨大な量を所有している。
なおかつ、快適に書を読めるような空間まで設置してある書庫なので、研究者といったような知識欲が満載の者達にとって、垂涎の建物なのである。
整然と並ぶ書物を物色している亀千代の元へ、一冊の書が横から差し出された。
「こちら等いかがでしょうか。兵書として読むには、少々難解であるかもしれませんが……」
「ありがとうございます、先生。一度読んでみます」
笑顔で受け取った亀千代を見て、百敷喜左衛門博楽も微笑むが、わずかに思案した後に少し問いかけてみる。
「亀千代様。私の知識は、貴方様の将来でお役に立ちますでしょうか?」
百敷の妙な質問に亀千代は訝しむが、すぐに笑って返事をする。
「もちろんです、全てが役に立ちますよ。……父上ですか?」
察しのいい生徒に、小さく息をついた百敷は白状する。
「元服は早くでよいとおっしゃったとか……。亀千代様は何かやりたい事がおありなのか、気になっておいででした」
先日つい、父である天珠の前で口に出てしまった言葉だが、相手が酒に酔っていたのでそのまま忘れると踏んでいた。
考えが甘かったと、亀千代は慎重に訳を話す。
「たしかに、やりたい事はあります。ただ……まだ早いと分かってはいるのですが、あの時は気が急いてしまって……」
目をそらして気まずそうにしているので、百敷はふふっと笑んだ。
「このような時代ですから焦る事も仕方のない事かと。……それでも、亀千代様が生き急ぐのはもったいのう思います。大人にはいつでもなれますゆえ、今はその『子供』でしか成し得ない事を存分におやり下さい」
「はい。……肝に銘じます」
ここで深く追及しない所がこの人らしい、と亀千代は心地よく思いながら軽く頭を下げた。
すると、百敷の後ろから声が掛かる。
「失礼致します。百敷様、殿が御成です」
「え? 殿がこちらに?」
与太郎を確認して百敷は急いで書庫を出てゆくと、亀千代も慌てて後を追う。
書庫を出た所で、たしかに煌珠が緋凰と瑳矢丸を伴って立っていたので、百敷はそのまま礼をとった。
「殿みずからお越し頂きまして。どのような御用命でしょう」
その言葉を聞いて、煌珠は緋凰を百敷の前に押し出す。
「百敷、今日からここの二人に学問を教授してくれ」
この命に瑳矢丸は驚いた。
なぜなら百敷は、この国において最上級の博識を持ち、人格者と名高く、主に文系男子が尊崇してやまない男だ。
こんな有名人の生徒になれるという事に、瑳矢丸は魂が消し飛ぶ思いである。
だがこの命に百敷は首を傾げる。
「私に姫様をお預けくださるので? 外交か何かをお学びになるのでしょうか?」
「とにかく学問の基礎から。鳳珠達と同じように扱ってくれ」
「わ、若君教育の方をですか? ……かしこまりました。お受け致します」
ため息混じりの煌珠の説明に、百敷はわずかに動揺するも、何か考えがあるのだろうとそのまま命を引き受けた。
それを聞いた緋凰が煌珠に焦って向き合う。
「はい、父上! 私はお姫様教育ってやつの方がいいです!」
煌珠は無表情で見下ろすと、
「緋凰。15+2 は?」
試しに質問をしてみた。
緋凰はえ? となって一瞬考えた後、答える。
「じゅうごってどれだけ?」
「……3+1 は?」
「たすってなあに?」
「……」
煌珠と緋凰のやり取りに、その場にいる全員がごくりと息を呑む。
「まあ、こんな感じだ」
——えーーーー⁉︎
亀千代が驚愕する横で、百敷もどうしようと言った顔をしている。
「……じゃあ後は頼んだ」
そう言うなり、煌珠は去っていってしまった。
わずかな沈黙の後、ハッとなった亀千代はあわあわと百敷に走り寄る。
「そんな! 先生、大丈夫なのですか⁈ ただでさえお忙しい御身ですのに……」
亀千代の気遣いに、百敷は笑んで答える。
「大丈夫ですよ。私があなた方のお役に立てるのであれば、嬉しい事です」
「でも……。分かりました! では、私もお手伝い致します‼︎」
力強くそう言うと亀千代は突然、緋凰の腕をバッとつかんだ。
「コイツは一旦私にお任せを! 算術などの基礎を叩きこんでおきます故、先生はあっちをお先にどうぞ」
「え〜? 亀兄が先生なの?」
「だまれ。 こっち来い、行くぞ!」
ぶーぶー文句を言う緋凰を引きずって、亀千代は書庫の近くにある東屋(休憩所)に向かっていった。
「おぉ、亀千代様はお優しい。姫様とも仲がよろしくて微笑ましいですな」
にこにこして二人を見送る百敷とは反対に、
「同じ御神野の人としてヤバいかもと思っているだけなのでは……?」
とあっち呼ばわりされた瑳矢丸が、なんとも言えない顔でぽつりとつぶやくと、緊張しながら百敷の隣まで進んだ。
「初めてお目にかかります。私は瑳矢丸と申します。どうかよろしくお願い致します」
丁寧に名乗った瑳矢丸に、百敷は穏やかに返す。
「あなた様は真瀬馬刀之介殿のご子息でしたな。私は百敷喜左衛門です。以前はどなたかに、ついておられましたか?」
「はい。城下にて西医先生にご教授頂いておりました」
「それはそれは。あの者はなかなか手厳しかったでありましょう。あ、先に仕事を終わらせてもよろしいかな?」
「あ、はい! もちろんです。何かお手伝いできますか?」
そう言いながら二人は書庫に入っていったのであった。
ーー ーー
柱だけで区切られている風通し抜群の東屋の椅子にそれぞれ腰掛けると、開口一番、亀千代が問いかけてきた。
「おい、お前いくつまで数をかぞえられるんだ?」
「あ、それ前にも父上に聞かれたよ。六っつだよ、すごいでしょ」
「そんなすごくねぇよ。せめて十までいけよ」
「え⁈ 私すごくないの? やる気なくす〜」
設置されている机にアゴをのせてぐったりする緋凰に、苛立って亀千代は怒鳴る。
「めんどくせーな! もういいから、俺の数えた後に復唱しろ‼︎」
「ふくしょーってなあに?」
「後に続いて言え‼︎」
カミナリを落とされたので慌てて背筋を伸ばすと、緋凰は亀千代の数えた言葉に何度も習ってゆく。
「……五つ、むっつ、ななつ、やっつ、とお!言えたよ」
「……さっきから一つ抜けてんぞ。ああ、もぅ!」
亀千代が小石を拾ってきて卓上に並べる。
「ほれ、この十ある石を順番に数えてみろ」
「えっと…………あっ、一つあまった。ホントだ」
緋凰がなかなか自分の間違いに気が付かないので、亀千代は頭を抱えて悩む。
——耳でだめなら、視覚で訴えるか。
ずっと背中伝いにしょっていた小さな風呂敷包みをほどくと、亀千代は紙と矢立から筆を取り出して並べた。
「この紙高いのに……。お前、字は読めるだろう。ここに書いてやるから来い」
「は〜い」
「おま、近すぎだ‼︎ ……もぅいいや、見てろ」
緋凰は亀千代の左側にピッタリくっつきながら、紙に美しい文字で書き出されていく漢数字を眺めていると……。
「あっ! さんじゅうろくだ! こんなにたくさんだったんだ」
はしゃぎ出した緋凰に亀千代は筆を止めて問いかける。
「何の事だ?」
「こないだ兄上の机にあった『そんし』って書に出てきた。おもしろいの」
亀千代が目を見開いた。
「は⁈ 『孫子』⁈ そうだ! お前、普通に書を読むよなっ! 大人が読むやつでも」
「書を読むのは好きだよ」
振り向いた緋凰の顔があまりにも近かったので、亀千代はそそくさとわずかに距離をとる。
「じゃあ、何で『復唱』とかの言葉を知らないんだ?」
「言葉は知ってるけど、意味は知らないもん」
「……」
亀千代は緋凰の言っている事を考える。
——と言う事は、読解力が全然ないのか? せっかく文字が読めるのに……。
何だかもったいない思いで、亀千代は緋凰に尋ねる。
「何で分からない言葉をそのままにしておく?すぐに人に聞けばいいだろ?」
「だっておたねに聞いたら『うるさい』って叩かれたんだもん」
緋凰の口から出た『おたね』という名前に、亀千代の胸がギュッと苦しくなる。
あの時の事は、今でも自分の考えが浅はかだったと悔いていたからだ。
「凰姫……。あの時は……その」
わずかに目をそらしながら、亀千代が口ごもっていると、緋凰はふと思い出した事を口にした。
「私、あの『孫子』の中で『三十六計逃げるに如かず』ってやつが一番好きなの♡」
「……他にも名言たくさんあるだろうが」
苦笑いをした亀千代は、いろいろと絶望的になって、がっくりと肩を落としたのであった。
ここまでお読み頂き、本当にありがとうございます。
これからも、どうぞよろしくお願い致します!




