8-25 鳳凰の絵
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○この回の主な登場人物○
御神野 緋凰(通称 凰姫)……主人公。鳴朝城のお姫様。十三歳。
橋一……根張城城主の次男、側室の子。十三歳くらい。
翠一郎……旅の途中で出会った見た目は美少女の少年。十一歳くらい。
曙の明るい光を隠すように、やや橙色に染まる薄雲が空を覆っている。
そんな翌日の朝、西の丸にある屋敷では橋一が一人で台所に立ち、籠に入っている野菜を吟味しながらまな板の上に乗せて細かく刻んでゆく。
「えっと、三人分ってどれくらいの量になるのかな……。昨日の夕餉は二人ともたくさん食べていたから……。やっぱりあっちの大きい鍋にしよっと」
なにぶん六年もの間、他人と関わる事がほとんど無く一人で暮らしていた為、橋一は共同生活の勝手が分からない。
昨日突然、緋凰と翠一郎の二人と共に一つ屋根の下で暮らす事となり、緊張と興奮のあまり昨夜はまともに眠ることができず、まだ外の薄暗いうちから起きてしまって使っていなかった部屋の掃除までしていたのでもう疲れているはずである。
それなのに、今はうきうきと心を弾ませながら朝餉の支度をしているのであった。
「さてと、そろそろ二人を起こしてもいいのかな?」
勝手(台所)から続いている茶の間へ大きな鍋を抱えて土間から上がり、部屋の中央にある囲炉裏にそれをかけるとゆっくり奥へと進んでゆき、橋一は部屋と繋がる襖に手をかける。
ドキドキしながら静かに開いて中を覗いてみると……、部屋の至る所に積まれている書物の横でうつ伏せになり、両手を伸ばした先にも書物を握って力尽きるように眠っている翠一郎の姿があるのだった。
中へ入り木戸を開けて朝の光を入れると、
「おはよう、翠さん。朝だよ」
そう言って片手を伸ばそうとした。
だが、やはり自身の顔にある痣を意識して肩へ触れる前にピタリと手を止めると、サッと引っ込めてしまう。もう一度声をかけようかと思っている所へ、翠一郎の目がもそりと開いたのであった。
「……うぁ? 朝……ってしまった!」
一瞬だけまどろんだ翠一郎が急に勢いよく上半身を起こしたので、橋一はビクッとした。
「あぁクソッ! いい所だったのに何で俺は寝てしまったんだ! 体勢がいけなかったのか? 寝転ぶのではなかったぁ!」
どうやら握っていた書物を読破したかったようで、寝起きから盛大に悔しがる様子に橋一は驚きを通り越して呆れてしまう思いである。
「君はよっぽど書を読むのが好きなんだね……。さて、次は凰さんを——」
苦笑いを浮かべながら部屋の横まで歩いてゆき、さらに続いている部屋の襖へ手を伸ばそうとした。
しかし……。
「ん? 何やってんだ?」
大きく欠伸をしてからぽりぽりと身体を掻いている翠一郎が問いかける先で、橋一は襖の取手に手を伸ばしては引っ込めて……また伸ばすを繰り返しているのだった。
「……だ、だって、女の子の寝ている部屋を開けてしまうなんて……」
「いいのではないか? 昨夜『起こしてくれていい』って凰に言われていただろう? ほっとくとあいつ、昼過ぎても起きないぞ」
「そうなんだ! でも……」
どうにも決心がつかない橋一に翠一郎はため息をつくと、立ち上がってずかずかと進んでくるなり遠慮なくスパーンと襖を開いてしまった。
戸惑う橋一をよそに、部屋の中ほどで寝ている緋凰の身体を容赦なくまたいで奥まで進んで行った翠一郎は、おもむろに縁側の引戸をさっさと全開に開いてゆく。
部屋全体が眩しくなるほどに朝日を呼び込んだのだが……緋凰はやはり起きなかったのだった。
「刀を抱っこして寝ている。寝顔も……可愛いね」
恐る恐る部屋に入りしゃがんで見ている橋一がそう小さく呟いて顔を赤くしているのを見ると、翠一郎はムスっとした顔になって戻ってくるなり、
「おい! 起きろって!」
片足を使ってぐいぐいと緋凰の身体を押し出したのである。
「こ、こら! 人を足蹴にしてはダメだよ!」
慌てて橋一はその足を止めようと手を伸ばしたが、やはり触れる前にサッと引っ込めている。そして代わりに両手を口元の横へもってゆくと、
「凰さん! おはよう! さっきね、いいものを見つけたんだよ! だから起きて!」
大きな声で呼んでみるのであった。
すると、
「………………いいものぉ」
ようやく緋凰がゆるゆると瞼を開いたのである。
「あっ! 起きた! そうそう、こっちだよ! 来てきて〜」
橋一が先ほど翠一郎が寝ていた部屋まで戻るなり高速で手招きをするので、袴姿の緋凰はのそのそと立ち上がると抱えていた脇差を腰に差しつつ後に続いてゆく。
館の最奥にある部屋まで来ると、
「これだよ」
そう言って部屋の隅にかけられていた埃よけの布をサッと取り払って見せたのである。
「わあぁ! すごい〜」
寝ぼけまなこだった瞳をパッと輝かせた緋凰が見たものは、縁起物の彫刻が施されている文机の上に置かれた木組みの台にかけてある鏡であった。
鏡はこの時代、庶民には普及しておらず、よほどの高い身分の者しか持てない代物の為にめったにお目にかかることがない。
着飾るのは大好きな緋凰なので、嬉々としてその化粧台に走り寄っていったのだった。
(私が鳴朝城で使っていたものとは厚みが違う……。もしかして、これが蓬莱鏡ってものかな? 隣に置いてあるお盆も上品でいいなぁ〜)
フンフンと鼻息荒く眺め回している緋凰の様子に、橋一も嬉しそうに笑う。
「気に入った? だったらその鏡、あげるよ。だからこの部屋も凰さんの部屋にしようね」
この提案に緋凰は顔を上げて目を合わせると、首を横に振った。
「え? でもこのお部屋は——」
「だってさ、ここは『鳳凰の部屋』なんだよ。凰さんの名は鳳凰の『凰』でしょ? だからご縁があるんじゃないかって……。ほら、あそこに——」
つい言葉を遮って興奮気味に話す橋一が指を差した方を見てみると、奥にある壁には華麗な表装を施してある掛け軸があり、そこには壮麗な鳳凰が描かれていたのである。
「わぁ……とっても、綺麗な絵だね……」
「すごいでしょ。僕の一番気に入っているものでね、養母上になってくれている椿殿が描いてくれたものなんだ」
「えぇ!? 椿殿が? すっごぉい、お上手だ〜」
立ち上がって近くまでゆき、惚れ惚れして眺めている緋凰へ橋一が得意げに説明をしていると、隣で一緒になって絵を見ている翠一郎が振り向いた。
「ねえ、橋一様にとって椿殿はどのようなお人なのか?」
「どのような? ……良い人だと思うよ、会った事はないけれど。でも文を出せば必ず返してくださるし、よく珍しい物を送ってくださる」
妾は容姿が命だから会えない代わりに、好きな物を届けるから今の暮らしも楽しみなさい、とこの屋敷にきて初めて貰った文に書かれていた内容を思い出しながら橋一は穏やかに話す。
「ふ〜ん、しかし世間では——」
そう言いかけた翠一郎の口元にサッと緋凰が片手を上げて続きを止めた。
「噂ばかりが本当の事とは限らないよ」
「しかしなぁ……あの、人とは思えない美しさを見ると——」
「ん? 美しくあるのは、椿殿が頑張っているってだけでしょ」
「頑張る?」
首を軽く傾げる翠一郎に、少し前に椿の屋敷で働いている料理人と話をした事があると緋凰は言う。
「あのお方は、自分で食べるお料理の献立は自分で決めているのだってさ。それとさ、前に言った私の家に伝わる家訓集の中で健康を保つ秘訣ってものと重なる事をしていたの。剣舞もできるって言っていたでしょ? あれも書いてあるから、私の叔母上も一族の女の人はみんなできるんだよ」
ただし、叔母の美紗羅は剣舞の才能が無かったが為に一度も見せてくれた事はない。
「ふ〜ん。椿殿の事は俺に関係ないから何でもいいけど、その家訓集がマジで読みたい」
「門外不出だって」
「くそっ!」
悪態づいてから鳳凰の絵に目線を戻した翠一郎へ苦笑いをしながら、改めて緋凰は橋一の方へ顔を向ける。
「やっぱりこのお部屋を私が使わせて頂くわけにはいかないよ」
「どうして? この部屋は気に入らなかった? 元はお祖母様が隠居の時に使っていた小さな館みたいだから、しつらえもつまらなかったかな……」
そう言ってわずかに項垂れた橋一に向かって、緋凰は慌てて今度は両手を左右にぶんぶんと振る。
「違うよ! つまらないどころかとても素敵なお屋敷だから! そうではなくて、この部屋は一番奥にあるから主の橋一様が使わなければいけない所だよ。鏡だって橋一様に必要なものだから」
「そんな事、全然気にしなくていいよ。僕は一人だったから囲炉裏の所で寝起きしていて、部屋なんてどこも使っていなかったから。それに……鏡だって……見たくは……」
悲しげな顔で痣のある頬を撫でる橋一の近くに来た翠一郎が、苦言を呈する。
「あのさ、これから貴方様は若君として人前に立ってゆくのだから、礼儀に慣れておかないと恥ばかりかくぞ。武士としては身だしなみも重要で馬鹿にはできないものだ」
「ぼ、僕が人前に出る? それはないでしょ? だって僕は庶子だから——」
「それがどうした? このまま一生ここでのうのうと生きていけるとでも? 人の命など明日をも知れぬ世の中だぞ。今、貴方様を守っているお殿様がいなくなれば、自ずと出てゆかねばならないだろう」
橋一とてそれを考えなかった訳ではない。
だが、目を逸らしていたこの事実を改めて他人の口から聞いた事で、急に現実味を帯びてきた感覚を覚えて身体が怖さでガクガクぶるぶると震えてきてしまった。
「翠ったら……。大丈夫だよ、橋一様。これからゆっくり人に慣れていけばいいのだから。礼儀作法の練習も私たちが付き合うからちゃんと身につけられるよ。だから怖がらないで、ね」
慰めるように言って笑う緋凰を見て、涙目にまでなっていた橋一が無言で何度も頷き、落ち着きを取り戻してゆく。
完全に気持ちが鎮まった様子を見てとった緋凰が、
「じゃあ、私は庭で少し身体を動かしてくるから」
そう言って足早に部屋を出ていったので、橋一も慌てて追いかけたのだった。
「何をするの?」
「私の旅には身を守る武術が不可欠だから、毎日少しは身体を動かさないとすぐに鈍ってしまってね——」
歩きながら返ってきた答えを聞いて、橋一はパッと顔を輝かせると緋凰を小走りに追い越した。
「武術の訓練!? じゃあさ、いい所があるよ! こっち来て!」
またしても高速で手招きしてくる橋一へついていった緋凰は、やがて裏庭の奥に案内されたのである。
そこには案山子が無造作に立ててあったり、大木の枝から垂れている紐の先に小枝が括り付けてあったり、遠く弓の的らしきものが立てかけてあったりする。
「ここ! どうかな? 一応さ、僕も武士の子だって聞いてから刀や弓ができた方がいいかなって思って作った場所なんだ。武器だってあるんだよ」
橋一は意気揚々と近くの納屋へ若干顔を引き攣らせている緋凰を連れていくと、戸を引いて中にある弓や刀、槍などを見せている。
後ろからついて来ていた翠一郎が立てかけてある立派な刀を手に取って眺めながら問いかけた。
「誰に武術を習っているのだ?」
「習ってはいないよ。僕が勝手に書物に出てくる文とかで想像してやってみるだけで……」
「ふ〜ん、ではちょっと見せてくれないか?」
そう言われて、ズイッと刀を差し出された橋一が戸惑いを見せる。
「そ、そんな……恥ずかしい……」
「何を言う。どうせこれから一緒に訓練してゆくのだからいいだろう」
「一緒に……?」
思ってもみなかった翠一郎の言葉に橋一が横を向いてみると、
(本当は武術は嫌いだなんて言えない……)
と、内心でげっそりしながらも無理やり笑顔を作っている緋凰が頷いていた。
「そっか……。じゃあ、見ていて」
嬉しさが込み上げてきた橋一が、頬を赤くしながら刀を袴の紐へ差しているので、
(大変だ! 刀の重みで袴が落ちちゃう!)
褌が丸見えになるという事態にならないよう、慌てて刀の扱い方を教えてやっている。
そうなんだね、と恥ずかしそうにしてきちんと腰に刀を差した橋一が大木の元まで歩いくると、緋凰と翠一郎が見守る中で刀をスラリと抜き、大きく振りかぶった。
「えい!」
気合いの声と共に顔を横に向けつつ刀が振り下ろされる。
しかし、切先は紐にぶら下がる小枝に当たる事なく空を切っていったのだった。
続いて槍に持ち替えると、
「やあ!」
気合いと共に下を向いて突き出した穂先は、案山子の横を通り過ぎる。
続いて弓に持ち替えると、
「てい!」
気合いと共に離した弓弦が頬へ当たる恐怖にギュッと目を瞑って放った矢は、的を外れてあさっての方向へヒューンと飛んでゆくのであった。
「どうだった? なかなか難しいんだよね」
どこか満足そうな笑顔となって聞いてきた橋一に、翠一郎は絶望的な顔となっている。
だが、真剣な顔で一部始終を静かに見ていた緋凰が、
「うん! スジはいいよ!」
と、にこやかに返したので翠一郎は二度見して愕然とした。
「お、おい。今のへっぴり腰のどこが?」
「これから武器の重さに耐えられる身体を作って、敵から目を逸らさないようになれば——」
緋凰が自身の見解を述べている途中で、ぐ〜っと腹を鳴らしてしまう。
すると、つられて橋一の腹も鳴る。
ついでに翠一郎の腹も主張をして鳴らしたので、三人は思わずそれぞれの腹に手を置いて目を点にしてから……ブブっと吹き出した。
「朝餉の事、すっかり忘れてた。先ずは、食べないとね」
アハアハと笑いながら歩き出した橋一を追って、緋凰と翠一郎も笑いながら館へ戻ってゆくのであった。
ここまでお読み頂き、本当にありがとうございます。
これからも、どうぞよろしくお願い致します。




