別れを告げた
彼女は今頃別れを告げているだろうか。
しっとりと耳に残る聞き心地のよい声で「さようなら」を、言っているのだろうか。僕の知らないところで、僕の知らない顔で、大勢の人に囲まれて。でもそれを許せないと言ってしまうのは、どこか違う気がした。
彼女のことがニュースにでもなるわけでもないのに、いつもは見ないニュース番組を垂れ流していた。そうでもしないと、心臓が零れ落ちそうだった。
「いいよ。僕は行かない」
慣れた笑顔を浮かべて一つ一つの言葉を強く言った。声にすると、行かないということが軽々しく思えてなんだか虚しかった。
「本当は行きたいんじゃねえのか」
昔から仲のよい男は訝しげにそう言い放った。彼の貫くような眼に負けないように、視線と言葉を返す。
「僕が行っても行かなくても変わりやしないさ」
「周りの話はしてねえ。行かなかったらお前が後悔するんじゃあねえのか」
普段気にも掛けない友人の口の悪さが、僕の意見をひっくり返してしまいそうだった。手元にあるコーヒーを口に含んで、口の乾きを飲み込む。友人が僕の喉仏を見つめていることに気付き、慌てて言葉を紡ぐ。
「僕は行かないって決めた」
「本当だろうな?」
「そもそも彼女とはそこまで付き合いがないし……それに今生の別れではないでしょ? 彼女だってそこまで大勢に見送られたらいい思いはしないさ」
友人は片肘を机について、短く息をついた。彼がこうするのは僕の言葉に疑念を持つ時だ。きっと彼女のことを「彼女」と呼ぶことへの疑念だろう。でも珍しく、彼はそれを口に出さなかった。僕もあえて言及せずに、黙っておいた。
もちろん、僕は彼女の見送りに行きたくなかったわけではない。むしろ別れの際に言葉の一つや二つをかけてやりたいとすら思っていた。でも、僕が行かないと理由なしで決めるわけがない。
だって、僕は純粋に彼女のことが好きなのだから。
例の友人は僕が彼女と交際していることを知らない。僕と竹馬の友である彼が知らないのだから、きっと僕と彼女との関係を知っている者は少ないだろう。故意に隠しているわけではないのに、口に出さなければ秘密となって「しまう」とは、すごく奇妙なものだ。
しかし、僕が彼女の恋人であることと彼女の見送りに行かないことはなおさら相反している。自覚済みだ。
彼女の最期を看るわけではないこと、彼女が大勢に見送られるのを嫌がるであろうということ、そうやって思っていることに一つも嘘はない。でもそれらと彼女への愛を天秤にかけた時、後者が勝利してしまうのもまた事実である。つまり、僕が断腸の思いで彼女を見送らないと決断した大きな理由は別にあるのだ。
「会社のみんなが私を見送りたいっていう話をしているみたいなの」
電話越しでも伝わる柔らかい声。でも彼女が困惑しているというのは嫌でも分かった。声がいつもより重く響いていた。
「ふーん」
「あ、もしかして聞いてない?」
「うん、聞いてない」
開けた飲み口を覆うように缶ビールを掴み、ベランダに出た。出てから今が冬だということに気づく。中に戻って何か羽織るのは面倒だったので、半袖のままで夜の街を見下ろした。
「聞いてないのね、ふふっ」
地声より少し高い声で、彼女は笑った。僕はそれを聞いてほっとすると、まあ嘘だけどねと呟いた。
「嘘なの? なんだ、知っているのね。なんでそんな不毛な嘘をつくのよ」
「いや、ただ場を和ませたかっただけだよ。君が少し暗い声だったから」
朝、雪に変われない雨が降っていたのだろうか。湿ったコンクリートが僕の裸足から熱を奪っていく。変色していない場所を探して足を移動させた。その間に、向こう側から「そっか」と相槌が聞こえた後に大きく息を吸う音が続いた。
彼女の言葉を待った。青信号が点滅するスピードがどんどん遅くなるように感じるには、十分な沈黙の長さだった。彼女の上京を知ってから、彼女と会話を交わす度に時間が有限であることを肌で感じる。別れの決まった人と時間を共有することが感情の足し算引きだ、というのがようやく分かった気がした。
「あのね、来ないでほしいの。見送りに」
隣に彼女がいる錯覚を覚えた。携帯電話を耳にあてていた方を見るが、当然誰もいない。
「……ごめん、どういうこと?」
無意識に空いている手で頭を掻いた。あまりにも理解が追い付かないので、意味もない笑みが勝手に浮かんでくる。
「ちょっとだけ話を聞いてくれる?
さっき言ったけど、あなたには見送りに来てほしくないの。もちろん理由があって、それは、あなたも知っている通り、私が東京へ行くのは昔からの夢――ミュージシャンになるっていう夢を叶えるため。
上京を決めたのと同時に、成功したらこっちに帰ってこようって決めたの。だから、これは私にとって『別れ』じゃなくて『旅』。あなたに見送られたら二度と帰って来られない気がした。本当の『別れ』になるんじゃないかって。
あなたには、成功を信じて待っていてほしい。必ず帰ってくるから」
彼女は一息で強く言葉を紡ぐと、その反動で大きく深呼吸をした。
僕は目を閉じて、たった一言を返した。
「嫌だ。」
彼女が何かを言おうとブレスをしたが、間髪入れずに僕は喋り続ける。
「無論、君の上京は応援しているよ。成功も誰よりも願っている。でも、『旅』の見送りすらしてはいけないの? 僕は君のことが好きだから、最後の姿くらい見ておきたいよ」
しかし、彼女も気圧されずに言い返してくる。
「最後じゃないよ。だって私は必ず帰ってくるから。これは一種の願掛けなの。こうしないと、自分自身がどれだけの覚悟をしているか示せない」
「だからって僕に……」
「あなただからお願いしてるんだよ? あなた以上に大切な人なんていないんだから、あなたは……あなただけは、私の帰りを待っていてほしいっていう願いがあるの。」
そうやって君に「大切」とか言われたら、僕は断れない。ずるい。ここにきて彼女の無意識に正直な性格が、僕の言葉を喉で止める。
「お願い。帰ってくるときは、真っ先にあなたに会いに行くことを約束するから。」
ここで簡単に頷けるほど僕は素直じゃない。でも、うんと言わざるを得なかった。彼女の話を聞いた上で僕が断れば、まるで僕が彼女の成功を信じていないみたいに聞こえる。
「分かったよ。でも僕は本音を言えば、見送りに行きたかったよ」
「うん。私はそれを聞けて良かった。もしこの話をしてすぐに、いいよ僕は行かないって言われたらどうしようかって思ってた」
ふいに、ずっと待っていたかのような雨が降ってきた。ぽつりぽつりと降り始めたかと思うと、滝のような雨量に変わった。
「雨がひどい、家の中に入るね」
携帯電話にそう話しかけてから、急いでベランダと居間を仕切るドアを開け、雨音に背中を向けた。片足を居間に置いてから、缶ビールを忘れていることに気付いて一歩戻り、無造作に缶を掴んだ。やっと家に入った頃には腕から水滴が滴っていた。
「もしもし? ごめん今家に――」
通話は終わっていた。じわじわと指の先が冷たい感覚が復活していく。暖かい家の空気と氷のような指の温度差にぞわっとした。
会社の人たちの中に、彼女の上京の理由がミュージシャンになるというものであることに対して、いちゃもんをつける人がいた。応援するという人が大半だったのは言うまでもないが、誰しもが快く見送るわけではなかった。
「あの子、意外と夢見がちだったんだね。もっと真面目というか冷静な子だと思ってた」
「分かるかも。ここにいた方が人生楽だと思うけどな」
そんな戯言に聞こえる会話が耳に入った時、僕は思わず鼻で笑ってしまった。
彼女は決して真面目なんかじゃない。
ただ、正直者なのだ。他人にも自分にも正直なだけなのだ。特に自分の感情には嘘がつけなくて、すぐに顔や声に出てしまう。でもそれは決して彼女の意志なんかじゃない。文字通りの「無意識な正直者」。
そんな正直者の彼女が一つ、僕に嘘をついたことを知っている。でも彼女らしいのはそれが「無意識な嘘」であるところだ。
正直者は「帰ってくる」と言った。しかも「必ず」なんて信用ならない言葉まで付けてそう言った。でも僕は、「彼女」が帰ってくることはないと思うのだ。なぜなら、彼女との再会は彼女の夢の成功を意味し、成功は彼女が「誰もが知る女性」となってしまうことを意味するからだ。そう考えると、これが「彼女」との別れであることには変わりがないということに気付けた。
時刻はもう午後四時を過ぎていた。
彼女はもう東京に足を踏み入れ、僕の知らない場所で、知らない空気を吸って笑っているのだろう。ふわっと彼女の匂いが通り過ぎる。
両手で重い身体を起こし、デジタルの置時計を手に取った。数字がどんどん移り変わっていくのをしばらく見つめてみると、案の定どんどん眠くなるだけだった。
ひっくり返し、時刻をちょうど十二時間戻してみた。午前四時。この時間なら、まだ彼女の「さようなら」を独り占めにできるかもしれない。そう思っていたら、その時計は既に時刻を戻していた。電波時計だなんて忘れていた。時間は僕を現実から離してくれないようだった。
何をするにも彼女のことが頭から離れなかった。しばらく彼女のことを考えていたかった。横からニュースを叩き込んでくるテレビの音が煩わしくて、消そうとリモコンを掴む。
「みなさん、空を見てください! 今年もついに本格的な冬がやって参りました!」
そう叫ぶレポーターと無数に降る雪が映し出されていた。僕はぽかんと口を開け、
「雪……」
と呟いた。ベランダ越しに外を見ると、ふわりふわりと舞い落ちる白があり、僕はそれらに容易く呼吸と言葉を奪われた。
もう嫌というほど体験してきた初雪なのに、気が付けば僕は彼女にメールを送っていた。
『ねえ、雪が降っているよ』
彼女のいる東京に降っているはずがないことに気付いた時にはもう遅かった。僕が使ういわゆるガラケーには、送信取り消しなんていう機能はない。彼女がこのメールを受け取ったらどんな気持ちになるだろう、と考えるだけで動悸が激しくなる。
そんな僕の心を揺らすように、携帯が震えた。その媒体が放つ赤色の光は、彼女からのメールであることを示す。
『綺麗だね』
文字化けした顔文字らしいものと共に、その四文字が送られたのだった。
目を疑った。もう一度時刻を確認するが、時刻に変わりはなかった。
「きれい、だね……?」
思わず声に出してしまったものの、それでも理解ができなかった。
少しの時間を、このメールには続きがあることに気付く。おそるおそる下を見ると、メールの最後の一行、儚げな文字の羅列が僕を襲った。
『って、隣で言いたかったな』
十年経った今でも、僕と彼女が一緒に初雪を見ることはない。




