8-3 意地悪な兄妹だけど……
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○この回の主な登場人物○
御神野 緋凰(通称 凰姫)……主人公。鳴朝城のお姫様。十二歳。
翠……旅芸人一座で下働きしている美しい子。十歳くらい。
お嬢……旅芸人一座の座長の娘。十三歳くらい。
遠く山々の稜線からようやく曙の光が地上へ差し込んできた。
宿場町の街道から裏手にある幅広の川べりでは、所々で洗濯に勤しんでいる人々の姿がある。
その中に、夏とはいえ早朝の冷たく清らかな水の中から、持ち上げた着物をむぎゅ〜っと懸命に絞っている緋凰がいるのであった。
「これで終わりかな?」
日が出てきた事で後ろ手に背負っていた笠を頭に被って持っていた洗濯物をタライに放り込むと、隣で補助をしていた翠へ確認をしている。
「あぁ、いまので終わりだ。じゃあ、干しに行こう」
そう言って洗濯板と棒を小脇に抱えて後ろへ歩き出した翠の背を追うべく、緋凰も洗濯物が山盛りとなっているタライをよいしょと持ち上げた。
すると、反対隣で洗濯をしていた一座の下女の目が怪しく光る。
——いまだ!
そう思った下女は空いているタライに素早く水を汲むと、洗濯物を抱えて立ち上がった緋凰目がけて転んだフリをして勢いよく水を投げたのだった。
「ごめ——」
ニヤつきそうな顔を堪えてわざとらしい事を言おうとしたのだが……。
重いタライを抱えているはずなのに無表情で前を向いたまま、緋凰はひょいと先へ飛んで避けてしまった為、その水は奥で作業をしていた全然別のご婦人へかかってしまい、下女は怒れるご婦人へ青ざめながら必死に頭をさげる羽目になっているのであった。
「あぁもう! 何をやっているのよあのマヌケ! まあいいわ……小吉! 早くあの女に石を投げてやりなさい!」
近くで見ていたお嬢は、冷たい川の水で濡れ鼠になる緋凰を笑ってやろうとしていたのだがアテが外れて、イラつきながら今度は八歳くらいの下男の襟元を掴んで引き寄せている。
「え〜。ひとに石なんてなげちゃいけないよ〜」
小吉は嫌がるのだが、
「私のいう事に逆らうんじゃない! さっさと投げなさいよこのグズ、でないと朝餉は抜きだからね!」
そうお嬢に凄まれ、いつもお腹を空かせている事でそれは嫌だと、しぶしぶそのガリガリに痩せ細っている腕をえいと振ったのだった。
力のない小吉の投げた小石がヘロヘロと飛んでゆき、それでも緋凰の背に到達しようとした瞬間——。
前を向いたまま急にひょいと上半身を傾けた緋凰は、飛んできた石を難なく避けてしまったのである。
それを見たお嬢は、昨日出会ってからいろいろな意地悪をし向けているというのに、全く緋凰に届かない事で地団駄を踏むと、
「どいつもこいつも何やっているのよ! もう! どうして当てないのよ、ほんとにアンタはグズでしかないんだから!」
喚き出して小吉に怒りをぶつけようと手を振り上げた。
「ごめんなさい!」
いつものように頭にくるであろう衝撃を予想して、小吉はとっさに両手で頭を抱えてギュッと目をつむる。
ところが。
パシッと小さな音が聞こえただけで身体のどこにも痛みはこなかったのだった。
「あれ?」
不思議に思った小吉が恐る恐る目を開けてみると、自身の真横にいつのまにか緋凰がいて、斜め頭上から降ってくるはずだったお嬢の平手を片手でかざして受け止めているのであった。
「駄目だよ、こんなふうに人を叩いてはいけないよ」
笠の中で真面目な顔をして言う緋凰へ、お嬢もまた忌々しげに睨みつける。
「うるさい! このグズは私たちが食わせてやっているのだから、アンタが口出すスジはないわ!」
「でも——」
スッとお嬢の手を外した緋凰が、納得できなくて言葉を続けかけた時、
「すみませんお嬢! ほんっとこいつは不作法者で……。昨日きたばかりなので許してやってください。後でむっちゃくちゃ叱っておきますから……。ほら、小吉も、遊んでないでこっちの洗濯を手伝うんだ! さあ!」
二人の間に入ってぺこぺこと頭を下げながら、翠は小吉の手を繋ぎ、緋凰を目で促しながら勢いでその場を去ろうとする。
だが、行きかけた足を一度止めると、
「それではまた朝餉でね、お嬢」
翠は忘れずに艶やかな笑顔を残していくのだった。
「そうね、あとでね、私の可愛い翠……♡」
般若の顔つきから反転させてうっとりしながらお嬢は小吉を連れてゆく翠の後ろ姿を見送っていると、洗濯物を持って続いてきた緋凰を見て苛ついた。
もう自ら殴ってやろうと拳を振り上げると、その背をめがけて振り下ろしたのだが……。
やはり見向きもされないままひょいと避けられたのであった。
ーー ーー
「ありがとな、凰。小吉を助けてくれて」
物干し場にしている林に着いた翠は、ここでようやく小吉の手を離していた。
「どういたしまして〜……よいしょっと。だけどあの人、いつもあんなふうにみんなを叩いてしまうの?」
木の根元にタライを置いている緋凰が手をパンパンさせながら問いかけたので、
「まあな。かなりの癇癪持ちだからちょっとした事ですぐに人へ怒鳴ってあたるんだよ……。どのみち長の娘だから誰も逆らいは出来ないからな。あ、それともう一人。ここでは逆らえない奴が——」
そう翠が説明していた時だった。
「おらテメェら、ちんたらしてんじゃねぇよ! さっさと仕事しろ、手を休めてんじゃねぇ!」
突如、後ろから飛んできた男の声にハッとしてその場の三人が振り向くと、噂をすればなんとやら。その逆らえない人物が共を二人連れて歩いてきたのである。
長の息子であるその十六歳くらいの男は、妹のお嬢のようにそこそこ悪くない顔かたちをしてはいるのに意地の悪さが表面に出ていて、嫌な雰囲気がダダ漏れているような姿であった。
目の前まできた男は、開口一番に翠へ嫌味を言い出している。
「まったくこの女顔が。男なのに女みたいで気持ちわりぃくせして妹が甘やかすから調子こいてんのか? つーか、お前もここにきて半年にもなるしそろそろ『夜』の方にも出んだろ? その前にこのおれが先に喰ってやって『女』にしてやんよ〜ヒハッハハハ——」
お共と一緒になってゲラゲラ馬鹿笑いしている男を見ながら、緋凰と小吉はこの男が巨大な食人鬼化して膳の上に置かれた小さな翠を、文字通り食べようと大きな箸でつまんでしまう光景を思い浮かべていた。
そう馬鹿にされても平然として無表情でいる翠に、笑いを止めた男がおもしろくなさそうに鼻を鳴らす。
「それとも、そのキモい顔に傷でもつけてやろうか。そうすれば、ちったぁ男らしい顔になるだろうしアイツも目が覚めんだろうな。いい案だろ?」
そうですね〜と顔を引き攣らせながらやむなくゴマをすっているお供に満足して、男が翠の顔に向かって手を伸ばしていく——。
落ち着いた様子で動かない翠であったが、急に斜め後ろから優しく腕を引かれて足が二、三歩後ろへ下がってしまう。その事で顔に触れようとした手がむなしく空を切っていくのが目に映った。
わずかに驚いた翠が自身を引き寄せている腕を辿って後ろを向くと、笠の中でムスッとした顔つきになっている緋凰が真横に立っているのだった。
「翠くんは全然気持ち悪い顔なんてしていないでしょ。むしろ一座の中にもこの町の中にも、翠くんより美しくてかっこいい人なんていなかったよ。お兄さんの方が意地悪な事言うからよっぽど気持ち悪いんじゃない?」
この言葉に緋凰を見つめる翠の瞳の奥で、密かに小さく光が灯る。
そんな事に気がつくはずもない男は、
「なんだとてめぇ! このおれを誰だと思っていやがる! おれらに雇われている分際でぶっ殺すぞ!」
長の息子なので一座の誰もが自身の言いなりになっているのに慣れている事で、堂々と文句を言ってきた緋凰に怒りが一気に頂点となり、いきなり拳を上げて殴りかかろうとした。
ところが、笠の中から緋凰が眼光鋭く無言で怒りの気迫を放った事で、男の身体は意識とは裏腹にビタリと止まってしまったのであった。
十二歳という若さではあるが、十歳の時には戦で大軍を前にほぼ一騎駆けをして武功をあげた緋凰であり、それに対する男は、出兵どころか一座の巡業にて賊に出くわした所でも隠れているような武術とは無縁の者である。
あらゆる面の『強さ』において男が敵うはずもないのだが、それを知る由もない。
「な……な……」
なぜ身体が動かなくなってしまったのか分からず、振り上げた拳までもがぷるぷる震えてきてしまう事に混乱しながら、どうされましたと慌てているお供へ返事もできずに固まっている男の前に、スッと翠が緋凰から離れて二人の間に立ったのだった。
「申し訳ありません『若長』。この者は昨日ここにきたばかりなのでまだ何も知らないのです。私が後できちんと話してきつく言っておきますので、今はどうかご容赦を……。あ、それから、私が夜に若長のお手を煩わせる事がございましたら……その時には『女』のようにどうぞお手柔らかに……」
そう詫びて最後には微笑を浮かべる翠の痺れるような美しさに、拳をあげたままの男の心臓がドキリとした。
そして翠の言う最後の方の話が見えない緋凰が小首を傾げながら目線を外して気迫をおさめた事で、男の身体が自由になるのだった。
「う……お……まあ、いい心がけ……だな。よしじゃあ、仕事の続きでも……しろや」
まだ少し上の空である若長だが、一歩二歩と後ずさるとそのままお供とその場を去っていったのであった。
その背に緋凰はあっかんべーとしながら怒り出している。
「あんなふうに人を馬鹿にするなんて酷くない? 翠くん大丈夫? 女みたいって言われてたけど」
「あの男は長の息子だから仕方がない。それに、俺は別に女にみられようが男にみられようがどちらでも構わないし」
「え? そうなの?」
意外な顔をした緋凰に、翠はフッと笑う。
「人からどう見られようと、俺が何か変わることはないし、そもそも変える気もないし」
「ほへ〜、翠くんって凄いんだね。昔に私と顔が似ていた私の父親なんて、『可愛い』っていわれるのが大嫌いだったから、そんな事言われた日には雷神様のように凄まじいカミナリを落としていたんだよ」
「へぇ、凰の顔は父親似なんだ。たしかにその顔では『可愛い』と言われても無理はないだろうな、ハハハ」
「そうなんだね〜アハアハ」
楽しそうに笑い出した二人につられて、隣の小吉も一緒になって笑っている。
そんな光景を遠くから見ていたお嬢は、
「なんなのあの女は! あぁもう、これ以上わたしの翠の近くに居られないようにしてやるわ!」
そう苛立ちながら呟くと、団員の朝餉の支度をしている炊事場へお付きの下女と一緒に走っていくのであった。
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