Pastoral Days 1
ハト教での生活は穏やかな物だった。自然に囲まれたこの場所では、外の情報に惑わされない為にスマホなどの持ち込みは禁止されており、唯一持ち込めるのは小説位であった。
食糧や衣服も自給自足であり、文明の恩恵を受けられない前時代的な場所であったが、不思議な事に大坊の心は落ち着いていた。
「リーダー。今日の分の洗濯を終えた…」
「こっちも薪割りを終えた。ちょっと歩こうか」
ハト教での1日の仕事を終えた大坊達は、敷地内を歩いていた。情報化社会から切り離された状況に、当初は何度もその不便さを訴えたが、改善される事はなかった。生活に順応していくと、不思議な事に。不便さが気にならなくなって来た。
「涼しくて気持ち良い…」
「エアコンも何も無いけれど、意外と熱中症とかにならなくても済むもんだ」
エアコンも無ければ、コンビニもなく、不満を解消する手段もない。だが、抱いた不満に耐えられないと言うことは無い。日が落ちれば涼しい風も吹き、食事も質素な物でも時間を掛けて食べれば、意外と満腹感も得られる。
だが、それ以上に大坊に大きな変化が起きていたことを、一緒に歩いていた七海は知っていた。
「最近のリーダー。怒ることが少なくなったよ」
「そうか?」
「何時もスマホや新聞を見ては怒っていたから。今の方が一緒に居て楽しい」
七海に言われてから、彼は来たばかりの頃を思い出した。情報が得られなくなった当初は焦りもした。誰かが困っていないだろうか、誰かが悪事を働いていないだろうか、誰かが悲鳴を上げていないだろうか、誰かが誰かを傷付ける様な言葉を発していないだろうか。誰かが不幸になっていないだろうか。
外の世界に居た時は蔓延する悪意と敵意に対して憤慨していた為、常時怒りに満ちていた。今の彼にはそれらを得る手段が無く、また得ようとも思わなかった。
「リーダーは楽しい?」
「分からない。ただ、俺が子供だった頃に、田舎のおばあちゃん家に行った頃みたいな感じはしたよ」
「それは楽しかったの?」
「……楽しかった」
思い返せば、話し相手は学校の友達と両親位しかなく。ネットも黎明期で、意見交換の場は掲示板しかなく。それもアングラ性が強かった為、大坊が使用できる物でもなく、自然と距離が取られていた。
もしも、あの頃から時代が進まなかったら。自分は人の悪意や悪行等も知らずに、血で血を洗う活動を繰り広げなくても良かったのではないか。と夢想した所で、不意に掛けられた声で現実に引き戻された。
「おや。大坊さん。七海ちゃん。散歩ですか?」
「うん。橘さんも?」
「はい。良いですよね。この辺りは自然が多くて、1日たりとも同じ光景が無い。毎日が新しい物が発見できます」
「俺も嫌いじゃないよ。こうして、のんびり、穏やかに時間が過ぎて行くのも悪くない物だ」
その言葉に橘も七海も微笑んでいた。彼らを引き戻そうと捲し立てていた頃の彼を知っていれば、如何にこの生活に馴染み穏やかになったことが分かる発言でもあったからだ。
「それは良かった。私も誘った甲斐があります。ここに来た頃と比べて、随分と顔も優しくなりましたし」
「私もそう思う」
「皆が言うんなら、そうなんだろうな」
「はい。教祖様が言っていたことは、我々から搾取する為の詭弁や綺麗事もあったのでしょうが。今は、そこに恣意的な欲望を入れる必要もありませんから」
実際、教祖の言う事は全てがホラ吹きという訳では無く。むしろ、信徒達を納得させる上ではある程度の道理は通っていた。最も、それを声高に話していた彼自身は富に囚われていた俗物であったが。
しかし、同時に疑問でもあった。何故、橘はこの生活を維持することに尽力しているのかと。この様な能力があれば、外でもやって行けるのでは無いのかと思った。
「橘さん。アンタはどうして、ここに来たんだ?」
「私ですか? そうですね。こう言っては何ですが、逃げたかったんですよ。富からも、義務からも、競争からも」
「何かあったの?」
「お恥ずかしながら。ここに来る前の私は上司から虐げられ、部下を虐げる人間の屑でした。出世しなければ、金を稼がなければと思っていた生活は物には溢れていましたが、とても貧しかったと思います」
その言葉に大坊が反応しそうになったが、直ぐに手を振り上げる様な真似はしなかった。怒りよりも先に優先したい感情があった。
「それだけのことが出来るって事は、アンタはそれなりに有能だったんだろうな」
「ハハッ。有能だなんて、そんな。現にこうしてハト教に入信していた位ですから。とてもではありませんが」
「でも、こうして今では皆を牽引している。ひょっとして、信者の時も教祖に騙されていた自覚はあったんじゃ?」
「それはあんまりなかったですね。そもそも、以前の私も社会や企業が打ち出す理想に騙されていた様な物ですから」
「何となく。分かる気がするな…」
社会、常識、格差。例え衣食住が満たされ、あるいは最低限の物を持っていたとしても。貧困を強調されるのは、競争社会故の宿命だろうと考えた。
「思うに我々は常に欲望を煽られ、走らされ続けた。この集落を思い返して下さい。最新のファッションも無ければ便利な家電もない。だけれど、生活が出来ている」
「ここにある物で十分って事だな」
「まぁ。そう言えるのは、若くて健康な内だけだと思いますがね」
「確かにな」
その疑問は大坊も常々考えていた物であった。怪我や病気を患った時、救急車を呼んだりしても保険が使えるのか等の疑問は尽きぬところであった。
社会の便利さと煩わしさから離れるという事は、翻ってそれらの恩恵を受けられなくなる事でもある。
「それでも。生きている時間を憎悪と欲望に駆り立てられるよりかは、ずっと有意義だと思います。こうして他愛ない話をしている時間のようにね」
以前は少しでも雑談に興じている暇があれば情報収集か、仕事をするだけだったというのに。それらを鑑みれば、信じられない程に無駄な事に時間を使っている。されど、それは心を焦燥感等に囚われない様にするためには必要な事にも思えた。
「そうだな。俺もこの時間の事を結構気に入っているよ」
「では。私はこの辺で。大坊さん、何時も薪割りや力仕事をありがとうございます。七海ちゃん、子供達のお世話をありがとう。皆、君にとっても懐いているよ」
最後に謝辞の言葉を述べて、橘は去って行った。その顔にはは二人が暫く見ることが無かった表情が浮かんでいた。
「リーダー。あの人の笑顔はちょっと違うね」
「アレが本当の笑顔なんだよ。憎悪に駆られていない…」
自分がヒーローになり始めた頃に目指していた何かを思い出しそうになったが、言葉にすることは出来なかった。虫の鳴き声だけをBGMにして、気持ちの良い風を浴びながら二人で歩いていた。