7-22 出陣式
数日後の空には、鈍色の雲が垂れ込めていた。
その日の早朝、慌ただしい二の丸御殿の台所では——。
バターーン!
空気を震わせて鳴り響く恐ろしい音に、座って作業をしている使用人達の手がピタッと止まる。
ドゴーーン!
二度目の音に、配膳の準備をしている使用人達の足が止まった。
恐ろしげな顔でコソッと皆が注目している先では……。
板の間に座ってまな板の上にある大根を輪切りにしている緋凰がいるのである。
ガッ……ズガン!
勢いよく切られた大根の片方がまな板から吹っ飛んでいったので慌てて追いかけている緋凰を見ながら、隣で座っている包之介は青い顔をしつつ、
——くっ……とても野菜を切っている音とは思えぬ。指まで落としてしまわれそうで恐ろしい……。お姫様がするような事ではないのだが、上達したいとの仰せ。経験を積むためにもあまり口を出しては……。しかし、怖すぎてこちらの心の臓がもたぬ。
ハラハラと歯を食いしばりながら見守っていた。
いそいそと大根のカケラを片手に戻ってきた緋凰が、改めて残りの大根に刃を入れていると、
「戻りました。あっ! ほら、凰姫様! 包丁を持っていない方の手は猫の手ですよ!」
別の仕事を終えて戻ってきた瑳矢之介が緋凰の調理姿を見て、さっそく注意喚起をし始める。
全然気にしない緋凰は顔をあげて笑った。
「おっと指が伸びてた……。おかえり〜瑳矢之介。ふふん、これ全部わたしが切ったんだよ〜すごいでしょ♡」
なかなかの不格好に刻まれている野菜たちの前に立つと、
——この人は……刀剣の扱いは羨ましいほど見事なのに、なぜ包丁の扱いになると、こんなにも不器用なのだ?
瑳矢之介が謎に満ちた顔で手前の器を覗き込む。
おそらく、小口切りにされたのであろうネギを見てぼそりとつぶやいた。
「荷車に轢かれたみたいだ……」
「ん? なになに?」
「いや、なんでも——」
緋凰が瑳矢之介と目を合わせたその時だった。
けたたましく陣鐘や陣太鼓の音が、鳴朝城から一斉に響き渡り始める。
その場の皆にサッと緊張が走った。
そんな中、緋凰は包丁を置いてゆっくりと土間に降りると、そのまま瑳矢之介を伴って表に出てゆく。
「陣触れだね」
音の鳴る方角を望みながら小さく独りごちた緋凰の髪が、冷たい風になびいたのであった。
ーー ーー
「くぅ〜! やっぱ、カッコ良すぎるだろ! 岩踏様はよぉ〜。郎党になりてぇ」
「おれ、豪ノ進さま(天珠)……いいやしかし! こないだの迅ノ進さま(玄珠)がやべえぐらいかっこ良かったしなぁ〜」
「おい、あの兜の前立てやばくね? あれ誰だ?」
「うおおぉ! あそこ見ろ! 巨人だ! 巨人族が来た!」
「仁王だ仁王! すげぇ! あれが噂の雷殿隊じゃね? ハンパねぇ! 最強だ!」
鳴朝城近くにある神社の手前の大きな広場へ、続々と着到してくる武将たちが書記役に率いてきた兵の数といった事などを報告して着到状を発行してもらっているのを、荷駄の手伝いをしている十二歳くらいの少年達が大興奮をしながらみつめていると——。
「お〜い! みんな〜」
聞こえた明るい声に少年達が振り向く。
するとそこには、小桜威しの鎧に緋色の陣羽織を着て、額に対の鳳凰が向かい合っている形である金の前天冠を戴いている緋凰が、にこやかに駆け寄ってきたので皆が目を吹っ飛ばしたのであった。
「ぬおぉ! 姫武将がガチの格好で来やがった!」
「やっぱマジもんの『武将』じゃねぇか!」
少年達の言葉にムスッとすると、緋凰は反論をする。
「ちがうもん! 武将じゃないし!」
「じゃあ、なんだってんだよその格好はよお」
「……普通の兵です」
「そんなわけねぇだろーーーー‼︎」
鋭くツッコミを入れた少年達はげらげら笑った。
「国一番の『姫』が普通なわけねぇだろ」
このまさかの発言に、
「えぇ⁉︎ みんなわたしの事、知っていたの?」
驚いた顔をしている緋凰へ、少年達はなおも続ける。
「当たり前だ。おれら、こないだも神社の祭礼を屋根の上で見てるし」
「大人たちがそこら辺は知らぬふりでいいって言うから、別に普通にしていただけだ」
「だから言ってんじゃん、『姫』武将って」
「…………」
自身の身分を隠しきれていると思っていたので、ぽかんと口を開けた後に緋凰はぽりぽりと頭をかいていると、隣にいる小具足姿の瑳矢之介が、
「姫様、そろそろ……」
そう促したので頷いてみせておいた。
「みんな」
ふいにきた真面目な声で、少年たちが笑いをやめる。
「——絶っ対に、死なないでね」
語気を強めて言った緋凰は、
「あたぼーよ、なめんな」
「お前らこそマジ死ぬな」
「また道場でな〜」
そう口々に返ってきた言葉に、安心してにこりと笑ってからその場を後にしたのであった。
軽く手を振ってその背を見送る少年たちが、ぼんやりと言う。
「あいつ……、いつか絶対『武将』になるよな」
「だろうな〜」
「おれ……やっぱあいつに仕えてぇな」
「……おれも」
「……おれもだな」
「そうだな〜」
「そうかそうか〜。てめぇらのような悪ガキがあのような高貴なお方にお仕えしたいというのか〜。ん〜?」
「へ?」
最後に突然割って入ってきた聞き覚えのある声に少年達の肝がヒュッと冷え、恐るおそる後ろを見てみると——。
いつの間にか真後ろには、まだまだ寒い気候であるのに両袖をまくり上げてごん太の腕をむき出しにし、竹鞭をペチペチと軽く手のひらに打ちつけて不敵な笑みを浮かべている老人がず〜んと立っていた。
「わあぁぁーー‼︎ 猛者だ! 『猛者翁』が出たーーーー‼︎」
「それならば、てめぇらに『お行儀』と言うものを叩き込んでやろうぞ! 姫様に対してなんつー物言いじゃ! 無礼者めがぁ‼︎」
「ぎえぇーーーー‼︎」
「やべぇ! 逃げろ! 散れ!」
腕にある五つの矢傷を光らせながら竹鞭を振りかざした瞬間に、わっと少年達はクモの子を散らすように逃げていったのだった。
ーー ーー
出陣式が始まる頃には、空を覆っていた鈍色の雲が俄かに晴れ、地上には陽の光が降り注いでいる。
神社の本殿の前に陣幕がうたれ、中央には床几が二つ置かれており、そこを中心として左右に武装した御神野一族や重臣達が居並んでいた。
まもなく、詠んだ連歌を神社へ奉納し、戦勝祈願を行なった緋威の鎧に鳳凰の家紋が刺繍されている緋色の陣羽織姿の御神野律ノ進煌珠が、同じ姿でいる嫡子の御神野月ノ進鳳珠と共に粛々と進み出てきて床几に腰を掛ける。
同時に皆もその場にあぐらをかいて座ったのだった。
煌珠が台に置かれた三宝から打ち鮑、栗、昆布を食している間、その前では前天冠はそのままに神職姿に変わっている緋凰が、蹲踞の股を開かない姿勢で長柄の銚子を捧げて控えている。
緋凰は御神野一族が行う出陣式にて酒を注ぐ長柄所役を五歳くらいから任されていて、幾度となく経験している。
だがそれでも、式が行われるたびに極度の緊張を覚えてしまうものであった。
皆の無事を一心に祈りながら、父へ三三九度の酒を注ぐ。
煌珠が終わると次に鳳珠が同じ事をし、緋凰もまた先ほどと同じように兄へ三三九度の酒を注いでいた。
居並ぶ御神野一族と主だった家臣達へ盃がまわされ、それが終わったところで、両翼を大きく円形に広げた半身の鳳凰をかたどる前立ての兜を身につけて支度を済ませた煌珠が立ち上がると、鳥居の方へ颯爽と進んでゆく。
その後ろへ一同が付き従う。
鳥居の階段上に現れた煌珠は、ゆっくりと眼下を見渡した。
階段から一直線に伸びた道を作っている沢山の軍勢が、左右にひしめいて一斉にこちらを見上げている。
まだ誰も口を開かないどころか、物音一つ立てようともしない。
そんな中、御神野豪ノ進天珠が進み出てきて、持っている大弓と鳴り矢を差し出した。
受け取った煌珠は皆に見せるようにゆっくりと矢をつがえ、きりきりと弓弦を引き絞ってゆく。
鏃を空に向けて顔を上げた煌珠の瞳が、瑠璃色に深く澄んでいった。
次の瞬間——。
放つ矢が、ひょうと音を響かせて軍勢の真ん中にある上空を真っ直ぐに飛翔して邪気を祓うと、続いて真瀬馬刀之介忠桐が進み出てきて軍配を手渡している。
右手で弓杖にして三度地を叩き、左手に軍配を掲げ、煌珠は大きく掛け声を上げた。
「えい! えい! えい! ——」
後ろの御神野一族や家臣達が、
「応ーーーーーーーーーーぅ‼︎」
雄々しく鬨を合わせると、
おぉーーーーーーーーーー‼︎
続けて軍勢も大きく鬨の声をあげるのである。
勝鬨に空も大地も力強く震わせて、いざ、合戦の一歩が踏み出されたのであった。
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