7-56 本人不在の解決 前
読んでくださり、ありがとうございます。
○この回の主な登場人物○
御神野 緋凰(通称 凰姫)……主人公。この国のお姫様。十二歳。
御神野 豪ノ進 天珠……主人公の叔父。
美紗羅……天珠の妻。
御神野 迅ノ進 玄珠……緋凰の従兄。天珠の長男。
百敷 喜左衛門 博楽……重臣の一人。
藤枝……百敷の娘で玄珠の妻。
両手を前によちよちとおぼつかない足取りで板間を歩いていた幼子が、疲れたのかその場でぺたんと座り込んでしまう。
あらまあと言いながら百敷喜左衛門の妻は、その一歳になる孫を抱き上げて嬉しそうに笑った。
「やっとお熱が下がったばかりなのだから、無理は駄目ですよ〜」
「ほらほら、これはどうかな? おぉ、元気がいいなぁ」
隣に立って渡してやったでんでん太鼓を、隼千代がぶん回している様子に目を細めている百敷喜左衛門に、娘の藤枝は微笑ましく座って見ている玄珠の隣で笑いながら声をかけると、
「父上、それを隼千代に渡すと刀になってしまって危のうございます。こちらにしては?」
近くで仕えている自身の侍女に声をかけて、小鳥の形をしている縫いぐるみを袋から出させている。
「それもそうだな——おっ」
侍女の手から受け取ろうと座りかけた百敷喜左衛門の頭にでんでん太鼓がぽかりと当たり、ここ天珠の屋敷の一角で皆の笑い声が和やかに響いていたのであった。
するとそこへ、天珠夫妻が回廊から現れたのである。
「隼千代〜おいで〜」
相好を崩して天珠の妻である美紗羅が入り口から呼んだ事で、一緒に振り向いた百敷の妻が抱き上げたままそちらへ歩いていったのだが、
「すまぬが……。大事な話があるゆえ、この子を奥の部屋へ連れていってほしい」
近くまでいくとそう声を落として言われた為に、そのまま部屋を出て外で待機していた侍女や使用人達と共に隼千代を連れて行ってしまったのであった。
しゃがんだ状態で去っていった妻を見ていた百敷の胸で、妙に緊張する予感が走った。
百敷喜左衛門は博学な上に百戦錬磨の外交官でもある。ゆえに普通の人が見逃しがちな些細な雰囲気からでも鋭く勘が働き、微兆を読み取るような男であった。
何でもない顔の天珠と、まだ微笑みを残したままの美紗羅が部屋に入ってくるのに対して予感に従うように、顔を真顔にして背筋を伸ばすと正座に近い形で礼をとったのである。
「義父上……?」
そんな百敷の様子に、近くで座っている玄珠がわずかに訝しむ。
今日は孫に会いにきたという私的な訪問であるのにも関わらず、立場があるとは言え、何ゆえ急に公的な態度を示しているのか。そんな疑念が湧いてきた所で回廊に面した襖が、この屋敷の使用人である正蔵によって外から静かに閉じられたのであった。
今の天気は曇り空である。急に薄暗くなった室内に、玄珠の隣で座っている藤枝とその近くでおもちゃ袋を片手にしていた侍女も、何事かと驚いてしまう。
五人だけになったその部屋では、入り口付近に立っている天珠と美紗羅の顔から笑顔が消えた事によって静まり返ったのであった。
「父上、母上、どうなされ——」
ものものしい雰囲気を出している二人に向かって玄珠が腰を上げかけた時だった。
弾かれたようにどかどかと板間を踏み鳴らして歩いていった天珠が玄珠とすれ違うと、藤枝の近くにいたその侍女の首根っこを掴み、荒々しく引きずり出して部屋の真ん中へ力まかせに叩きつけたのである。
玄珠と藤枝が突然の事に驚き目を見開いて動けずにいる近くで、百敷は微動だにせず、表情も崩さぬままでいる。しかし、頭の中では目まぐるしくなぜこうなっているのかを考えていた。
倒れた侍女は何が起こったのか一瞬分からないでいたが、すぐに我にかえると戸惑いながらも板間に打ちつけて痛む身体を無理やり起こして抗議をしようとした。
「な……にをなさいま——ひぃ!」
しかし、目の前にそびえ立つムキムキの巨体が放つ怒りと、その上から自分を見下ろす獅子のようにいかつい顔の鬼のような形相に、恐怖で腰が砕けて動けなくなってしまったのであった。
「何がだと? このクソ女が——」
再度つかみかかろうとしたそのゴツい腕を、美紗羅が言葉で制す。
「あなた、まだ痛めつけるのは早いわ。気絶してしまう」
「はい、分かりました」
結婚してもう随分と経つのに天珠は煌珠の荒小姓時代の癖が抜けず、お姫様である妻の言葉には反射的に従ってしまうものであった。
「それで? この件は百敷家としての企みとして良いのかしら?」
座り込んでぶるぶる震えている侍女の前に進み出てきた美紗羅は、無表情で静かに奥で座っている百敷へ問いかけた。
「企みとは?」
こちらもまた、表情を表に出さないで落ち着いて問い返した百敷であったが、次の言葉ではついに驚きを表に出してしまったのである。
「凰姫の暗殺よ」
「なっ——‼︎」
あまりの青天の霹靂な内容に、聞いていた玄珠と藤枝もまたそろって愕然としてしまう。
「いいえ! 恩義ある御神野家へ、凰姫様へ、かような不忠を『百敷家』は考えも致しませぬ! 決して!」
床に額を打ちつける勢いで叩頭してから顔をあげ、しっかりと目を見て真剣に訴える百敷に、天珠も美紗羅も百敷家の惣領である喜左衛門の関与はなかったのだと確信する。
元より、誠実な人柄で真摯に御神野家へ尽くし、緋凰を学問の師として育ててきた百敷喜左衛門なので二人は疑ってなどいなかったのではあったのだが。
「そうか。なれば小娘ひとりが随分と大それた事を……。御神野家も舐められたモンだな」
今にも殴りかかりそうに燃える目で見下ろしてくる天珠へ、侍女は震えながらもありったけの勇気を出して抗議の声を上げてみた。
「そ、そ、そんな——こと! 私にだってできるはずはありません! 何かの間違いです!」
「そう? でも貴方は前に鳴朝城で、迅ノ進と藤枝が想いあっていると吹聴して緋凰に藤枝の存在を示した挙句に、二人を寺で会わせて緋凰の婚姻を邪魔してくれたわよね? 私たちはちゃんと知っている。でも、当時のお殿様(煌珠)が『いずれは知れた事、捨ておけ』、だなんて言うものだから見ぬふりをしたまでよ」
「それは……」
美紗羅の追及でサッと青ざめた侍女の耳に、奥から何も知らなかった藤枝の震わせた声が聞こえてくる。
「そ……んな事をしたの? まさか……どうして……」
「それは……それは認めます! だって、だって藤姫様も迅ノ進様もあんなに想いあっていたのに一緒になれないんじゃかわいそうだったから……。姫様だって泣いておられたでしょう、だからお二人の為だったのです! お殿様だって『許して』くださったのだし!」
煌珠が咎めないと言ったとの事で安心したような顔で自供した侍女に、天珠が苛ついて掴みかかろうとしたが、
「——この!」
「あなた、まだよ」
「はい、分かりました」
美紗羅が冷静に止めるのであった。
怒り心頭が目に見えている天珠へ怖くて向き合う事ができず、侍女は美紗羅へすがるような声で弁明を続ける。
「ですが、私が凰姫様を『殺して』などしていません! わ、私は刀なんて握った事もありませんし、力も弱いから人なんてとても殺せません! 戦場にだって怖がりで近寄れないくらいなんです!」
必死になって喚いている横に天珠がスッとしゃがむと、睨みつけながら憎らしげに言う。
「そうだな〜。お前のような奴はのうのうと守られているだけなんだよな〜。凰姫は怖くても、それでも命がけで戦場に出た。結果的にはお前も守ってもらったものだというのにクソが。……それで、お前は何で凰姫が刀でやられたと思ったわけ?」
「え……え?」
人が殺される方法などいくらでもある中で、しかも自分は非力だと言うのに『刀を』、と言ってしまった不自然さに侍女が気づく前に、美紗羅もまた忌々しげに言い放つ。
「お前には別の『力』があるのでしょう。でもこれだけは知っておくといい、『お金で繋がる縁など無きに等しい』、とね。——入りなさい」
回廊へ呼びかけた声に反応するように襖がわずかに開くと、そこから杖をつき、片足を引きずりながら入ってきた人相の悪い男を見るなり侍女が息を呑んで動揺したのを、百敷と玄珠は見逃さなかった。
「よぉ。悪いな」
そう呼びかけるなり阿三郎は懐から豪奢な巾着を取り出すと、それを腰が砕けたままの侍女の前に放り出した。
「だ、だ、誰よあんた! こんなの——私は知らない!」
顔面を蒼白にさせて叫ぶ侍女に、阿三郎はは薄ら笑いを向けた。
「あの者、強すぎてわしでは倒せなかった……。もうお前も諦めろ、今頃は矯堪寺の尼も捕まっているだろうよ」
「え……凰姫は……生きてるの? でも、でも、城にも城下にもずっと戻っていないから……死んだんだって……」
「なんだと!」
そのような事態になっているとは知らなかった玄珠が度を失って鋭く叫び、百敷も眉をグッとよせて膝の上で拳を握ってしまう。
部屋の真ん中で絶望のあまり観念してしまい、スッと胸を冷たくして息が止まってしまった侍女の肩が……がくりと下がると、今度はわなわなと怒りで震えながら阿三郎を睨みつけるのだった。
「……この……この……裏切り者めぇ! あんな子供すら殺せないなんて、なんと情けない!」
初めて見るその侍女の裏の顔に、主である藤枝は信じられない思いで座ったままよろめいてしまったのを、玄珠がサッと支えていた。
罵倒された当の阿三郎は、ふんと嘲るように鼻を鳴らし背を向けると、
「ハハ、まぁ良い。わしは別に今生の最期で、あのような清々しい武士と刀を交える事ができたのだからな」
そう言葉を置いて部屋を出ていったのであった。
襖が閉められた後の冷ややかに注がれる部屋中の視線で、侍女の怒りはやがてまた恐怖に戻る。
怒りに身を任せてうっかり阿三郎との関与を口走ってしまったが為に極刑はもはや免れる事がない。拷問される恐ろしさや、死にたくもないという勝手な思いに侍女は狼狽して後ろを向き、正座している百敷の膝元へ転がるようにすがりついて目に涙をためながら懇願を始めたのであった。
「お、お、お助けください! これは、百敷家の為にやった事なのですから! どうか!」
「百敷家の為だと?」
姿勢を保ったまま射抜くように鋭くした目だけを合わせて百敷は問うのだが、侍女は自分の命がかかっている以上、なりふり構わず喚き続ける。
「だって、だってそうでしょ? 御神野の本家のお殿様たちが『みんな』お亡くなりになった今、あとは凰姫さえいなくなれば家督は確実にこちらの御神野家のもの。そしてゆくゆくは百敷の血筋でもある隼千代様がお継ぎになるのですよ! そうなれば百敷家はだい安泰! その時にはみんな私に感謝していますって! そうよ、御神野の分家の方々だってほんとは……凰姫がいなくなって心の中では嬉しいと思っているのでしょう!」
正気の沙汰ではない、と部屋の誰もが思った。
そんな中、百敷は低く押し殺した声で、目の前で歪んだ笑い顔になっている侍女がさらに正気を失うような説明を投げつけたのであった。
「こちらの御神野様方も、我ら百敷家の者達も皆、御神野の本家の方々を心からお慕いし、忠実に仕えている者しかおらぬもの。ゆえにこの先誰もがお前を恨む事になるであろう。それに隼千代が御神野の惣領となることはない。なぜならば、今をもって藤枝は里に戻る(離縁する)事となるであろうから」
侍女にとっては目の前にある栄華をふいにするといったように聞こえるその発言に、驚きすぎて身体中に痺れが巡った。
「な、何を言うのですか⁉︎ せっかく私が命をかけて百敷家へ尽くしたというのに! み、みんな今はびっくりしてしまっているだけで、あとになれば私の方が『合ってた』って分かりますから! それに、あんなに仲の良いご夫婦を引き裂くなんて酷すぎますよ! ねぇ——」
さぞや玄珠も藤枝も反発するだろうと二人へ振り向いてみせたのだが……。
全身を震わせながら俯き、唇を噛んでいる藤枝と、険しい顔で何も言わずにこちらを見ている玄珠の姿で離縁を受け入れる覚悟を決めていると分かり、侍女は信じられない思いになるのであった。
その時、ずっとしゃがんで様子を見ていた天珠がぶっきらぼうに口を挟んできた。
「あとてめえはよぉ、ひとつ勘違いをしているな。(御神野)本家のお殿様は生きているぞ。だからどうなろうと俺らに家督がくることなんぞありえぬ。命までかけてとんだ無駄骨だったようだな〜」
「う、うそ! 嘘よそんな! ずっとお殿さまの姿がないから死んだんだってみんな言っていて——」
仰天して顔中をくしゃくしゃにした侍女の真後ろでは、ついに声を上げて百敷がとどめを刺すように言い放つのであった。
「……今のうちに隼千代を手懐けていつか権勢を振るうつもりであったのだろう、愚か者めが! お前の所業で家は取り潰し! 今日で百敷家は滅ぶのだ!」
「そ……な……」
百敷家の惣領が自ら家を取り潰すなどあり得ないと侍女はその言葉を信じようとはしなかったのだが、いつも穏やかに笑う顔とは裏腹である百敷喜左衛門の決死の表情と雰囲気で本気なのだと分かると、ついに正気を失って言ってはならぬことを叫んでしまったのであった。
「うわあぁぁぁぁぁーーーーー‼︎ 何でよぉ! あんな瑠璃の化け物! 戦であのまま死んでしまえばよかったのにーーーー‼︎」
瞬間、カッと頭に血が上った百敷と天珠が腰の脇差に手を置いた。
そして——。
バシンと痛々しい音を響かせて、男達が刀を抜く前に侍女は美紗羅から平手打ちで倒されたのであった。
「正蔵、もういいわ。連れておゆき」
その命令と同時にサッと開いた襖から丸めた筵を片手に男が一人、部屋に入ってくる。
「ひっ——た、助けて——」
この後の自分の末路を瞬時に悟った侍女が、顔をこの上なく引き攣らせて藤枝に向かい手を伸ばしたのだが、素早く正蔵に手刀で気絶させられ、さっさと筵で全身を包まれてしまうとあっという間に担いで連れ去られていったのであった。
しばしの間、部屋では誰も声を出せずにいたのだが……。
突如、その静寂を破って百敷喜左衛門が勢いよく立ち上がると、大股で部屋を横切って外へ出ようとしたのを天珠がその腕を掴んで止めたのである。
「駄目ですぞ。まだ貴方様は死すべきではありませぬ」
そのまま庭に出て腹を切るつもりだったのだと分かった藤枝が、小さく悲鳴をあげてしまう。
「……後生です。責を取らせて頂きたい……なにとぞ……」
苦しげに願う百敷へ、天珠はわずかに首を横に振って見せる。
「これまでに百敷家の者たちがどれほど御神野家に尽くしてこられた事か。貴方ほどの『忠義』の者を、あんな小娘ごときに奪われるつもりはありませぬ。この事はここにいる五人と、先ほどの男しか知らぬ事ですから——」
「いいえ、いけませぬ! もとより御神野の殿様方からは身に余るご厚意を受けてきた百敷家が忠義を尽くすのは当然のこと。ただでさえ娘の為に凰姫様のご縁を壊してしまったが挙句に、あんなにもお家騒動に気を配っておられた殿様方のご意向を……我らごときが脅かしてしまったなどと……」
自身の能力を評価してくれて適材適所な場所で重用し続けてくれた閃珠や煌珠らに対してあまりにも申し訳なく思い、また、百敷家の惣領として家中に目が届かなかった事が口惜しくもあり、頭が上げられずに俯く百敷喜左衛門の両手に拳が固く握られる。
「ですが……ここで突然いなくなってしまえば、百敷殿を敬愛している凰姫がどれほどに悲しみ、苦しむ事か」
正面からかけられた声に百敷が顔を上げると、目を合わせた美紗羅が困り顔で説得を続けてくる。
「そしてその凰姫が、この事で私たちの息子を頼って何も知らずに都へ向かってしまっているのです」
「な……んですと⁉︎ 凰姫様が都へ……。いけませぬ! ずっと大殿様方が都の御神野家から凰姫様を『守って』おられたというのに——」
目を見開いて眉も寄せた百敷の腕から手を離した天珠も、困り顔で話を続ける。
「責を取るとおっしゃるならば、腹を召されるのではなく凰姫をこの国へ戻す事に尽力して頂きたい。そして、この二人もこのまま夫婦でいさせてやってほしい。隼千代の為にも……」
その言葉にそっと後ろを振り向いた百敷の目に、憔悴した様子で立ち上がっている娘の藤枝と、それを支えている玄珠が頭を下げた姿を見る。
徐々に焦りと動揺がおさまってくるのを感じた百敷は、グッと目を閉じて考えを巡らしてから静かに答えたのであった。
「……分かりました。豪ノ進様のお言葉に甘えさせて頂いて藤枝は……正室ではなく側室として迅ノ進様のお側に置かせて頂きとうございます。そして必ずや、凰姫様がこの国へお戻りになるよう全力を尽くします。責はその後に……改めて取らせて頂く所存にございます」
崩れるようにその場で両膝と両手をついて深く叩頭して宣言した百敷に、とりあえず自害を踏みとどまらせる事ができて良かったと天珠は内心で大きく安心して急いで立たせてやるのであった。
ここまでお読み頂き、本当にありがとうございます。
これからも、どうぞよろしくお願い致します。




