7-2 現(うつつ)の夢 前〜都の瑠璃姫〜
読んでくださり、ありがとうございます。
古より続く、『まだ』華やかである都。
御所近くにある大きな神社の隣には、御神野家であるとても大きく立派な公家屋敷があった。
その屋敷の奥深くにあるひときわ厳かでありながら、花などで可愛らしく装飾されている部屋の縁側で、小さな少年が笛を奏でている。
その美しく響いている旋律が……やがて終わりを迎えたのだった。
「まぁ……、ほんに、見事な……。素敵〜♡」
外と部屋とを区切るためにおろされている御簾の中から、鈴を転がしたかのように涼やかな声が少年に向かってかけられた。
部屋にいる若い貴人の女は、さらにキャッキャッとはしゃいでいるように、言葉を続ける。
「あぁ……。無理言って『桃千代』に私の所へ寄ってもらったけれど、お武家様の生活や旅のお話しはとっても面白かったし、笛を奏でるのもすっっごいお上手で♡ あ! もしよかったら私付きの楽師になってくれないかしら?」
「いけませぬ、『瑠璃姫』さま。女の方ならともかく、あなたさまに男の方を仕えさせては誰ぞに叱られてしまいます。貴方様はそのうちに入内なさるのですよ」
「あ〜そっか。それはいけないわね。奈由桜っていつもは抜けてる所があって愛らしいけれど、そういうところはしっかりしているわよね〜」
「もう! 姫さまったら……」
桃千代と同じく、御簾の外に座って仲立ちをしているこの侍女である女童は、おっとりとした愛らしい顔にある頬をふくらませてプイッと横を向いてしまう。
その様子にコロコロと笑ってから、瑠璃姫はこちらを向いて座り直した桃千代へ話を戻した。
「貴方はまだお小さい……あ、あら、ごめんなさい。えっと、うんとお若いのに、もうお父上の名代(代理)で都やら色々な所へ旅をしていて、大変ではないの?」
その問いに、失礼のないように目線を下げながら桃千代はその年齢には似合わぬくらいの落ち着いた声で返答する。
「大変ではありますが……旅をする事は割と好きでありますゆえ、そこまで苦には思っておりませぬ」
言った直後に、この賢い桃千代は失言だったかもしれないと、自身の言葉を後悔した。
なぜならば、珍しい瑠璃の髪と瞳をもつ瑠璃姫は、その美しい容姿ゆえに人の心を惑わしてしまうとの事で、この都の神社に併設されている御神野家の屋敷の奥で、人目から隠されるようにして暮らしてきているのを知っていた。
そして、そのように外の人と関わる事がほとんどなかったからなのだろうか、瑠璃姫は口調から分かるように、少し内面が実年齢より幼いようにも見受けられる。
ゆえに、外の世界への余計な憧れを抱かせてしまったのではないかと心配になったのであった。
はたして、その桃千代の危惧したことが現実となってしまう。
「あら、ふふふ……。さすが旅好きである湧ノ進殿のお子なのね〜。……うらやましいな〜。さすがに旅を、とは言えないけれど、私は十四年も生きてきてお屋敷の中しか知らないから、死ぬ前に一度くらいは外を歩いてみたいのよね〜」
「え?」
瑠璃姫の口から出たその不吉な言葉に、桃千代と奈由桜はギョッとして思わず御簾の方へ同時に顔を、思い切り向けてしまった。
「瑠璃姫さま! そのようなお言葉を使わないで下さい!」
慌てて奈由桜がたしなめるのだが、
「…………だって私も長生きなんて出来ないだろうし」
このとんでもない瑠璃姫の発言に桃千代はさらに驚き、奈由桜は真っ青になって立ち上がると、きょろきょろ辺りを見回してこの三人以外に人がちゃんといない事を確認して、御簾の間にするりと身体を滑らせ、部屋の中へ入っていった。
急いで瑠璃姫の膝下へ進み、跪いた奈由桜は怒っている。
「なんて事をおっしゃるのです! そんなわけないではありませぬか! いくらなんでも人前でそのような——」
その言葉を瑠璃姫はため息をつきながら遮った。
「みんな隠してくれているけど、ちゃんと私だって知っているのよ。『瑠璃姫は短命』だって事。……今までの『瑠璃姫』達の中で十五歳を超えた人は誰もいないのだもの」
これまでに御神野の家に伝わっている歴代の『瑠璃姫』たちは、ある者は病で、ある者は政変に巻き込まれて、またある者は自死を選び——。
普通の人とは大きくかけ離れた容姿ゆえか、皆、運命に翻弄されて生きていったのであった。
奈由桜は……言葉を失ってしまう。
御簾の外にいる桃千代もまた、同じ御神野の一族でありながら聞き及んでいなかった驚きの事実に表情を固くしていた。
辺りがしんと静まり返ってしまったので、瑠璃姫は少しバツの悪そうに口を開く。
「……ごめんなさい。そんな顔をしないで、奈由桜。私はね、別にその事を悲観してはいないのよ。だから——」
「当たり前です! 悲観などなさる必要はありません! だって、貴方様はこれからもずっと変わらずにお元気で過ごしてゆかれるのです。何にも巻き込まれぬように一族みんなでお守りしてきました。そしてこれからも——。お身体だって健やかであるのです。だから、大丈夫です! ……わたくしと『友白髪』になるまでいてくださるのでしょう?」
目の前で泣きそうな顔をしている奈由桜の頭を愛おしそうに撫でていた瑠璃姫が、クスリと笑った。
「まぁ、『共』白髪ってご夫婦によく使う言葉ではないの? それではあなたがお嫁に行けなくなってしまうわ」
「わたくしはお嫁になどいきませぬ。永遠に姫様のおそばでお世話して差し上げるのですもの」
「もぉ〜、奈由桜ったら可愛い〜♡」
御簾の向こうで、瑠璃姫が奈由桜をギュッと抱きしめて喜んでいるであろう影をみながら、自分の存在を忘れられていそうに感じている桃千代はそろそろ帰ろうか、と考えている。
——と。
「あ〜あ。この髪や瞳も普通の色なら、もう少し……自由があったのかしら?」
御簾の向こうから聞こえてきた、ため息まじりの言葉に桃千代は何故だか無意識に顔を上げると、
「自由が欲しいのでしたらなぜ、そのようになれるよう、動かないのですか?」
つい、その疑問に言葉を投げてしまったのだった。
御簾の向こうの気配がピタリと止まる。
ハッとした桃千代は、しまったと動揺して目線を慌てて下げた。
瑠璃姫の気分を損ねたであろうと思っていたのだが……。
予想は外れたようで、反対にウキウキとした声が御簾の中から返ってきてしまった。
「え? なあに? 動かないってどういう事? 何かをすれば、私も自由になれたりするの?」
桃千代はどう答えるべきか、緊張しながら慎重に自身の持論をのべた。
「……えっと、自身の願いを叶えたいのであれば神頼みをするのではなく、その願いを叶える為に自分が成すべき事をするべきだと言う事で——」
「なんたる無礼な‼︎」
奈由桜の激しい怒りの声が、御簾の中から放たれた。
「そなたは武家の御神野一族とはいえ、こちらにおわす瑠璃姫様が人人から日の本を護る『現御神(この世に人間の姿で現れた神。現人神)』であると敬われていらっしゃるのを知らぬとは言わせぬぞ⁈ なのにそのようなお方へ神を頼みにしないとは何事ぞ‼︎」
忘れてはいないハズであったがうっかりしていた桃千代は、やらかしたなと反省し、叩頭しながらなんとか言い訳を素早く考える。
「とんだ失言を致しました。誠に申し訳ごさいませぬ。その、私は胡寅(儒学者)の『人事を尽くして天命を待つ』と言った言葉を思い出してしまって……。お気持ちが沈んでしまわれる前に、出来る事があるのではないかと……その——」
この言葉を聞いて、怒りのあまり顔を真っ赤にしている奈由桜をまあまあと宥めてから、瑠璃姫は興味深そうにその賢い口調の少年へ聞いてみた。
「そうなのね。私は学問がちょ〜っと苦手だから、そのように思いもつかなかったわ。願いを叶える為の方法だなんて……。それを考えれば私、外を歩けるようになれるのかしら? う〜ん……」
しばしの間、瑠璃姫は懸命に頭を働かせてみたようだったが、なにも思いつかないようで大きなため息が桃千代の耳にも届いてくる。
「ダメだわ〜。全然考えられない……。あ、そう言えば桃千代の瞳も私と同じで瑠璃なのでしょう? 瞳だけなら瑠璃でも大丈夫なのかしら。……ねえ桃千代、一緒に考えてくださらない? あなたが私だったらどうするのかな?」
切実さを含んだ瑠璃姫のお願いに、桃千代は名誉挽回と言わんばかりに考えて、いくつか提案をしてみたのだが……。
そのアイデアがあまりにも突拍子すぎて、瑠璃姫と奈由桜は呆気に取られて聞いている。
そして、桃千代の最後の提案に奈由桜がとうとうブチ切れた。
後ろは見えないように御簾をわずかに、しかし勢いよく開いて外に出ると、般若のような顔を桃千代へ向けて怒鳴ってくる。
「そなたは何という畏れ多い事を‼︎ 瑠璃姫様のお髪をいっそ切って無くしてしまうなどとぉ⁉︎ あのような神聖なお髪に刃を入れるなど、いや、そもそもお髪を捨てろなど正気の沙汰ではないわっ‼︎ お前は姫様のお姿を拝見できぬからそのような事が言えるのだ‼︎」
半狂乱になった奈由桜は桃千代の袂を両手で掴むとブンブン勢いよくその身体を振り出すので、そういえば髪は女の命だと(男もだが)誰かが言っていたなと、桃千代は無表情になりながら抵抗しないでぼんやり思い出していた。
すると。
御簾の中から、大きく笑い声が響いてきたのであった。
「ふふ……アハアハアハ——。桃千代ってすごいわ! そんな事、誰も言わなかったし私だってとても思いつかなかった! ——これ、奈由桜、桃千代を離しておやり」
そう言った瑠璃姫は、立ち上がって部屋の奥に向かっていく。
袂を掴んだままギロギロと睨みつけていた奈由桜だったが、フンッと鼻を鳴らしてしぶしぶ桃千代から手を離してやった。
無表情で襟の乱れを直す桃千代の前で、立ったまま忌々しげに見下ろす奈由桜の後ろから声がかかる。
「奈由桜、これを。桃千代に差し上げて」
いつの間にか部屋の前に戻ってきた瑠璃姫が、そう言って御簾の下の隙間から出した細長い桐の箱を見て、奈由桜は目を見張ってしまった。
「え……、どうして? 瑠璃姫様があんなにも大切にして守ってこられた物なのに。しかもこのような不届きものへなど」
奈由桜が一度振り向いて無表情の桃千代を睨みつけてから、戸惑うように問いかけてくるので、瑠璃姫は穏やかな声で答えてやる。
「だって、私はもう近く入内する事が決まったのだもの。この『琥珀の君』の物をずっと大切に持ってしまっていては帝がご不快に思われるかもしれないでしょ? それに必ず、桃千代なら大切に使ってくれると思うわ。……あ〜あ、結局今生には『琥珀の君』がお生まれにならなかったわね〜。残念〜」
笑いながら言ったこの最後の言葉に、奈由桜と桃千代の二人がぎくりとなった。
なぜならば……。
遠い平安と呼ばれた時代の頃にも、この都に神官の血筋のある貴族、御神野の家から稀に生まれてくる瑠璃の髪と瞳を持つ美しい『瑠璃姫』が誕生した。
そしてその女の子は、成長の中でいつしか一人の男の子に恋をする。
琥珀色の珍しい瞳を持つ美しいその男の子と、刻を重ねるごとに深く想いあっていったのだが——。
『来世では必ず——』
……その結末は報われる事のない悲恋であったのだった。
この話は御神野家に口伝として密かに伝えられている為、目の前にいる瑠璃姫にも物語として語られたのであろう。
ただ——。
無表情を崩さないで桃千代は思う。
——言えないな。実は今世でも琥珀色の瞳を持つ美しい男がいるなどとは……。
その男は桃千代の国の重臣であり、同じくらいの歳である自身の荒小姓として仕えている者の父親なので、よく知る人物だった。
そのような者なので、十四歳の瑠璃姫とは世代が違う。
もう正室と子供だっている。
なのだが、今でも異常なまでにおモテになる美しい男なので、生まれた時から入内が決まっているこの瑠璃姫の心を捕えられないように、一族総出でその存在をこの無垢な姫に隠しているのであった。
「そうですね〜。ほんに残念なことに〜」
声が裏返りそうになりながら、わたわたと奈由桜は部屋の前まで進んで桐箱を持つと、踵を返して戻り、不服そうな顔で桃千代にそれを差し出す。
座ったまま両手を掲げ、桃千代が桐箱を受け取った様子に、
「開けてみて」
瑠璃姫がわくわくしている声で促してきた。
封をしている瑠璃色の紐を丁寧に取り外した桃千代は、少し緊張気味に箱の蓋を開けてみると——。
——これは、なんと立派な……。
思わず笑顔になった桃千代の手元では、朱塗りの美しい『大和笛(神楽笛)』が桐箱の中で静かに眠っていたのであった。
「どう? とっても素敵でしょ。この笛はね、かつて平安の瑠璃姫が大好きだった琥珀の君に贈ったものなの。琥珀の君は笛の名手だったそうで、生涯ずっと大切にして愛用していたそうよ」
瑠璃姫の説明に目を見開いた桃千代は、信じられない思いで口を開いた。
「そ、そのような大切なお品を、私などに?」
動揺している声にふふっと笑った瑠璃姫は、明るい声で話していく。
「ええ。……先ほど申したように、私はもうじきお嫁にいくの。それが手元にあってはいつまでもお話の中の『琥珀の君』に憧れてしまうわ。そんなの、夫となってくださる方に悪いのですもの。あ、じゃあ桃千代にお譲りするから最後にここで一曲、奏でてくださらない? そうして『鳳凰』とお別れするから」
「『鳳凰』?」
「その笛の『銘(名前)』なの。平安の瑠璃姫は真名が『凰』でね、琥珀の君は瑠璃姫に会いたくなるとその笛を吹いて呼んでいたのだって! あ〜素敵♡」
「……そう、なのですね。えっと、それでしたら喜んで」
桐箱からそっと『鳳凰』を取り出すと、ゆっくり立ち上がった桃千代は目線だけを庭へ移す。
——恋……。経験がないな。それならば『惜別』を表現できれば……。
ゆっくりと目を閉じて桃千代はイメージをする。
遠い昔、瑠璃姫と琥珀の君との別れの時を——。
……間も無く辺り一面にやわらかな旋律が響きわたる。
切ない音色の中にある低音は深く、それでも優しさが無限に広がっている——。
御簾の中の瑠璃姫は瞳を閉じると、その物語の世界に想いを寄せるのであった。
……やがて曲が終わり、桃千代がフッと息をついて目を開けると……。
距離をとって座っていた奈由桜が、感動のあまり号泣しているのを見てビクッとなった。
「いやもう、何しているのですか?」
サッと『鳳凰』を桐の箱に納めた桃千代は、懐から手巾をとりだすと、奈由桜のぐずぐずと止まらない涙を懸命に拭いてやる。
「うえ……ありがとぉ。あなたって、頭の中どうなっているのかと思ったけど、笛の音がすばらしいわ! とっても、素敵だったよぉ」
「……それはどうも」
「あ、鼻水ついちゃった。……じゃあ、これ。私の手巾をあげる」
「……それはどうも」
泣き笑いの奈由桜と無表情の桃千代とのやりとりを瑠璃姫は御簾ごしに微笑んでみている。
すると、部屋の奥の廊下から刻を告げる声がかかったのだった。
「あぁ。名残惜しいわね……。楽しかったわ、桃千代。素敵な刻をありがとう」
その別れの言葉を合図に、桃千代は居住まいを正した。
「こちらこそ、素晴らしい刻をありがとうございました」
「またいつか、桃千代の笛を聴きたいわ」
恐縮にございますと一礼した桃千代は、自分にしては珍しい事を思いついた。
「なれば、今度お嫁にゆかれました折に、お祝いをしに参上いたしたく思います。そのときには、『喜びの曲』を」
「ほんと⁉︎ 嬉しい! 入内する日がうんと待ち遠しくなってしまったわ! もう、待ちきれずに貴方の元へ飛んでいってしまいそう♡ ……桃千代、こちらへ」
呼ばれた桃千代が御簾の前に立ったので、瑠璃姫は部屋の中からそっと人差し指の先を御簾にあてた。
「絶対ね、約束よ」
「……はい。必ず」
促されたわけではないのだが、無意識に桃千代はその指先へそっと自身の人差し指を重ねる。
御簾ごしに伝わるその小さな温もりに愛しさを感じ、桃千代はわずかに胸を騒がせたのであった。
すると突然、瑠璃姫があっとなった様子を見せると、思い出したように再度話しかけてくる。
「そうそう、まだ隣にある『御神野神社』へ行ってなかったら、これも絶対に『瑠璃桜』を見て行ってね。今、満開だからす〜〜っごい綺麗なのよ」
「瑠璃桜?」
初めて聞く木の名前に、思わず聞き返してしまった桃千代へ、瑠璃姫は悪戯っぽい声で答えた。
「ふふふ、その桜の木はね〜。本殿の裏側にあるの。他の桜と色が少しだけ違うんだよ〜。何故だか知ってる?」
「……いえ」
「それはね〜。なんと! その桜の木の根元には、平安の瑠璃姫と琥珀の君が一緒になって眠っているんだよ‼︎ だから桜の花びらに少し瑠璃色が入っていて、花の真ん中は琥珀色なんだ〜」
「…………そうなんですね」
「ええ⁈ 全然驚かないの⁈」
少しも動揺を見せない桃千代に、びっくりさせたかった瑠璃姫はちょっと拍子抜けしてしまう。
「やっぱり桃千代ってすごいのねぇ。じゃあ、その桜にも会いに行ってあげてね」
「承知致しました」
最後には楽しそうに言った瑠璃姫の声を聞くと、どうにも去り難く思い始めてしまう桃千代であったが、
「さあ、参りましょう」
そう言って奈由桜が隣に立ってしまったので、その手から桐箱を受け取った桃千代は一歩下がって別れの挨拶を述べる。
一礼の後、そのまま下がって奈由桜に先導されながら庭へ降り、二人で歩き出したのであった。
「全くもう、御簾ごしとはいえ瑠璃姫様に触れるなんて! 今日は特別ですからね! とくべつっ!」
「はいはい、分かっておりますよ」
庭の中ほどにて嫉妬心まる出しで奈由桜が怒ってきたのを、軽く流していた。
その時——。
背中からスッと感じた風に、心臓がドクンと跳ねて、桃千代の足がピタリと止まった。
——な……んだ? この感じ……。急に……緊張している?
心臓がドキンドキンと大きく波打ってくる。
たまらず胸に当てた手までもが、痺れているように思う。
戸惑う桃千代の二、三歩先で、後ろに誰もついてきていない事に気がついた奈由桜が不思議に思って振り向いた。
「どうし——」
こちらを見て何かに気がついた奈由桜が、大きく開いてしまった口元を慌てて両手を使い隠しているのを桃千代が訝しんでいると——。
「まって!」
背中から涼やかなる美しい声が響いてきた。
——まさかっ!
この後の予感に心が激しく動揺する。
ごくりと息を呑んだ桃千代が、恐る恐る声の方へ振り向いてみると……。
「——⁉︎」
予想した——通りだった。
我ながら、かろうじてではあっても、よく意識が保てたものであったと後々に思ったものだった。
あまりの衝撃でその場に棒立ちになってしまった桃千代の目線の先では——。
緋袴に金糸の刺繍が施された純白の衣の裾を翻して、庭に降りてきた瑠璃姫がこちらへ小走りにやってくる。
白く細い手や身体を包むように、春の柔らかな陽の光を浴びて地にまでつく長い髪が瑠璃色に眩しく光り輝いている。白磁のように滑らかな肌の整った顔立ちの中にある瞳は、透き通るように美しい瑠璃であった——。
目の前の驚くべき光景に、桃千代の背筋が凍ってゆく。
それと同時に、先ほど瑠璃姫へ言った自分の言葉を……全力で否定したのであった。
——なんて……なんて美しさ! そんな! こんな……人? なのか? いや違う! 人であるはずがない! 人がこんなにも美しいなど……ありえない……。
『瑠璃姫』は紛れもない、
『現御神』であるのだ。
奈由桜の言葉は、
『お前は姫様のお姿を拝見できぬからそのような事が言えるのだ‼︎』
正しかったと思う。
実際に見ていないから、あのように無謀なものが言えたのだ。
桃千代は物心がついたときから、なんでもそつなく物事をうまくこなせる者であった。
それゆえに、努力すればなんでも出来るものだと信じて疑っていなかった。
出来ないのは『努力が足りない、やり方を間違えている』だけで。
目標に見合う努力もしないで、神頼みをする奴はどうしようもないのだと。
だが、幼いながらも確立されつつあった数々にある自分の価値観というものが——。
桃千代の中で今、音をたてて大きく崩れてゆくのであった。
——駄目だ! そんな、外になど出てはいけない! 無理だ! このような美しさでは、何をしようが俗世になどいられない! 嫌だ! ここから出ないでくれ!
もう、内心で桃千代は取り乱していた。
叶う事なら今さっきの自分を、余計な能弁をたれていた自分を、ボコボコに殴ってやりたかった。
自身はここに来てはいけなかったのだとすら思い始め、身体が小刻みに震えだしてくる。
その動けずにいる桃千代の目の前に……やがて追い付いた瑠璃姫が立ったのだった。
その神々しく光り輝く姿に慄いている桃千代を見て、瑠璃姫は頬に手をあてて申し訳なさそうな顔をした。
「まあ、驚かせてしまったかしら。ごめんなさい。でも私、ど〜〜うしても桃千代の瑠璃を見たかったの。許してね。あの……貴方の瞳を、よく見せてもらってもいいかしら?」
どこか遠くにある意識でかろうじてその言葉を聞いた桃千代だったが、心臓はバコバコで、喉など干からびてしまったかのように張り付いてしまっていて声が出せない。
それでも、全神経を使って首を動かし、なんとか頷いてみせられたのであった。
「ありがとう♡ では、ちょっと失礼して」
純真無垢でこの世のものとは思えない美しい顔が近づいてくる……。
そこにある瞳の瑠璃色は、他の御神野の一族が持っている瑠璃色よりも明るい、瑞々しくきらきらと輝いていると桃千代は魅入ってしまう。
ゆっくりと……瑠璃姫は目の前にきた桃千代の瞳を眺めている……。
やがて——
顔を離した瑠璃姫は、一点の曇りもない、何の汚れもない、真白な笑顔を桃千代へ見せたのであった。
「桃千代の瑠璃はとても深いのね。綺麗で美しく煌めいているわ」
ここまでお読み頂き、本当にありがとうございます。
これからも、どうぞよろしくお願い致します。




