10日目 G、アリシアを翻弄する
その日アリシアは、この屋敷に来て最大のピンチに陥っていた。先日の事件など、今度のものに比べれば犬がおならをした程度の話にすぎないと彼女は思った。
それは、強大な敵だった。運動性も機動性も彼女をはるかに上回る、恐らく火星でも最強の存在に違いなかった。
撃退するだけなら、方法はある。叩き潰してしまえばいいのだ。だがそれを行うと、屋敷が穢されてしまう気がして、それだけは避けたいと彼女は思っていた。また、毒ガスを散布するという方法もあるが、それはもやはり千堂に対する影響を思うと、最終手段とも言うべき禁忌の手法と思えた。
一番の方法は、破壊することなく確保すること。故に彼女は、まずブービートラップを仕掛けることにした。奴が好むであろう餌を囮に、粘着性のシートでからめとってしまうのだ。これは、奴がまだ地球にいた頃から有効な手段として永らく使われてきた手法である。
だが、奴は狡猾だった。何百年も引き継がれてきた筈のその罠を嘲笑うかの如くすぐ脇を駆け抜けて、闇の中へと姿を消した。それでもいずれはと思い罠を仕掛けておいたが、奴を捕えることは出来なかった。そこで彼女は、もう一つの罠を仕掛けることにした。毒ガスの散布は人体への影響を排除しきれないことから躊躇われたが、千堂が口にすることのない毒の食事であれば、彼に影響を与える心配もなく、しかもきっと奴も見抜けないに違いない。粘着シートは、さすがにあからさま過ぎたのだろう。
毒入りの食事を奴の通り道と思われる個所に仕掛け、彼女は待った。床に伏せ、気配を殺し、家財道具の一部になりきって、奴が毒入りの食事に手を付けるその瞬間を待った。
そうして一時間ほどが経過しただろうか。奴が現れる気配もなく、アリシアが次の手段について模索を始めたその時、彼女は自分の背後に何らかの気配を感じた。
まさか!?。
彼女がその気配に振り返った瞬間、黒い影が自分に向かって一直線に宙を奔り抜けるのが見えた。
「きィやぁーっッ!!」
もう、自分でも何なのか分からない絶叫が口からほとばしり、彼女は自身が出しうる最大速度でその場を飛び退き、天井の角に張り付いた。その姿はまさに映画などに出てくる忍者そのものであった。
ロボットである彼女は鼓動が早まることも無ければ呼吸が乱れることもないが、それでも分かるくらいに動揺していた。恐怖で表情を凍り付かせ、落ち着きなく奴の姿を探し求めるその様は、天井の角に張り付いていることを除けば、か弱い少女以外の何者でもなかった。先日、テロリストを鮮やかな手並みで制圧した彼女は、そこにはいなかった。
彼女は思った。
強い…、強すぎる…!!。私では勝てる気が全くしない…!。
そのようなモノがこの世に存在するということが、恐怖だった。ロボットなのだから本来は恐怖など感じる筈がないのに、なまじ心など持ってしまったが為に、彼女は恐怖というものを身に沁みて思い知らされていたのだった。そして、ロボットであるが故に自分と奴との能力差が冷徹なまで分かってしまい、それがまた恐怖を駆り立てるのだ。静止状態からの加速度も、反応速度も、間違いなく自分を上回ってることを思い知らされてしまうのである。
彼女は、奴の姿を探し求めた。せめてその位置だけでも確認しないと、対処のしようがなかった。だからセンサーの感度を上げて奴の存在を探知しようとするが、どうしても見付けることが出来ない。どうやら奴も気配を殺しているらしかった。姿が確認できないことがまた、恐ろしい。
天井に張り付いたまま数分が経過し、少なくとも視覚で確認出来る範囲内に奴がいないことを確かめると、彼女は音もたてず床へと降りた。90キロを超える重量を感じさせないその動きは、完全に戦闘モードのそれだった。
彼女がなぜ今、戦闘モードが使用できているのか?。その訳は二時間ほど前に遡る。奴を見つけた彼女が千堂に電話をかけ、『危険生物の対処の為に戦闘モードの使用の許可を願います』と申し出たことから、屋敷内での使用及び人身・物損に関わらず被害を出さないのであればという条件付きだが許可されたのだった。
しかしそれももう二時間。奴の存在を確認してからなら既に三時間だ。時間的な制限は受けていなかったが、以前にも説明したとおり、戦闘モードの使用は彼女には大きなリスクを伴うのだ。もっとも、今回は人間が相手ではないし待ち伏せ(アンブッシュ)が主体なので負担は微々たるものであるが。それでも影響はゼロではない。長くなればなるだけ負担も積み重なる。最初の目算ではほんの数分で片が付くはずだったのだが…。
アリシアは油断せず奴の気配を探った。この部屋のどこかにいる筈だ。先に見付けなければならない。能力は奴の方が上なのだから、先手を取らなければ勝ち目はない。
だが彼女は気付いてしまった。既に自分の方が先手を取られてしまったことに。
気配を感じ恐る恐る視線を向けた先に、奴はいた。先程のように飛び掛かっては来なかったが、いや、もしかするとそのタイミングを窺っているのではと思わせる慎重さで、じりじりと間合いを詰めていてのだった。
アリシアは慄いた。改めて見る奴の姿に。全く無駄を感じさせない、極めて機能的かつ、見る者を恐怖の淵へと叩きこまずにいられないその姿に、彼女は完全に呑まれてしまっていた。異様な光沢をもった黒光りするそれが、少し進んでは止まり、彼女の出方を窺うようにしばらくそうした後、更に前へと徐々に迫ってくるのだ。長く伸びた触角が彼女のいかなる反撃をも見逃すまいとするかのように、油断なく気配を探っている気がした。
来ないで…。いや…、こっちに来ないで…。
言葉も出せずにただ首を左右に振り、しかし視線は奴から背けることさえできず、間合いを詰められた分だけ後ろに下がるしか出来ない彼女は、いつしか廊下にまで追い遣られていた。廊下の壁に背を預け、それ以上に下がれないことに気付き、今度は壁沿いに横へと移動した。その彼女に対しても、奴は執拗に迫ってくる。
逃げたい…!。今すぐこの場から全力で離脱したい…!!。
彼女はそう思った。だが、ここで自分が逃げれば、それは奴を野放しにするということになってしまう。この屋敷を奴に奪われてしまう。それだけは許せない。ここは千堂と自分の大切な場所だ。それをこんなグロテスクな危険生物に明け渡すなど、絶対に有り得ない。有り得ない筈なのに、体が言うことを聞いてくれない。いや、自分の心そのものが奴に対して敢然と立ち向かおうとしてくれないのだ。どうして自分はこんなに弱くなってしまったのだろうか?。これが、ロボットにも拘らず心を持ってしまった自分に対する何者かの仕打ちとでもいうのだろうか?。
アリシアは泣いた。心の中で泣いた。このような理不尽に対して何も出来ない自分の不甲斐なさに泣いた。だが奴は、そんな彼女を嘲笑うかのようになお迫ってくるのだった。
彼女の心が折れそうになったその時、眼前を横切る何者かがいた。静かに、この緊迫した状況をまるで意にも介さぬようにその場に侵入した者がいたのだ。
先…輩…?。
そう、それはアリシア2305-HHSだった。左手にスチームクリーナー、右手にハンディタイプの掃除機を携えたアリシア2305-HHSが無言のままでアリシアと奴との間を通り過ぎるかに見えた瞬間、すっと左手を奴に向かって差し出し、スチームクリーナーのスイッチを入れた。
高温のスチームが噴き出し、奴は瞬く間にそれに包まれた。パニックを起こしたかのように身を捩り跳ね回ったが、見る間にその動きも緩慢になっていく。そこに追い打ちをかけるようにアリシア2305-HHSがスチームを浴びせかけ、やがて奴は完全に動きを止めた。
そして右手に持っていたハンディタイプの掃除機の吸い口を奴へと差し向けると、スボッっという微かな音と共にあのおぞましい黒光りする体は視界から消え去ってしまったのだった。
その後、アリシア2305-HHSは、腰を抜かしそうに壁にもたれる彼女に一瞥をくれて、何も言わずに去っていったのであった。




