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買い戻された金魚鉢

作者: 汚了 雪玉

 来し方60年、ただ一つの命題に取り組み続けたある博士の研究が、さきほど終止符を打った。彼は呆然と、60年座ったり立ったり登ったり抱きしめたりしたお気に入りのチェアに腰掛けて染みまみれの天井を仰いでいる。大きなゴキブリが這っていた。

 彼の中は今からっぽだった。可能ならば60年前に戻りたいなどと非現実的な希望をふわふわさせていたのはもう随分前の話である。そう、彼は、60年前から失敗しており、それに気づかぬままのうのうと失敗を積み重ね、今ようやくその失敗に気づいたのである。つまり全てが失敗だった。

それはあまりに大きすぎる衝撃であった。何か飲んでちょっと落ち着こう、と、体が無意識に働いて手に取ったものが水の枯れた金魚鉢であったのを見るに、それは我々には計り知れないほどである。口をついて出てくる言葉が全て「なんでやねん」であるのもなかなかに痛ましい。彼は青森県の人であった。

ぼーん、と。

壁掛け時計の19時を告げる音に肩を震わせて、彼は正気を取り戻した。皺だらけの目元に澱んだ光の瞳を埋もらせて、呻く。「うう...なんでやねん...」

彼は青森県の人であったが、青森県を離れて長い。もう雪の色さえ忘れていた。さすがに嘘である。雪の色は覚えていたが、青森県の県章はもう覚えていなかった。かつては青森県章を書かせれば「八戸一」と持て囃されたが、それも小学二年生の頃である。近所の老人達は優しかった。

金魚鉢を抱えた老博士は、全ての失敗の原因を別な何かに擦り付けてやろうと思った。性根が腐りきっていた。そこで、ただ一人残っていた助手を呼んだ。16歳の少年である。若くして学問を志し、博士の研究所に月に一度来ていた。雑誌を読むためである。博士とは大した関わりがなかった。

しばらくして、助手が入室した。

「うわぁ、くさいくさい。辛気くさいですね、ここはぁ」

大変癪に障る物言いであったが、そんなことに目くじらを立てる気力など尽き果てていた博士は、椅子から床へと崩れ落ちながら彼を見た。少年は、腕を組んで博士を見下ろした。見下ろすと言うよりは見下げたといった風であった。

「何事ですか」

博士は金魚鉢の中からくしゃくしゃの紙を取りだした。

少年は賢かったので、それを一瞥するや「おやまあ!」と目を剥き、カラカラと笑った。

「やったじゃないですか、先生!」

なんという皮肉であろうか、博士はワナワナと肩を震わせた。「なんでやねん」しか口から出そうに無かったので、敢えて怒鳴ったりはしなかった。少年は、毛だかカビだか判別つかないふわふわがうじゃうじゃしている絨毯で溺れている博士の頭をまたいで、机の上に開かれたノートパソコンをカタカタとやっている。博士は何をしておるのかと興味を持って、少年のズボンの裾を引っ張った。少年は気にもとめない様子であった。手持ち無沙汰になった博士は、今後のことを夢想する。いやそれは輝かしい夢などではない。全て並べてあらゆるは悪夢である。そして言ってしまえば悪夢ですらなく、もうどっしり待ち構えている残酷な現実であった。どうやったら楽に死ねるか、という事以外、既に彼の頭には無かった。

金魚鉢の隅々が老人の指紋で真っ白になったころ、少年がノートパソコンを床まで下ろしてきた。見ると、博士の長年の研究結果が表計算ソフトで表示されている。無限に続くかと思われる数値の羅列は6万行を下らない。思わず涙が溢れてきた。なんでやねん...。

「そんなに嬉しいですか」

博士は心無い少年の言葉に激昴した様子で、金魚鉢を振り上げた。振り上げたが、金魚鉢は床と平行に移動するばかりで少年に攻撃を加えるにはあまりにも無力な動きであった。されど身体を起こす気力もなかった。ぽろぽろと、一層の、涙が零れた。少年は怪訝な表情である。

「完了ではないですか」

何が完了したというのだ。博士は見上げた。少年の頬はいつの間にか紅潮し、得体の知れない興奮を隠しきれないのが指先の微かな震えから見て取れる。今度は博士が怪訝そうに眉を顰める番である。なんでやねん...?

「研究の完了ですよ!博士!」

「なんでやねん」

「なんでも何も...見てください」

少年に促された博士は、ディスプレイに張り付かんばかりににじり寄ってから、少し距離を置いた。老眼になったのを忘れてしまうくらい多忙の日々が続いていたのである。また涙が出てきそうになったが、ぐっと堪えて目を細めると、不思議なものが目に入った。

それは例の失敗の箇所であった。正確に述べることはやめておこう、我々の理解できる範疇ではない。ただし、博士にはわかった。

失敗したと思われた研究の始点に誤りが見られない...!博士は己が目を疑った。莫迦な、そんなはずは!湧き上がる逆転の希望に、弱り切った心筋が極太の拍動を始める。そしてそれは確かに、失敗の反対であった。博士は金魚鉢を投げうち、奇声を上げながら飛び上がった。

「なんでやねん!なんでやねん!」

満面の笑みの助手とひしと抱き合い、来し方60年の苦しみや悲しみ、そして天井の染みを振り返った。ゴキブリはもういなかった。

彼は報われたのである。少なくとも彼の研究に失敗はなかった。全ては成功の積み重ねである。決して無駄などではなかったのだ。再び流れ出した涙は、安堵と喜びのものであった。


翌日、各種メディアは彼の研究成果の報道で満ち満ちていた。誰もが彼の成果を無批判に褒めたたえている。

満面の笑みの少年は、質問をなげかけ、マイクを差し向けてくる報道陣へと、テラテラと健やかに光る紅い頬を向けた。そしてはっきりとした口調で応えている。「やってやりましたよ!」


金魚鉢を抱える老人は、自室でその様子を見ていた。テレビから放たれる光が冷たくて、いっそう老けて見えた。

もごもごと口を動かし、ぶるりと体をふるわせて、それからだらりと腕を下げて言った。

「....なんでやねん」

 金魚鉢が割れた。


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