7-26 伝えておきたいもの
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○この回の主な登場人物○
御神野 緋凰(通称 凰姫)……主人公。この国のお姫様。
御神野 月ノ進 鳳珠……緋凰の実兄。若殿
御神野 律ノ進 煌珠……緋凰の父。お殿様
御神野 星ノ進 双珠 (改名前・星吉)……煌珠の養子となり緋凰の兄となる。鳳珠の小姓兼護衛。
真瀬馬 瑳矢之介 光桐(幼名・瑳矢丸)……緋凰の世話役兼護衛。
その日、峠より北の方では昼近くになってくると小雨が降り出してきた。
すると、そこは龍神の通り道なのだろうか。ぽつぽつしていた小雨がやがて一気に大雨へと変わり、この季節には珍しいほどの豪雨となってしまったのであった。
「——それで、奇襲をかけたのだが(敵の)数をあまり減らせぬばかりか兜首一つ、取れなかったというのか?」
怒りをたたえているように低く押し出されたその声で、苑我軍の峠からの伝令である兵士は片膝をついたままさらに縮こまってしまっていた。
「も、申し訳ございませぬ。……ただ、御神野の大殿と言った者に深手を負わせたとの話はありました」
「死んだのか?」
「えと……生死までは……分かりませぬが……」
「それでは、相手方の動揺を誘えぬではないか。……まあ、死んだとしても(その事実を)向こうは伏せているのであろうが」
「申し訳ありませぬ……」
今度は項垂れてしまった伝令を見てフンと息をつくと、目の前で床几に座って報告を聞いている小具足姿である少し恰幅の良い中年の男は、雨宿りをしているこの寺の本堂の中で立ち上がるとその場で後ろを向いた。
「まさか後ろにも横にも退かずに、正面を突っ切るか。……なかなかに賢しいな、御神野煌珠殿は」
大きな目の上にある眉間をクッと寄せて眼前にあるこの寺のご本尊を見つめた苑我家の惣領であり、この軍の総大将でもある苑我隚鐵はふいに横を向き歩いていくと開いている板戸の手前で足を止めた。
縁側の向こうにある外では、派手な音を立てて嵐のように強い雨が地面を打ちつけている。
峠まであと一息の距離であるのに、苑我軍の本隊はこの雨で足止めを食ってしまっていたのであった。
一度大きくため息をつき、苑我隚鐵は小さくつぶやく。
「……網には掛からなかったか」
そしてしばしの間、降りしきる雨を険しい顔で睨みつけているのであった。
ーー ーー
一方で——。
峠の南側では、空が鈍色の雲で覆われてはいても時折り霧雨が降りてくる程度の静かな天気であった。
それでも御神野軍は一旦、原から一番近い集落まで下がり、本隊はその付近にある大きめの寺にて陣を構えている。
昼になり、寺の本堂にて各部将達との評定を終えた煌珠が寺にあったやたらに長い柄をしている箒を二本も携えて、境内の奥にある庫裡に向かって歩いていた。
後ろにはいつも通り小姓兼護衛の与太郎も従っている。
庫裡の前まで来ると玄関には入らず庭の方から進み、やがて一つの部屋の前にくると縁側まで来て足を止めた。
すると、その上でこちらを見て片膝をつき、礼をとっている真瀬馬弓炯之介の背にある半分だけ開いている板戸の中から、嗚咽を堪えている声が小さく聞こえてくる。
しかしためらう事なく無表情でいる煌珠は、部屋へ声をかけるのであった。
「おい、緋凰。表へ出ろ」
わずかな間の後に部屋から出てきたのは、評定が終わってから先に戻っていた鳳珠であった。
「父上、緋凰はまだ気持ちが落ち着いておりませぬ。……どうなされたのですか?」
そう言って膝をついた鳳珠の質問には答えず、煌珠は与太郎へ箒を渡して指示を出し、履き物も脱がずに縁側へあがるとその横を通り、板戸を片手で全開にして部屋の入り口に立ったのである。
中では正座の状態から上半身を床に突っ伏してダンゴムシのように丸まり、閃珠を思って背中を震わせながら声を押し殺して泣いている緋凰がいる。
その横に座り、背を撫でて落ち着かせようとしていた瑳矢之介が手を止め、近くで一緒になって涙を流していた双珠が顔を上げ、二人してこちらへ礼をとっていた。
その状態にも関わらず、煌珠は再度娘へ声をかけ続けた。
「起きろ。泣いている暇などない、早く庭へ出ろ」
この声でようやく緋凰はもそもそと顔をあげると、泣き腫らした目でしゃくりあげながらこちらをじっとみつめたのである。
「……お庭? なんで?」
「今からお前は俺と打ち合いをする」
にべもなく言い放たれた言葉に、近くにいる瑳矢之介と鳳珠はえ? とした顔を煌珠へ向けた。
言われた緋凰としても、
(どうして今、武術の訓練をするんだろう……)
不思議に思い、泣きすぎてぼーっとした頭で言葉の意味を考えてみたが……全然分からなかった。
「……後でがいい」
掠れた声でぼそぼそと返事をしてみたが、
「殺し合いに『待った』など無いであろう。戦場に残りたいと言ったのはお前だ」
即座に否定した煌珠は、
「出来ぬのなら鳴朝城へ戻れ。命令だ」
語気を強めてそう言うと、踵を返し縁側を降りて歩き出した。
「戻る……」
突然現れたのにすぐに去っていく父の背中を茫然と見ていた緋凰の腫れた目に、心配している顔でこちらを見ている鳳珠の姿が映ると、
(い、嫌だ! 帰らない! 兄上の側に居たい‼︎)
慌ててガバッと起き上がりざま無意識に大きく叫んでいたのだった。
「ま、待って‼︎」
その声に庭の端まで歩いていた煌珠は足を止めて後ろを向くと、緋凰が部屋から転がるように出てきたと思ったら、縁側に与太郎が先を外して置いておいた箒の棒を二本とも抱えるようにして持ち、裸足のまま急いで目の前まで走ってきたのである。
「やるよ! やるから戻らないよ!」
今、武術の訓練をする理由も分からずやりたくもないのだが、やむ終えず緋凰はヤケになって怒鳴ると持っている棒を一本ズイッと差し出した。
その時、後を追って部屋から出てきて縁側から同じく裸足のまま降りた瑳矢之介は、緋凰を止めるべきか大いに迷い、その場に立ち尽くしてしまっていた。
——まだ気持ちも落ち着いていないだろうから訓練など無理だろう。そもそも、殿や若殿のおっしゃる通り、緋凰はこのまま鳴朝城へ戻った方がいいのではないか? さすれば、もし、最悪の事態になったとしても……鳴朝城からなら敵が来る前に落ち延びる事もできる……。
考えているうちに、しばし無言で向き合っていた緋凰と煌珠がそれぞれに棒を持って距離を取り出してしまっている。
——駄目だ。やはり止めよう!
そう決意をして一歩を踏み出そうとした瑳矢之介であったのだが、ふいに縁側から降りてきて横に立った人影に足が出なかったのだった。
「若殿……」
見上げていると、なおも心配そうな顔でいる鳳珠のさらに隣へ双珠が立ち、顔の涙を袖で拭いながらつぶやいた。
「姫ちゃん、大丈夫なのかぁ? いっぱい泣いていたのに……」
「…………」
その言葉を聞いても動かないで前を見ている鳳珠の様子に、瑳矢之介はふと疑問が湧いてくる。
——そう言えば……。若殿はあの二人をお止めにならないのか? こんな事、いつもなら真っ先に殿をお諌めなさっているのに。もしかして、この訓練は何か重要だったりするのだろうか……?
そう考えると瑳矢之介は顔を前に戻し、取り敢えずは静観の構えを見せたのであった。
皆の目線を一身に浴びている緋凰は、向かい合った煌珠に対して棒を構えようとした。
しかし、悲しみのあまり身体に力が全く入らない。
それもそのはずで……。
対峙している父の煌珠は、祖父である閃珠と顔が瓜二つ。皺の数くらいの違いしかないと思われるほど同じである為に、否応なしに閃珠を思い出してしまうのだ。
緋凰の目にブワッと涙が出てきてしまい、歪んだ視界で前を見据えていると、もうそこに居るのは煌珠なのか閃珠なのか……分からなくなってくる。
(うぅ……お祖父さま……お祖父さま……)
一度止まっていた涙がまたボロボロと出てきてしまって、緋凰は声を堪えてフルフルと震えつつその場で棒立ちになってしまった。
するとじっと無言で緋凰を見つめていた煌珠が、ふいにポツリとつぶやくように問いかけてきた。
「……お前は、ジジイを忘れるのか?」
「…………?」
声は耳に届いたのだが、感情を懸命に抑えている緋凰はその言葉の意味を考える事も答える余裕もない。
だが、妙にその言葉が引っかかった気がしてわずかに驚いた顔をした。
その様子を見てスッと目を細めた煌珠は、片手で地面へ突き立てていた棒を手首で返し、先を浮かせて構えると、急にパッと走り出した。
一気に相手が目の前にきても、緋凰は腕が上げられない。
構わず煌珠が棒を横から払いかけると——。
「待って下さい‼︎」
突如、両手を広げて瑳矢之介が緋凰を背にして二人の間に入り、立ち塞がったのだった。
その頬の真横で払われた棒がピタリと止まる。
「……どけ。邪魔をするな」
瞬き一つしないで真っ直ぐに見上げてくる琥珀色の瞳を受け止めて、煌珠は静かに命令をした。
だが、瑳矢之介はその場に片膝をついて頭を下げると、
「どうか、今少し刻をください! お願いします! どうか——」
切羽詰まった声で必死に願い出てくる。
その後ろでは、とうとう手からガランと音を立てて棒を地に落としてしまい、そのまま崩れるように身体を丸めた緋凰がしゃくり上げ始めるのだった。
「…………」
その二人を見て構えを解いた煌珠の横に、
「父上」
鳳珠が歩み寄ってきた。
「瑳矢之介に免じて今少し、お待ち頂けますか? 少しだけ……」
穏やかに諌められた煌珠は丸まっている緋凰を見つめてから小さくため息をつくと、身体の向きを変えて持っていた棒を無造作に放り投げ、そのままスタスタと歩き去っていったのだった。
その背を見送ってホッと胸を撫で下ろし、後ろを向いて緋凰の背を撫で励ましの言葉をかけている瑳矢之介へ、鳳珠はそっと小さく笑んでいたのであった。
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これからも、どうぞよろしくお願い致します。




