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10日目 アリシア、凹む

「千堂様、私はダメなロボットでしょうか…?」


夜、帰宅した千堂を迎え、リビングに向かって歩く彼に付き従いながら、アリシアはそんなことを訊いてきた。敢えて振り向かずに千堂が応える。


「いや、私はそう思わないが、何故そう思う?」


彼女の問い掛けにきっぱりと答えた上でそう問い返した千堂に、アリシアはすっかり落ち込んだ様子で答えた。


「だって、千堂様に戦闘モードの使用まで許可していただいたにも拘らず危険生物一つ駆除出来なかったんです。ロボット失格です…」


そんな彼女の言葉を聞きながら、千堂は難しい顔をしていた。いや、難しい顔をしようとしていた。よく見ると、口角が痙攣しているように微かに動いている。それは、明らかに笑いを堪えようとしている顔だった。それを気付かれまいとして、振り向かなかったのだった。


無理もない。千堂はゴキブリをそれほど恐れない。不意に飛び掛かられでもすれば驚きもするが、彼にとってゴキブリは珍しくもない昆虫の一種という認識でしかなかった。苦手意識がさほどないのだ。だから彼女がそれを恐れる様子が滑稽に見えてしまうのである。しかし、彼女を侮蔑しようと思ってる訳でもない。ただ何故か笑えてきてしまうのだった。彼は努めて冷静に言った。


「人間には心があるからこそ、本人の能力とは関係なく苦手なものというのが存在する。お前にも心があるのだから、苦手なものの一つや二つあっても何もおかしくはないさ。気にする必要はない」


笑わずに言うのは骨が折れたが、それは彼の本心だった。そう思っているのは間違いないのだ。ただそれとは別に笑えてしまうのである。


ようやく大きな波を乗り越えて落ち着いた千堂は、リビングでソファーに腰掛けて彼女を見た。そして改めて静かに言った。


「お前の言っていた危険生物がゴキブリだったことには正直言って驚いたし、ゴキブリだと知っていれば戦闘モードの使用を許可しなかったのは事実だ。ただ、お前は私の命令通り人的にも物的にも損害を出さなかった。それだけでも十分に優秀だよ」


その彼の前で、まるで教師にお説教される生徒のようにシュンとなったアリシアの姿はますます人間にしか見えなくなっていた。そんな彼女が忍びなくなって、ソファーを軽く手でポンと叩きながら、「おいで」と、そこに座るように彼女を促した。


遠慮がちに座る彼女の頭に手を置き、彼は言う。


「さっきも言ったが、お前に心がある以上は苦手なものがあるのも仕方ないことだ。お前の手に負えないのならアリシア2305-HHSに遠慮なく頼ればいい。トラブルが生じた時に互いに連携しフォローし合うのもロボットならではのことだろう?。自分に出来ないことは無理をせず誰かの助けを借りるのは、人間にとっても当たり前のことなんだ。むしろ、出来ないことを出来るふりをする人間は、私は認めない。そういう人間は仕事で大きなミスをし、結局は損害をもたらすからな」


そう、それが千堂の考え方だった。彼は仕事において高いクオリティーを要求はするが、出来ないことを責めたりはしない。出来ないのであればどうすればそれが出来るようになるのか、出来るようにならないのであればそれは何故か、そういうことを考えようともしない人間に対しては厳しい。ましてや、出来ないことを隠し結果として損害を与えるような人間に対しては断固たる態度で臨むこともあった。例えそれが将来を嘱望されたエリートであっても、資料の整理しかすることのないような閑職に飛ばすように人事部に指示することだってする。


彼にとって許せないのはあくまで、『出来ないこと』ではなく、『出来ないことを誤魔化そうとすること』なのだった。


万能な人間などいない。人間にはそれぞれ適性や得手不得手があり、互いにそういうものを補い合うからこそ非力な人間がこれほどの繁栄を謳歌出来るのだと彼は考えているのである。だから目先の見栄や虚栄心で出来るふりをする人間はむしろ足を引っ張る存在だと考えていた。


それはアリシアに対しても同じであった。ゴキブリに怯えて落ち込む彼女の様子につい笑ってしまいそうになりつつも、それは必ずしも悪い評価に直結するものではないのだ。逆にそういうことを正直に申告してくれた点を、彼は評価したいと考えた。今後、彼女が自ら苦手を克服してくれるならそれは高く評価しよう。しかし、克服出来なかったとしても、それはアリシア2305-HHSがいれば十分に対処できる程度の問題だ。<心を持ったロボット>という得難い存在が持つ欠点とすれば、極めて些細なものである。彼女の価値を損なうようなものでは決してない。


とは言え、アリシア自身は、アリシア2305-HHSがやってみせたように本来なら造作もなく出来る筈のことが出来なくなっている自分が許せないと感じていた。千堂はそれも承知した上で、それを許せないと感じることで彼女の成長が促されるのならと考えてもいたのであった。


「アリシア。出来ないことを悔やむ気持ちがあるのなら、どうすればそれを補うことが出来るのかよく考えることだ。そして具体的な対処法を見つけ確実に身に着けていくことで人間は成長する。お前にも同じことが出来るのかどうか、私に見せてほしい」


千堂は穏やかにそう語り、彼女の頭をそっと抱えて引き寄せた。アリシアもそれに逆らわず、彼の胸に顔をうずめた。こうやって自分の言葉に耳を傾ける姿勢を示してくれるのなら、今はそれで十分だ。


「分かったら、食事にしてくれるかな?。少々腹が減ってるんだ。お前の料理を楽しみに帰って来たんだ」


そう言われて、アリシアはハッとなった。そうだ、こんなことで落ち込んで自分の役目を疎かにしたらそれこそ自分が許せなくなる…!。


「申し訳ありません千堂様!。ただちに!」


夕食の用意は済ませてある。後は千堂を迎えるだけだったにも拘わらず彼の顔を見てしまったらつい甘えたくなってしまったのだった。そんな自分を受け止めてくれた彼を、これ以上失望させたくない。それからの彼女はてきぱきと自身の役目を果たした。アリシア2305-HHSに比べれば精度は落ちていても、日常の生活には何の支障もないレベルはきちんと維持していた。


そんな彼女を見守りつつ、しかし千堂は少し不安も感じていたのだった。それは、彼女が戦闘モードを使っていた際に記録されたデータだった。戦闘モード使用時には感情のようなものは殆ど表に出さなかった筈が、今日のデータを見る限りでは明らかに動揺したりという感情の揺らぎを思わせる箇所が散見されたのだ。しかもここまでの彼女の発言がそれを明確に裏付けていた。


もちろん、戦闘モード使用中に異常な挙動があったと言っても今日の事例は深刻なものではないし、彼の命令通り人的・物的被害は出さなかったのだから実質的な問題はなかったと言ってもいいのかも知れない。ただ、本来なら有り得ない挙動があったという事実は目を瞑ることが出来なかった。


それが、ゴキブリという苦手を前にしたことによる一時的なものなのか、前日の戦闘モードの使用による影響なのかは現時点では断定は出来ない。とは言え好ましい事態であると言い難いのもまた事実だった。彼女の<症状>が大きく進んだ可能性も否定は出来ないのだから。


アリシアからの申請による戦闘モードの使用を、厳しい制限をかけた上でとは言え安易に許可してしまったことを、彼は少し後悔していた。それによって今回の挙動が確認出来たとは言え、結果的にはそれが彼女の寿命を大きく縮めてしまったのかも知れないということを、食事の用意を終えて自分に微笑みかける彼女の姿を見詰めながら、千堂は自らに問い掛けていたのであった。


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