7-51 恐れていた事
読んでくださり、ありがとうございます。
○この回の主な登場人物○
御神野 緋凰(通称 凰姫)……主人公。この国のお姫様。十歳。
御神野 月ノ進 鳳珠……緋凰の実兄。
美紗羅……緋凰の叔母。
御神野 優ノ進 璉珠……美紗羅の三男。緋凰の従兄。十一歳くらい。
真瀬馬 瑳矢之介 光桐……緋凰の世話役兼護衛。十二歳くらい。
こうして終わった国を守る為の戦であった。
だが悲しい事に、緋凰にとってこの戦においての悪夢はまだ終わらなかったのである。
元は病弱さのある鳳珠が勝算の少なかった苑我家との戦いで、たとえ己の命を犠牲にしてでも大切な者達を守るべく自ら出陣をし、激戦に身を投じていた事で身体に大きく無理が祟ってしまっていた。
その為か、戦後処理を終えて鳴朝城へ帰ってからというもの、夏の間には前にも増して幾度となく寝込んでしまい……。
そしてとうとう、冬の中頃に再び倒れてしまったのである。
「兄上! どうして起きないの⁈ 兄上! 起きて、起きてよぉ! 兄上……お願いぃ…………」
緋凰は枕元で四六時中、泣きながら呼びかけて皆と必死に看病をするのだが、鳳珠は一向に目覚める気配もなく、ただただ……眠り続けているのであった。
ーー ーー
北風が強く吹き抜けてゆく鳴朝城の二の丸御殿にある玄関先で、急いではいても美紗羅は慌てないように気をつけて乗物から降りていた。
両足を地につけて侍女に手を引かれつつ顔を上げると、空に敷き詰められている鈍色の分厚い雲からはらはらと落ちてくる細雪が視界に入ったのだが、そんな事には目もくれずに奥へ進んでゆく。
「母上!」
すると、玄関に入ったとほぼ同時に奥から走ってきた息子に出迎えられ、その不穏な様子に素早く履き物を脱いで式台に上がりながら美紗羅は眉をひそめて問いかけた。
「璉珠、緋凰は? あの子は大丈夫なの?」
もう、ひと月も鳳珠が目覚めない事で緋凰までもが悲しみのあまり参ってしまっていると聞いて駆けつけてきた美紗羅へ、璉珠の後ろから追いついてきた鳳珠の妻である銀河が、一礼をして代わりに答えたのであった。
「お越し頂きましてありがとうございます。緋凰は今、どうにも……お話をできるご様子もないほどに……。申し訳ありません、わたくしが至らぬばかりに——」
「二の殿(銀河)」
最後には俯いてしまった銀河の言葉を遮って美紗羅は近くまで歩いていくと、その華奢な腕にそっと手を添えた。
「緋凰の事は私にお任せを。貴方様は大丈夫ですか? さあ、一度お部屋へ……。ゆっくりお休み下さい」
「え……? ですが……」
緋凰を案じてはいても、銀河とて鳳珠は最愛の夫である。青白くなっている顔色を見ても、心配で辛い思いをしているのは一目瞭然であった。
思わぬ自身への気遣いの言葉で、気を張り詰めていた銀河の瞳からほろりと涙が出てきてしまう。
そのまま何も言わずにゆっくりと抱きしめた美紗羅の胸で少しだけ涙を流した後に、侍女のおひさに支えられて銀河は自室へ歩いていったのであった。
その背を見送った美紗羅は、璉珠を伴って緋凰の元へ向かうべく廊下を足早に進んでいく。
途中で忘れずに今ひとり、鳳珠を親のように慕っている者の様子を心配して問いかけた。
「星ノ進(双珠)は? あの子も大丈夫なの?」
「……だいぶ参ってはいますが、星殿はまだ大丈夫です、ちゃんとご飯は食べてくれますから。でも凰姫は……もうずっと何も食べてくれないのです。このままでは凰姫の方が……先に……」
この言葉に驚いた美紗羅は思わず足を止めて振り向いてしまう。
「なんですって⁈」
「ずっと皆で説得をしていたのですが聞いてくれなくて……。しかも、だからって瑳矢之介まで——」
もごもごと言い淀みながら下を向いてしまった璉珠を見て険しい顔になった美紗羅は、再び足早に歩き出すとたどり着いた部屋の前に来るなり取り次ぎも忘れ、襖に手をかけて開け放すなり勢いよく中へ飛び込んでいった。
ところが……。
部屋の中では、中央の褥に寝かされている鳳珠の奥にあたる枕元で双珠が背を丸めてあぐらをかき、虚ろな顔をしているのに対して、手前では寝転んでいる緋凰がしっかりと鳳珠の腕を抱き込んで顔を埋めている。
その隣では、瑳矢之介がその背を撫でて静かに座っているのが見えた。
部屋の中があまりにも重い空気であったが為に、一瞬たじろいでその場に立ち尽くしてしまった美紗羅ではあったが、すぐに気を取り直して奥へ進んでゆくと、ようやくその気配に気がついた瑳矢之介が顔をこちらに向けて見上げてくる。
その琥珀色の瞳には、まるで光がないようであった。
「瑳矢之介……あなた……」
美紗羅は近くに置いてある盆の上に、手付かずの粥が入っている器を二つ確認すると急いで膝を折り、緋凰の肩をつかんで無理矢理こちらを向かせてみたのだが……。
「緋凰……」
泣き腫らしている目を閉じ、わずかに口を開けているその顔は紙のような白さで痩せこけており、力の全く込もらない身体には生気すら感じられない。
思わず息をしているのかを確認するように手を口元へかざした美紗羅は、動揺が隠しきれなかった。
「し、しっかりしなさい! 緋凰! 緋凰!」
予想を上回る酷い有様に、もっと早く来るべきだったと後悔しながらその肩を片腕に抱いてぺちぺちと頬を軽く叩くように揺さぶり、懸命に呼びかけていると……、うっすらと瞳が開いたのであった。
「…………おばうえ……?」
ささやくように小さな声で応えた緋凰を見て、少し胸を撫で下ろした美紗羅は声を震わせながら声かけを続けた。
「緋凰、何をしているの⁈ これでは貴方が先に参ってしまうわ! とにかく、食べないと——」
それを聞いた璉珠が急いで盆を隣まで持ってきたので、美紗羅はしっかりと緋凰の上半身を腕の中で立て、器の中の上澄みをすくった匙を口もとへ運んでみたものの、
「……いやだ……わたしも、兄上といっしょにお花畑にいく……」
かすれた声でそう言うと、緋凰は口をつぐんでしまうのだった。
焦る気持ちを抑えてわずかに考えると美紗羅は一旦、匙を器に戻してそのやせた頬を優しく撫でた。
「緋凰、聞いてちょうだい。月ノ進様はお疲れで眠っておられるだけなのよ。目覚めた時に貴方が倒れてしまっていては驚かれてしまうわ」
耳に届くその話に反発するかのように、緋凰はぐっと眉を寄せて目の前を見つめる。
「でも、起きないよ……。……あにうえが死ぬとこなんて見たくない……から先に……」
「何を言うの緋凰! 貴方がいなくなれば悲しむ人がたくさんいるのよ!」
「……でも……でも……わたしがどうしてもこの世にいなければいけない事なんて……ないでしょ?」
この呟きを聞いて璉珠と瑳矢之介の聡い二人は、生前に煌珠が緋凰を早々に玄珠へ嫁がせようとした意図に気づいたのであった。
——そうか……。たぶん伯父上は予想していたんだ。こうなるかもしれない事を。
もし自身がいなくなった後に鳳珠まで失われるような事態になった時の為に、別で緋凰に家族を持たせ、『生きねばならない理由』を作ろうとした。
そして、あの時点では『瑠璃姫』の緋凰をあらゆるものから守り抜いていけるのは義弟である天珠の家族だけであり、年が近くて託せるに値する技量を持ち合わせていたのが玄珠であったのだった。
——それに気づいておられたのだな、迅ノ進様は。だから一番好きな人を諦めてでも、緋凰を守るべく受け入れようとした……。
座っている膝の上でグッと拳を握る二人が見つめるその先では、虚な目をしている緋凰を美紗羅が抱きしめている。
「……貴方のお父上も、お祖父様も……お母上だって、緋凰に元気で生きてほしいと、ずっと……今でも……願っているのよ」
「でも……」
「皆の想いを大切にして……。辛いとは思うわ、けれど頑張って食べてちょうだい。瑳矢之介、お前も——」
「……え?」
美紗羅の最後の言葉を不思議に思った緋凰はのろのろと顔を上げると、腫れて半分も開いていない瞼を無理矢理に開いてみる。
いつものように姿勢よく座っている瑳矢之介ではあるが、その姿は自身と同じように顔色悪く頬も身体も痩せてしまっており、それでも瞳は毅然として静かにこちらを見つめていた。
「瑳矢之介……?」
ずっと鳳珠だけを見て泣いていた事で、緋凰はようやく今になって、瑳矢之介も自身と共に何も口にしていない事に気がついたのである。
思いもよらなかった事にスッと肝を冷やし、慌てて美紗羅の腕から起き上がろうとしたが、憔悴しきっていた身体には力が入らずに前のめりに倒れてしまいそうになる。それを瑳矢之介が無言で受け止めたので緋凰はその袖を片手で掴んで顔を寄せたのだった。
「……なんで……食べないと……」
「凰姫様が……主が先です。私はその後に……」
平然と答える瑳矢之介だが、緋凰に合わせて何も食べていない為、今にも倒れそうなのを強靭な精神で持たせているのに違いなかった。
(なんで? どうしてそんなに瑳矢之介はわたしとの『義』に命をかけるの?)
自身への『同情』などで死なせたくもないと思うと、緋凰は突っかかるようにして声を上げてしまうのだった。
「そんなこと言わないでよ! 瑳矢之介には関係ないのに——」
だが、言いかけた次の瞬間、
「『死なばもろとも』だ‼︎」
語気を強めて返した瑳矢之介の言葉に、緋凰はハッとなった。
「貴方はそう言ったのだ! あの時に!」
真っ直ぐに目を合わせて瑳矢之介は言葉を続けると、
「緋凰がこの先、生きるにしろあの世へゆくにしろ……俺はずっと、ずっと共にいる」
袖にある緋凰の手の甲へ自身の手を乗せてしっかりと握る。
「まだだ——」
言葉を失ったまま腫れた目を丸くして見つめる緋凰へ、今度は落ち着いた声で瑳矢之介は説いた。
「まだ諦めるな緋凰。月ノ進様は頑張っておられる。今こそお守りする時だ。その為に緋凰はずっと頑張ってきたのだろう?」
話している琥珀色の瞳に、自然と涙が溜まってきている。
「守ろう……皆で一緒に……」
ついに頬を伝った瑳矢之介の涙であまりにも胸が締めつけられてしまった緋凰は、返す言葉を出せぬままに見つめ続けている……。
すると、ふいに璉珠が隣に膝を進めてきてその背をゆったりと撫でた。
「そうだよ、瑳矢之介の言う通りだよ。みんなで月ノ進様を守らないと……だから——」
そう優しく声をかけると、盆の上にある器から粥を少し匙に乗せて緋凰の口元へ持っていったのだった。
「まずは、凰姫がしっかりしないとね」
さあ、と促して微笑む璉珠の瞳にも涙が滲んでいるのを見た緋凰の瞳からもまた、出尽くしたと思っていた涙がぽろぽろと溢れ落ちてきたのである。
(守る……兄上を……そうだ……)
少し心が落ち着いた事と、皆の必死の説得によってようやく後ろ向きだった気持ちが薄れてきた緋凰は、それを振り払うように両目をギュッとつむってから勢いよく開くと、差し出されている匙の先をパクリと口に入れたのだった。
その様子に部屋の者達全員がホッとした顔を見せている中、小さく食んで粥を飲み込んだ緋凰が急に畳へ置かれている盆に飛びつくと、中にあるもう一つの匙を取り上げて器から粥をすくっている。
そして、それを震える手で瑳矢之介の口元へ持っていって小さな声で言うのであった。
「……一緒に……」
涙がとめどなく流れている緋凰の顔を見つめた後に瑳矢之介はそっと微笑みかけると、口を小さく開いてそのまま差し出されている粥を口に入れているのであった。
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