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達成された地獄

作者: セロ タツ

 男性は熱く沸かしたポットを持ち上げるとカップの中へとお湯を注ぐ。カップの中にある緑色の粉末が溶けて、緑色の液体が白いカップの中に満ちる。糸のような湯気は冷たい竹の香りと人肌に近い暖かさを空気中へと運んでいた。

 男性は手袋を脱いでカップの側面を持つと、冷えた体の末端を暖める。店主は男性の様子を見ていじわるそうに笑って言った。

「こんな日に外で働かないといけないなんて、底辺は大変だな」

 店主は男性よりもずっと若い青年だ。男性が店主と知り合いでなかったのならば、男性は店主の顔に熱いお茶をぶっかけていただろう。男性はカフェの窓の青白い道路を指差して、ぶっきらぼうに言った。

「こんなボロ店なんていつ潰れるか分からないんだから、ちゃんと準備しておけよ」

 店主は男性の言葉を軽く笑うと、男性に尋ねる。

「いつものでいいのか? 」

 男性はいつものように適当に答えた。

「いつものでいい。ヴィーガンだからな」

 店主はオレンジ色のライトに照らされている保温器へと向かうと、透明な扉をスライドさせて、ねじ曲がったドーナッツを取り出す。店主がドーナッツを白いお皿に置いて男性の元へと持ってくると、ドーナッツの甘い匂いが男性の鼻孔へと入ってきた。ドーナッツの製造過程で乳製品は一切使っていないのに、卵や牛乳を煮たような香りがする。

 男性はこのドーナッツをずっと楽しみにしていた。男性が待ちきれない様子で両手の指でドーナッツを摘まんで口へと運ぼうとしていると、店主が男性を制止する。

「まずは手を拭けよ」

 店主は男性に向かってウェットティッシュを雑に投げると、男性は渋々とした不満顔でドーナッツをお皿に戻した。男性はウェットティッシュで両手を拭きながら、ぶつぶつと文句を言う。この男はぼろぼろのカフェの店長なのに衛生管理にはやけに厳しかった。男性の視界に埃まみれの蜘蛛の巣が家具の上の方にかかっているのが見える。店長の言い分によれば生き物を大事にしているから、蜘蛛の巣を掃除しないということだった。

 男性は両手からアルコールが蒸発するのを待ちながら、ドーナッツをようやく掴んで口へと運ぶ。ドーナッツを齧るとポロポロとした甘い感触と、表面のこんがりとした風味が男性の胃を満たしてくれる。男性は体中にエネルギーが行き渡るのを感じながらドーナッツを食べていると、店長が窓を見ながら呟いた。

「ニュースではもっと寒くなるって言ってたけど、大丈夫かね」

 カフェの窓からは汚れた電柱が青白く輝いているのが見える。四車線の道路には車が一台も走っておらず、信号機が歩道橋の下でチカチカと色を変えていた。

男性もカフェの窓の景色を振り返って見ていた。そして、振り返るのを止めて前を向くとドーナッツの残りの欠片を食べ終わる。男性はドーナッツを最後まで味わって飲み込んだ後にお茶の入ったカップを手に持って緑色の液体を口の中へと注ぐ。お茶の味とドーナッツの後味が舌を通り過ぎていき、男性はお茶の入っていたカップを空にした。男性は自分のコートを隣の椅子の背もたれから取って立ち上がる。店長は男性の様子を見て淡々と言った。

「相変わらず早いな」

 男性はチップの埋め込まれている手の甲を専用の機器に密着させて、店長に言葉を返す。

「早いほうが楽しめるからな」

 店長は男性の言ったことが理解できないと伝えるように肩を上げた。男性がコートを着ている最中には布の擦れる音だけがカフェ内で響く。男性はコートを着終わるとそのままカフェの出入り口へと向かう。冷たい外の空気がカフェの扉の隙間から入ってきて男性の顔の皮膚へと冷気を伝えた。

 男性は店長に挨拶をすることもなく出口の扉を押して外へと出ていく。青白い世界が外には拡がっていた。巨大な、とてつもなく巨大な黒い腫物のような物体が、青白い空にぶら下がっている。黒い腫物のような物体は雲のようにも見えた、竜巻のようにも見えた。

 男性は巨大な黒い腫物を眺めるのをやめてコートのポケットに入っていた緑色のキャスケットを被る。男性が四車線道路を信号機の色なんて気にせずに横切っても怒る人は誰もいなかった。

 男性は茂みを飛び超えて歩道に着地して何事もなく歩き出す。男性の履いていたエンジニアブーツは男性の足によくフィットしており、男性は足早に進んでいた。男性が足を止めたの女性の肉体をした白いマネキンが歩道の真ん中に立っていたから。

 男性はズボンのポケットから携帯をゆっくりと取り出すと携帯をカメラモードにしてマネキンの写真を撮る。男性がマネキンの写真を撮り終わると白いマネキンは白い砂へと変化してその場で塵になった。囁くような小さな声が男性の耳元から聞こえる。

「達成した」

 男性が声に囁かれた方を見ても、そこには誰もいない、何もない。男性は携帯をポケットに入れて何事もなかったかのように歩道を歩いた。建物が明かりだけを点けて並んでいても人の気配は全くない。男性はどんなに人がいそうな建物があったとしてもどの建物の中にも人がいないことを理解している。男性がさっきのカフェがあった場所を見ても、そこには畑だった土地がぽつりとあるだけだった。青い旗が土に汚れながらもたなびいているのはカラス避けのためだと思わせる。何もない土地にはさっきまでカフェがある場所だった。

 男性が歩き始めようとすると白いマネキンが音もなく道のそこら中に立っている。男性は携帯を持ってそれらの写真を撮り始めると、白いマネキンはシャッター音と共に白い塵になった。男性の耳元でそのたびに声が囁く。

「達成した」

 甲高い声を発している人物の人物像は想像がつかない。声の質は人間らしさをそれほどまでに失っていた。

 男性が全ての白いマネキンの写真を撮り終わったので歩き出そうとしている男性の後ろには、青いマネキンが立っている。青いマネキンはマネキンらしく立っているだけで男性に触れることもない。男性も青いマネキンには気づかずにその場を去っていく。男性が歩いている中で白いマネキンの写真を撮ることはあっても、青いマネキンの写真を撮ることは決してなかった。青いマネキンは男性の後ろにだけ現れる。必ず、後ろだった。


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