5-36 後景に退く花筏《はないかだ》
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○この回の主な登場人物○
御神野 緋凰(通称 凰姫)……主人公。この国のお姫様。八歳。
瑳矢丸……緋凰の世話役。重臣、真瀬馬家の三男。十歳くらい。
若虎……西国の清滝家の家臣、旗守家の嫡男。十歳くらい。
緑の葉が生い茂っている大きな枝がいくつも張り出し、所々に木漏れ日が差し込んでいる山裾の道を、一行は帰路についている。
馬の背に揺られている美鶴は、ほとんど葉桜に近い桜の木で、ぽつぽつと残っている花をついばんでいるメジロを笑って目で追い、時折り山に響くウグイスの鳴き声を楽しんでいた。
「……凰姫様は、見送りに来ては下さらなかったな」
二人乗りをしている清滝猛次郎がつぶやくように言った言葉を聞いて、横乗りの美鶴はすまなさそうな顔で目を合わせた。
「申し訳ありません。きっと朝寝坊をされたのですわ。あの子はとても朝が弱くて……」
「ん? いや、責めている訳ではない。ただ、気になっただけ。……あ、おい。若虎をこれへ」
眉をさげてしまった愛妻に清滝は慌てて弁明をしてから、近くで護衛をしている旗守虎太兵衛に息子を呼ぶよう申しつける。
はっ、と返事をした旗守は、馬の歩調を遅くして後ろに消えていく……。
間も無く、若虎が旅笠を頭から外して走ってくると、清滝の馬の横で一緒になって歩き始めた。
「久々に凰姫様と会って、仲良う過ごしたか?」
前にいる美鶴が不審に思わぬように言葉を選んで、馬上から清滝は成果を問いかけた。
「……はい。恐れ多くも凰姫様は私を『友として』、親しんでくださいました。ありがたき……幸せにごさいます」
うなずいた若虎は、顔を上げてにこりと笑った。
「そうか。『友として』……」
清滝は顔を上げると、ふうっと息をついた。
——流石にまだ色で仕掛けるには幼過ぎたか。……まあ、最初から期待はしていなかったが。
何も知らない美鶴が被衣の中から仲良くしてあげてね、と若虎へ声をかけている。
「戻ってよい」
そう申し渡された若虎は、短く返事をして清滝の馬から離れると、従者達の列に戻るべく後ろを向いた。
——友……まだ緋凰は俺を友としてくれるだろうか?
若虎の胸が小さく痛む。
『——三人、友達で——』
——緋凰は幼いから、あの言葉の意味に気がつかないはず……。
暗い顔で若虎は、笠をかぶるべく顔をあげると……。
息が止まった。
少し離れた木々の上に見える崖の上に、陽の光に照らし出された、美しい瑠璃の色が光っている——。
「お〜〜い‼︎」
山中に響き渡った声にハッとして、清滝は馬を止めた。
その為、一行全体もぴたりと止まって、皆が声の方へ振り向いた。
——緋凰!
ギュッと若虎の胸が緊張する。
固唾を飲んで見ていると、崖の上から目一杯、緋凰は手を振りはじめた。
「お〜い、鶴姉上〜‼︎ またねぇーーーー‼︎」
その元気な声に、美鶴は笑顔になって頭の被衣をうしろに脱ぐと、
「えぇ、またね! 元気でいるのよーー‼︎」
片手を振って返していた。
——緋凰……俺は……ここに……。
もし、あのような思惑がなくてただ普通に会いに行っただけならば、若虎も当然のように手を振って声をかけたはずだった。
それが……できない。
グッと笠を持つ両手に力が込もる。
美鶴に挨拶を終えた緋凰が、何かを探すように一行の列を見渡すと……。
神妙な顔でこちらを見上げている若虎を見つけた。
瑠璃色の瞳と目が合った若虎の心臓が跳ね、どきどきと鼓動が速くなってゆく。
緋凰は息を吸うと、大きく笑って声を上げた。
「若虎ぁ‼︎ 元気でねーー‼︎ 『さようなら』ーーーー‼︎」
若虎はわずかに目を見開いた。
笑顔のまま、元気に両手を大きく振っている緋凰は、いつもと変わらないように見える。
それでも、昨日までのような友達にはもう戻れないのだと、その笑顔で若虎は悟ったのであった。
——緋凰……。
一度奥歯をグッと噛むと……若虎は片手を大きく上げる。
「凰姫様ぁ‼︎ どうぞ、お元気でーー‼︎ 『さようなら』ーーーー‼︎」
叫ぶように声を上げ、若虎もまた笑顔で、手を振ったのだった。
その二人の様子を見た清滝は、もう何の関心も持たない顔で前を向くと、馬を再び進め始めた。
一瞬だけ切なげな顔を見せた旗守も、付き従って進んでゆく。
一行の全体が動き出し、若虎も従者達の列に入ると、振り返る事なく歩いて行った。
その間、ずっと緋凰は静かに若虎の背を眺めていたのだった。
次々と人や馬が道の彼方へ消えていき、やがて……最後尾の者たちが見えなくなる。
それでも緋凰はその場から動けないまま、ぼんやりと前を向いていた。
「凰姫様……もう、行きましょう」
後ろから、馬の手綱を引いている瑳矢丸がためらいがちに促してみた。
その声がちゃんと耳に届いたようで、緋凰はぽつりと返す。
「瑳矢丸、お願いがあるの。……私、まだここにいるから先に帰ってほしい」
反射的に駄目だと言おうとした瑳矢丸だが、口を開きかけて止まると思案したのちに、
「……気をつけて下さいよ」
そう言い残して、馬と共に歩いていったのだった。
一人残った緋凰は、なおも無表情で前を向いている。
(分かった……分かっちゃったよ。私……私はもう、ずっと前から若虎に『恋』をしていたんだね……)
山で武術の指導をし、その礼に学問を教えてもらい、基地をつくり狩りをしたり、共に暮らしを助け合っていく中で小さく生まれ、少しずつ育まれていった恋心だった。
家族の情にも似たこの感情に、緋凰はまだ幼くて気が付く事ができなかったのだ。
(でも……)
兄である鳳珠との会話が頭をよぎる。
『——私のお相手は、じぶんできめられないのでしょう——』
『緋凰はね、他国には嫁がないんだよ。父上もそうおっしゃっていたからね』
(私は、若虎のお嫁さんにはなれない。……きっと、若虎もそれを分かっていて……。でも……)
朝日の差し込む庭で、若虎が微笑んだ顔を思い出す。
『俺は、お前が好きだ』
(あの言葉は……もしかして……)
しかし、それが自身の望んだ言葉なのであったとしても、どうする事も無かった。
「若虎……」
緋凰の瑠璃色の瞳から、大粒の涙が溢れ出してくる。
それでも身体はどこも動かず、後から後から、とめどなく流れてくる涙を拭う事もできないで、緋凰はひたすらに西国の方向を見つめていたのであった。
ーー ーー
ゆっくりとした歩調に変わっていった歩みが、やがてぴたりと止まる。
「…………」
緋凰から離れ過ぎない所まで来ると、瑳矢丸は一度ため息をついて、持っている手綱を手頃な木の枝にかけようとした。
すると——
背後で突然、緋凰の泣き叫ぶ声が響き渡ってくる。
その声が耳に届いた瑳矢丸の眉間に、グッと皺が寄ってしまう。
予想通りではあっても、いたたまれなかった。
瑳矢丸はバッと枝に手綱をかけると、木の根元に脱力して腰を下ろしていく。
緋凰の泣く声に胸を痛めながら、瑳矢丸は唐突に、自分の心を一つ見通した。
——ああ……、そうか。俺は緋凰に好かれたくないわけではなかった……。ただ、どうしても……緋凰を『裏切る』のが……怖かったのだ……。
『別に一緒になれとは言っていない——』
最初に緋凰の父である煌珠がそう明言している以上、うまくいってしまえば後で必ず緋凰の心を裏切らなければならなかった。
——いくらお祖父様達がうまく始末をつけると言っても……。
一度失ってしまうと、今ほどの信頼を取り戻す事は絶対にできないと思われる。
それがどうしても、瑳矢丸には怖かったのだった。
——緋凰は俺が裏切っても、ああして泣いたのだろうか?
想像はしていない。
ただそう思っただけでも、瑳矢丸の心が凍るかのように冷えてしまった。
思わず膝を抱え込んで顔を埋める。
——なぐさめに行きたい。だが、何て声をかければいいのか……。それに——。
『——弱っている時に慰めてくれる奴へ、コロっといっちまうもんだぞ』
いつぞやの男の言葉が頭をかすっていく。
——ダメだ……。そんないっときの感情で緋凰に好かれるのは……。あっ、そうだ、変な奴にコロッといかれないようには守らないと。
そんな事を思いながらゆっくり顔をあげて横を向くと、歯を食いしばりながら泣く声が響いている方向をじっと見つめている。
——緋凰には、ずっと誠実でいたい。どうすれば……。
瑳矢丸は桜の花びらが舞い散る中で拳を強く握り、散々に悩むのだが……、結局この時は何も出来なかったのであった。
ーー ーー
無事に国へ辿り着き、仕事をすべて終えた旗守虎太兵衛は護衛隊に解散の号令をかけ終わると、隣にいる虚ろ気な息子へ声をかけた。
「若虎、俺は練兵場へ寄っていくが、お前はどうする?」
「私は……屋敷に……いえ。父上、少し馬をお借りしてもよろしいですか?」
「ん? まあ、いっけど……。あまり遠くに行くなよ」
「……はい」
力なく返事をした若虎は手綱を受け取ると、そのまま旗守の目を見て問いかけた。
「父上」
「何だ?」
「……もし、私が凰姫様を連れてきてしまっていたら……、どうなさっておりましたか?」
真剣な眼差しを受けて、旗守もまた真面目な顔つきになる。
「……さあな。その時になって考えただろうよ」
この答えに、若虎は嘘だと思う。
この旗守家の惣領は、必ずいくつか対策を前もって用意していた筈だった。
無言になった若虎は少し離れて騎乗をし、そのまま疾走していく。
すぐに旗守は近くで帰ろうとしていた護衛隊の一人に声をかけた。
「おい、竹〜。もう一仕事してくれ。今行った俺の息子が攫われないようにこっそり護衛してくれや」
男は顔を上げると承知、と返事をしてひらりと馬に乗った。
「ただ、邪魔はしてくれるなよ」
「? はっ」
旗守の言葉を不思議に思いながらも、男は馬を走らせたのであった。
ーー ーー
ただひたすら無心で馬を走らせていた若虎だったが、ずいぶん遠くまで来ている事に気がついて慌てて馬を止めた。
馬を休めようと背から降り、手綱を近くの木に繋いだ所でふと気がつく。
目の前には去年、緋凰と一緒に町並みを見下ろした小高い丘が広がっていた。
『今日で若虎ともお別れだね——』
そんな会話をして、
『——一人ではどうにも帰したくないんだ——』
ギュッと抱きしめた時の事を思い出した。
「……このように、会いに行くべきではなかった」
若虎は大きくため息をつく。
「父上の仰るとおり、欲に目を眩ませると手痛い事になるな……」
鳴朝城での庭園で、緋凰と並んで桜を見上げた場面が頭に浮かんでくる。
『三人、友達でいよう』
そう若虎が言った時に返ってきた緋凰の笑顔は、ぎこちないものがあった。
——緋凰は……もしかして、俺の事……。
たとえ若虎の思う通りだったとしても、もはやどうにもならないもの。
「仕方の……ない事なんだ……」
しばらく丘の上をのぞんでいた若虎だったが、やがてため息と同時に俯いた。
すると、
パタタ——
「え、……雨?」
地に落ちた数滴の雫を認識した途端、ぐにゃりと視界が歪む。
ハッとした若虎はそっと自身の目元に手を当ててみると……。
「涙? ……俺——」
その時だった。
ズキリとした衝撃が若虎の心を走ると、どんどん胸が詰まって苦しくなってくる。
——なん……だこれ? 苦し……息が……できな……。
手で胸元をかきむしりながら、あまりの辛さに思わず両膝が崩れる。
「ぐ……くぅ……」
身体を丸めて懸命に堪えていたが、ついに若虎は……慟哭した。
大気が震えるほどに——。
若虎は賢い者であった。
そして、いつか多くの人の上に立つ者の候補として育てられており、『耐える心』が鍛えられている。
ゆえに、若虎は侮っていた。
自身の『心』というものを。
……後に、この事が自身にとっての『初恋』だったのだと若虎が気づくのは、もう少し大人になってからなのであった。
近くを流れる川のほとりにある桜の木から、最後の花びらが風に吹かれて枝を離れた。
はらはらと舞い落ちてゆき、下に流れている川の水面に着水すると、身を任せてゆったりと流れていく。
やがてその花びらは、遠く川の清水と共に消えていった。
川辺に残っている桜の木では、瑞々しい若葉が枝いっぱいに生い茂っており、陽の光をきらきらと跳ね返しながら風にも負けず、さらさらと軽快な音を立てているのであった。
ーー ーー
数ヶ月後。
二の丸御殿の廊下を、瑳矢丸が一人、歩いている。
緋凰の部屋の前までくると、膝を折って声をかけた。
「失礼致します。瑳矢丸、戻りました」
ところが、し〜んと部屋は静まり返っている。
嫌な予感に顔をしかめながら、瑳矢丸はそっと開け放たれている襖から部屋をのぞいて見た。
思った通り、裁縫道具などが散らかっている中で、小袖姿の緋凰が畳に寝そべって顔に書物を乗っけたまま、大の字になってぐーぐー昼寝をしているのが見えた。
盛大にため息をついた瑳矢丸が怒鳴ろうとしたが、思い直して立ち上がり進むと、緋凰の前にしゃがんでそっと目元の上にある書物を上げてみる。
「よだれ出てるし……」
顔を引きつらせて懐から手巾を取り出すと、瑳矢丸は容赦なく、ぐりぐりと緋凰の口元を拭った。
突然の事に驚いてぱちっと目を開けた緋凰が、慌てて起き上がると、
「わゎ! 瑳矢丸だ! お、おかえり〜」
「部屋を片——」
「わああ! はい! 片付けますぅ‼︎」
いそいそと物を拾い始めた。
瑳矢丸も手伝おうと腰を上げながら問いかけてみる。
「……まだ、夜がよく眠れないのですか?」
若虎が帰ったばかりの頃の緋凰は、ショックで夜も眠れず、食べ物も喉を通らなくなり、それによって免疫力が下がり、風邪を引いてそれが長引いてしまうといった、失恋による散々な二次災害を受けたのだが、最近になってようやくそれもおさまりを見せたのだった。
「んーん、もう大丈夫だよ。ちゃんと眠れているよ」
笑顔を向けてきた緋凰に、瑳矢丸も自然と微笑んで頷くと、足元に転がっていた鞠を拾い上げている。
片付けている手を一旦止めた緋凰は、思い出したように話してきた。
「そうそう。さっきね、父上がね、『お前は案外、大人だな』って言ってきたんだよ。なんだろうね」
「ふうん。まあ、何となく分かります」
「そうなの? あ、そう言えば瑳矢丸は? 瑳矢丸の悩みはもう無くなったの?」
「え? 私の?」
問われて、瑳矢丸は何の事か分からずキョトンとした顔になったが、煌珠の密命で緋凰には悩んでいると思われていた事を思い出した。
「あぁ、もう大丈夫です。悩みは無くなりましたから」
まだ心配してくれていたのかと、瑳矢丸は内心で嬉しく思いながら返事をした。
すると緋凰はにっこり笑うと、
「そっか、良かったね。やっぱり瑳矢丸は『いつもの瑳矢丸』が一番だね!」
そう言って、部屋の片付けを再開し始めたのである。
「…………」
瑳矢丸の手のひらからポトリと落ちた鞠が、ころころと部屋の隅に転がっていったのであった。
ここまでお読み頂き、本当にありがとうございます。
これからも、どうぞよろしくお願い致します。




