8-26 お殿さまの考え事
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○この回の主な登場人物○
食氷慶之助……根張城のお殿さま。
椿殿……慶之助の側室。絶世の美女。
カパリと上蓋を開いてみると、お櫃の中で一緒に炊き込んである芋や山菜と共に米がふっくらとしている。
膳の上には魚の干物や漬物がすでに置かれており、近くには汁物も酒も出番を待つかのように設置され、侍女たちによる夕餉の支度がほぼ整えられようとしていた。
その部屋の隣との境にあたる襖は閉じられており、こちらの様子が見えないように配慮されている。次の部屋にあたる位置の縁側では、お殿さまである食氷慶之助がゆったりと腰を下ろして若い家臣と対面していたのであった。
「殿、どうか……お考え直しくだされ!」
沈みかける夕日が最後に放つ茜色を受けながら、庭先で両手両膝をついて勢いよく頭をさげられてしまい、慶之助は口を尖らせて困った顔をする。
「しかしなぁ、もう決めた事だしぃ〜」
「ですが、先見城は南の国との要となる城で、代々我が一族が命をかけて守り通してきた土地なのです! それを、あの出鎚殿にくれてやれとは……」
「いやいや、くれてやれとは言っておらぬ。ただお主たちにはちょっとだけ東の境へ行ってもらいたいだけでな」
「何故、今この時期なのですか? 南の葉立家が明日にでも戦を仕掛けてきそうな勢いなのですぞ! それを我らが懸命に食い止めておりますゆえ!」
そんな時に城主が交代してしまえば、これまで外交で躱してきた戦が起きてしまうのは必須。
ここを全面に出して若い家臣は顔を上げて必死な様子で猛抗議をするのだが、聞いている慶之助は肩を軽く落として手のひらを組み、親指同士をいじいじ弾かせながら小さな声で言い訳じみた事を言う。
「そこはもちろん、分かっている。出鎚たちも心得ておるゆえ重きをおくだろう」
「しかし殿——」
目を横に逸らして気弱な態度でいる主に、若い家臣がいよいよ声を上げかけた。
その時である。
「おっ、とのっ、さま♡」
甘く軽やかな声が響くなり隣の部屋の襖がスタンと開き、中から橙色に華やかな秋の花が刺繍されている打掛姿の椿殿が、茶碗を片手に眩しい笑顔を振り撒きながら現れたのである。
「あっ! こらこら、出てきては駄目ではないか椿よ」
そう言いながら目尻を存分に下げている慶之助の対面では、若い家臣が慌てて見てはいけないと顔を下へ向けている。
「だぁって〜、お殿さまったらちっともこちらへ来てくださらないのだもの。それにここは妾のお屋敷、このような所まで押しかけてきたこのお人がイケナイのではなくて?」
スッスと長い打掛の裾を引いて慶之助の隣まできて座る椿殿が、上目遣いで軽く拗ねた声を出すので慶之助がまあまあと宥め始める。
すると、ふふっと笑った椿殿はそのまま目線だけを庭へ向けたのだった。
「それに、たかだかお城の一つや二つでかように騒ぎ立てるなんて〜。ちっさいお心〜」
クスクスと笑う声に混じり降ってきた侮蔑の言葉に、若い家臣の頭にカッと血が上る。
——政の分からぬ女が口を挟むな!
喉から出かかった言葉をなんとか飲み込み、若い家臣が頭を下げたまま拳を握っていると、甘く響く声がさらなる追い討ちをかけてきた。
「貴方がたと違って、『ウチの』出鎚はた〜くさんの功績を挙げてきたのよぉ。だ、か、ら、相応のごほうびを頂けるのは当然じゃな〜い♡」
——その功績は全て、暫枝源九郎ら他の者たちが挙げたやつだけどな! テメェの養父はコソ泥野郎だ!
「それにぃ〜、今ってな〜んでか東の国もこわ〜いって聞いたわぁ。御前さまのご実家なのにね。あら? もしかして〜それで貴方がたは、怖気付いてしまわれているの? 情けないこと〜ふふ」
——なんだとこいつ! と言うか、御前様のご実家がこちらに不穏なのは、テメェが殿を誘惑して御前様との仲を裂いているって噂を聞いているからだろうが! そもそも南との不和もテメェのせいだ! このあばずれ女ぁ‼︎
同じく側室だった南の国を束ねる葉立家の娘を、椿殿が追い出したせいで国交の関係が拗れてしまっているのだと若い家臣は憤慨し、許しもなく思わず顔を上げてしまった。
「この——」
ところが、怒鳴り声が口から飛び出すよりも早く、煌びやかに着飾り光り輝いているような雰囲気で慶之助に寄り添うように座っている椿殿の美しい笑顔で、一瞬のうちに毒気を抜かれ、口をポカンと開けてその姿に魅了されてしまうのであった。
こちらを見たまま動かなくなってしまった若い家臣から流れるように目を離した椿殿は嬉しそうに慶之助の方へ改めて向き合うと、持っていた茶碗から箸を使って飯をつまんでいる。
「もういいでしょ? さあ、お殿さま♡ はい、あ〜ん♡」
「ご、ごほん……。もう、人前だぞ椿よ」
「だぁって〜。お話が長いんだからお料理が冷めてしまうもの。せっかく妾がお殿さまのために腕によりをかけて作ったのにぃ〜」
「なに!? 椿のお手製とな!? それはいかん! 早くしなければ——。あ、そなたはもう下がるがよい」
いそいそと立ち上がった慶之助に、我にかえった若い家臣が慌てて声をかけようと片手を伸ばす。
「お、お待ちく——」
だが、言葉途中で肩を軽く叩かれ、振り向いた瞬間にいつの間にか横に来ていた侍女からズボッと箸で漬物を口にねじこまれてしまった。※帰ってくださいとの意味
笑いながら奥の部屋へと消えていった慶之助に絶望の念を抱きながら、身辺護衛の桔梗に慰められつつ、若い家臣は美味しい漬物をもぐもぐと椿屋敷を後にするしかなくなったのであった。
——くっ……、やはりとんだ馬鹿殿ではないか。あんな女狐に惑わされてクソみたいな出鎚の言いなりとは……。何故だ、いくら先代の殿様にご恩があるからといって、どうして父上らはこれまでに何も言わずじまいだったのか。
根張城の山道を大手門へ向かって歩いていると、また怒りがふつふつと沸いてくる。
昨年に家督を継いだばかりの若い家臣は、先祖代々の土地を奪われようとしているのに、
『ま、殿のお考えは分からんよな〜』
と言いながら抗議もなにもしない身内の年寄りたちにさえ、怒りの矛先を向けていた。
——何も考えておらぬだろう! あの殿は食氷家の跡目を継いでからは一度も戦に出ないで城に隠れているような腑抜けだぞ!
数年前に自身が初陣してからも、一度とて戦場にて慶之助を見た事がなかったが為に、一部でそう叩かれている陰口をこの男は信じている。
——もう終わりだな……この国も。近く出鎚のくされ外道に乗っ取られてしまうだろう。いや、殿は操られているから、もはや……。
歩みをとめて堪えるように拳を握る。
——くっ……、せめて、あの側室さえいなければ。あの女狐が殿を惑わさなければ……あの……高慢な……。
うっかり見てしまった美しい椿殿が思い出されると、若い家臣はつい、盛大に不満を漏らしてしまうのであった。
「くそぉ! 私も惑わされたい! あのような美しい女に可愛くよぉ〜……」
目を瞑って歯噛みしながら悔しがっている男へ、真後ろで共をしている近習の男がため息をつく。
「……主よ、本音は最後までお声に出されるな」
やかましいと言って近習の方へ振り向こうとした若い家臣であったが、ふと間近に気配を感じた事で前を向いてみると、すぐそこで笠を被った旅装の男が一人、歩いて来ていたのであった。
「や、これは失礼致した。考え事をしておりましてつい……」
ぶつかりそうになってしまったと、頭をさげながら旅装の男がいそいそと横へ移動して道を空けたので、
「ああ、すまぬ。こちらも考え事をしていたので……。御免」
若い家臣も片手を軽く上げて詫びると、遠慮なく男の横を通り過ぎてゆく。
しばらく進んだ所で、
「あの男、あんなに近くに来るまで全然気配を感じなかったな。それにしても——」
軽く後ろを見てから、またぶちぶちと愚痴をこぼしつつ、若い家臣は下山していったのであった。
ーー ーー
その旅装の男が行き着いた先は、椿屋敷であった。
玄関で使用人に取り次ぎを願い、横にある控えの間にてしばし待っていると、程なくして奥の部屋へ通されてゆく。
「戻ったか。して、『彼の国』はどうであったか?」
使用人を全て下がらせ、寄り添う椿殿と三人になった部屋にて、隣の慶之助はその男へゆったりと問いかけていた。
「はっ。率直に申しますと……なかなかに良き国でありました」
「ほう、お前の口からそのような言を引き出すとは。そんなにか?」
普段、かなり評価というものが辛口な男が珍しく、この乱世において人人の笑い顔が多いだの、こういった所まで整備されていて政が良いと思うだのと連発される褒め言葉を、慶之助は興味深そうに聞いていた。
「まあ、すご〜い♡ 素敵なお国〜」
そう感嘆した椿殿が楽しそうな顔のまま酌をしたので、ふむと考え込んだ慶之助が杯を傾けてから命じる。
「——では、手はず通りに『支度』をしておいてくれ。頼んだ」
承知。と頭を下げた男は速やかに部屋を退出していったのだった。
「まさか、そんなに良き国が見つかるとはな……。さて、ちと用を足してくる」
少々飲みすぎた慶之助が、よっこらしょと立ち上がって軽い千鳥足で回廊へ出たので、戻ってきた小姓が急いで支えている。
去ってゆく足音を聞きながら、椿殿は膳の上に置かれている自身の盃へ、ゆっくり酒を注いでいった。
「さすがね、可愛い神様のお国だこと。行ってみたくなっちゃうわ♡ でも——」
多めに注ぎ終えると、ゆっくりそれを持ち上げている。
「『そろそろ』……ね」
開いた襖の向こうで徐々に薄暗くなってきている庭を眺めながら、椿殿は静かに口もとの杯を傾けるのであった。
ーー ーー
ゆ〜らゆ〜らと小姓に支えられながら慶之助が歩いている先で、厠の扉が見えてくる。
すると、その傍らに先ほどの旅装姿の男が片足をついてかしこまっていた。
それを遠目で認めた小姓が無言で足を止め、そっと手を離した事で慶之助は一人になって歩いてゆく。
かなりな近くまでくると、男が改めて頭を下げてきたのだった。
「こちらは……いかがいたしましょう?」
そう言って袂から覗かせた紙の端を慶之助が目だけでチラリと確認した所で、前を向いたまま命を下したのである。
「……追って知らせる。頃合いを見て上手く届けよ」
短く返事をした男が消えるようにその場を後にした事で慶之助は再び歩き出すと、何食わぬ顔で厠の扉を開いて中へ入ってゆくのであった。
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