8-23 思わぬ激情
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○この回の主な登場人物○
御神野 緋凰(通称 凰姫)……主人公。鳴朝城のお姫様。十三歳。
食氷慶之助……根張城のお殿さま。
食氷仙之助……慶之助の嫡男、正室の子。十五歳くらい。
橋一……慶之助の次男、側室の子。十三歳くらい。
ふと井戸端から顔を上げてみると、屋根の向こうにある空に鮮やかな彩雲がかかっているのが見えた。
その美しさに惹かれて思わず小走りに庭まで進んでゆく……。
すると、視界がいっぱいに開けた先で大きく鮮やかなる五色の美しい羽をひらめかせて、瑠璃の瞳と冠羽を持つ鳥のようなものが空を悠々と横切っていくのを見たのだった。
——あれは! 鳳凰だ! きっとあの絵の……。
そう思うと同時に、思わず両手を空に向かって伸ばしているのであった。
ーー ーー
伸ばした手の先にある空が次第に茶色へ染まってゆく……。
ゆっくりと意識が戻ってくると、それは屋敷の天井だったと気がついたのである。
「あ……れ……?」
男の子がまだぼんやりとした頭でパタリと手を落として頭を横に向けると、真横に水平の床が見えてくる。額に乗っていた手ぬぐいがするりとすべり落ちる感触を覚た事で、自身は部屋で横になっているのだと気がついたのだった。
「あっ。やっと目が覚めたね、橋一様」
上の方から降ってきた軽やかな声に、のろのろと目を上げると、穏やかに微笑みながら軽くこちらを覗き込んでいる愛らしく整った顔と目線が合う。
「…………きれいな……ひと?」
思わず呟いた男の子が、倒れる直前の記憶を頭の中で急浮上させて目の光を戻した途端、青ざめた顔で勢いよく上半身を跳ね起こして確認するべく緋凰の顔を間近で見るのだった。
「そうだ! 僕が触っちゃって——」
「わわっ、大丈夫だよ。さっきも言ったけど、その痣は人にうつらないものだから。心配しないで、ね」
思わずまあまあと胸の前で緋凰が両手を振って宥めると、
「あっ……」
その驚きの言葉に、橋一は思わず自身の顔についている痣を片手でなぞっている。
「ほんとうに……本当に、これは人にうつらないの? でも僕は……ずっと病で……」
「若様の病はね、その痣ができた時にもう治っているんだよ。さっき脈を見せてもらったりしたのだけれども、何の異常もなくて元気なお身体でもあったからね」
「え!? 僕は、病ではないの!?」
にこやかに頷いて見せた緋凰を信じられない思いで見つめてから、下を向いて自身の身体を確認するように眺めまわしていた橋一の目から、次第に涙が溢れてくる。
「そうなんだ……僕は……元気で……。誰にも……病をうつしたりしないんだね……うぅ……」
そう呟いて嬉しそうな顔で泣き出してしまっている様子に、緋凰は先ほどの陽明との会話を思い出している。
「聞いたよ、この国ではその痣が病のようなものでうつってしまうと恐れられているって。そのせいで若様は六年もの間、このお屋敷で一人にされているものだとも……」
嗚咽の止まらない橋一の背をそっと撫でながら、緋凰はさらに言葉を続けた。
「陽明さんがお殿様にこの話をすぐに相談してくるって言っていたから、今頃はきっと誤解が解けているかもしれないよ」
「先生が……」
泣き止もうと懸命に深呼吸をしながら袖で涙を拭っていた橋一がふと顔を上げると、自身へ笑いかけている緋凰と再び近くで目が合う。すると、唐突に一つの疑問が浮かんできたのであった。
「そういえば、君は僕の顔が怖くないの? こんなに酷い痣だらけなのに」
「え? う〜ん……、怖くはないよ。それに、若様のお顔はお殿様にとてもよく似ていて優しげで整っているね。そういえば、お兄さんの若様とも顔のかたちが似ていると思うよ」
仙之助の目元は母親である篠御前に似ているからと緋凰が笑う。
すると、その笑顔を見た橋一の胸が急にドキドキと鼓動を高鳴らせてきたのだった。
——なんだろう? 急に緊張してきて……。
不思議に思った瞬間、緋凰に自身を見られている事が猛烈に恥ずかしくなってくるのを感じた橋一は、突然身体の向きを奥にある廊下の方へ変えると、四つん這いのまますごい速さで進んでゆき襖の向こうへ隠れてしまったのである。
何事かと目を丸くしている緋凰に、襖の端からひょこりと真っ赤になっている顔の半分だけを出して、
「ご、ごめん。すんごい久しぶりに人を近くで見たせいかな、急に緊張してきちゃって——」
あたふたと言い訳をしている時だった。
ふいに玄関の方から人が叫んだような声が小さく響いてきて二人はハッとしたのである。
「あれ? 今のって……」
辺りを見回してみてから緋凰が立ち上がって庭へ降りて走ってゆくので、つられた橋一もその背を追いかけていったのであった。
ーー ーー
「離せ! 離さないか! ここに凰がいるのだ!」
「いけませぬ! 若様! どうかお鎮まりを!」
城の麓にある政庁としている屋敷にて陽明が慶之助へ報告したのを隣で聞いていた仙之助が、血相を変えて西の丸まで走り、開いていた曲輪の出入り口にあたる木戸から中へ飛び込んだ所を小姓達が両腕にしがみつく形で止めていた。
そしてその背後には、緋凰がちっとも帰ってこないので探しに出ていて途中で合流していた翠一郎が険しい顔で立っているのである。
「いいから離せ! 凰! おーーーーう!!」
取り押さえられている仙之助が力の限り呼ばわっていると、程なくして屋敷の外門から緋凰が出てきたのであった。
「あっ! やっぱり若様だ」
その言葉を聞いて、後ろに追いついてきた橋一が、
「あの人が……仙之助様……」
立ち止まって初めて見る兄の姿に見入っている。
なぜ曲輪の出入り口で騒ぎになっているのか分かっていない様子で緋凰が走り出そうとすると、
「待って! たぶん、行ってはいけないよ!」
橋一が両手を広げながら回り込んでその足を止めたのであった。
同じような背丈である事で、互いに顔を見合わせる形となるのだが、
「あの様子だと、まだ僕が病で、触るとうつると思われているままだと思う。もしかしたら、君もここから出してもらえないかもしれない」
「……そうなの?」
ゆっくりと俯いてゆき、申し訳なさそうに話す橋一に緋凰が眉を寄せていると、数メートル先の仙之助が激しく喚いている声が聞こえてくる。
「なぜだ! 何故そなたが西の丸にいるのだ!」
「それは——ってあ!」
飛んできた質問に答えようとした時、緋凰には思い出した事があったのだった。
「そうだ! 若様! 私はここに野菜を届けにきたのですけれども、ここに来る途中で男の人が寝転んでいませんでしたか? その人、お腹が痛いそうなのです!」
すっかり忘れていたと焦りながら片手を振っていると、向こうで仙之助の顔がより険しくなっていく。
「野菜? そうか、そいつのせいで凰はここに来てしまったのか……。おい! 誰か、そいつを捕えろ!」
「ええ!? 何でぇ!?」
助けるのではないのかと愕然としてしまう緋凰へ、仙之助が改めて呼びにかかった。
「凰! いつまでもそんな所にいるのではない! 早くこちらへ! 私の屋敷へ戻るのだ!」
これを聞いた橋一の肝が急激に冷える。
——行ってしまうの? この人が行ってしまったらもう、二度と戻ってこなくてまた僕はひとり……。
青ざめてしまった顔を上げて対面の緋凰を一度見つめてからグッと拳を握ると、おもむろに振り返って咄嗟に思いついた事を仙之助へ叫ぶのだった。
「兄上……若様! 初めまして、橋一と言います! ぼく……私は、この人に触ってしまいました! だからっ、だから……この人を! 私のお嫁さんにしてください! お願いします!!」
直角に腰を曲げて勢いよく頭を下げた橋一に、
「えええ!? ま、待って! お嫁さんってどういう事ぉ!?」
今度は青天の霹靂となっている緋凰の方が回り込んで頭頂部に慌てて問いかけている。
その背の奥では仙之助もまた、何を言われたのか分からないといった様子でしばし、唖然として立ち尽くしてしまったのだが、
——なに……を言っている? 凰には……瑳矢之介という男がいるのだから、私は諦めているというのに……。あいつの……嫁だと!?
我にかえると同時に、これまで押さえつけていた緋凰への気持ちが一気に爆発し、怒りが脳天を突き抜けた。
「ふ、ふざけるなぁーーーーーー!!」
仙之助の放つ雷鳴のような怒号が辺り一面に響き渡る。
その声にギョッとた橋一が弾かれたように上半身を起こし、ハッとした緋凰が振り向いている。
普段、頼りなくぐずぐずと泣いてしまうような仙之助が初めて見せる激しさに、両横の小姓たちも驚き、押さえつけていた腕を思わず緩めてしまった。
「凰!」
その隙をついて仙之助が腕を振り払って走り出したので、小姓達が慌てて捕まえようと腕を伸ばしたが間に合わず、絶望的になっていると——。
「捕まえよ!!」
実は少し前に曲輪の木戸まで駆けつけており、この様子を見ていた慶之助が鋭く命じた事で、左右の近習が素早く走り、緋凰の所へ辿り着く直前に仙之助を捕まえたのだった。
「若様! 落ち着かれよ! 熱が上がってきております!」
慶之助の身辺護衛の一人となっていた桔梗が、その大きな身体を使って正面から受け止める形で少しずつ押し戻してゆく。
「離せ! 凰! 凰!」
片手を伸ばして必死に抵抗する仙之助だが、上がってきた熱で身体に力が入らなくなってゆき、やがて慶之助の隣まで下がってきた頃には呼吸も荒く肩で息をしている状態であったのだった。
「落ち着け。後は私に任せてお前は篠屋敷に戻っていよ」
あくまでも落ち着いた声と表情で、慶之助が諭す。
「父上! しかし——」
「橋一としても、驚いてあのように言ってしまっただけであろう。とにかく、お前も倒れる前に屋敷へ戻って待つがいい。——桔梗、仙之助を連れてゆけ」
有無も言わさず、それでもやんわりと命じた事で、押さえている桔梗が承知と頷いて仙之助を半ば強引に背負うと、そのまま曲輪の木戸へ向かってゆく。
去ってゆくその背を無表情で見送る慶之助は、以前に椿殿の警告していた言葉を思い出している。
「『嵐』……か」
小さく呟いて振り向き、呆然と立ち尽くしている緋凰と橋一の姿を見ると、思わずため息がこぼれ出てしまうのであった。
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