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第三章 円のテニス・2

 コンビニのドアを開けると冷気が身体に纏わりつく。この生き返るような感覚も去年以来、夏場にだけ感じるそれであった。

「これを見てくれ」

 エリスは店に入るなり棚から新聞を一部引き抜くと、紙面の上隅を指差す。

 2018年8月29日。そこには確かに三年前の日付が記されている。念のため他の新聞も確認したが、日付はどれも同じだった。

「本当にここは三年前なんだ……戻ってきたんだね」

 萌姫は噛みしめるように呟く。

 当然の事ながら売り場面積の限られるコンビニにおいて、三年前の同じ日の新聞がこうして並んでいるはずが無い。それに仮に時界移動を装って用意した店だったとして、いくら内装をいじっていようが、外の()せ返るような気候は再現のしようが無い。

「うんうん。これぞ時界旅行の醍醐味だねぇ」

「お前は勝手に何やってんだよ、泉果」

 いつの間に買ったのか、泉果は棒アイスの袋を開け、すでに頬張っていた。

 アイスの袋も以前見た事はあったが最近見ていない類のものだ。恐らくは懐かしくなってつい買ってしまったのだろう。

「祈哉も食べる? はい、あーん」

「んぐ、もぐもぐ。……とりあえず俺らも何か買うか」

「祈哉?」

 祈哉は泉果の食べかけのアイスを一口かじると、店奥のペットボトルコーナーへと向かう。それを一瞬エリスは驚きに目を見開いて見ていたが、すぐに気を取り直して後に続いた。

 そして全員飲み物を買うと、その後は雑誌の立ち読みを始める。

 するとエリスはチラチラと祈哉を見る。そして何度か口を開いては閉じてを繰り返していたが、やがて思い切って声をかけた。

「祈哉、そ、その……泉果とは、どれくらいの付き合いなのだ?」

「泉果と? そうだな、もう九年くらいかな。俺が師匠のところで暮らすようになって一年くらいしてからだけど、それがどうかしたか?」

「いや、特に大した理由はないのだがな。その……さっきはアイスを」

「んっ? エリスもアイスが食べたいのか? ってそろそろか。気を引き締めないとな」

「あ、ああ……」

 買い食いを恥ずかしがっているのか? エリスにしては歯切れの悪い様子に祈哉は首を傾げるが、腕につけた電波時計を見て思考を中断させる。

 現在の時刻は午前七時三十七分――試合開始は午前九時。円達のスタジアム入りは午前八時予定だ。そしてあの交差点にさしかかるのは七時五十分過ぎ。スタジアムまで歩いて十分程であるならば、そろそろ彼らが姿を現してもおかしくない。

「あっ……!」

 と、萌姫が目を見開き口を手で押さえた。

 テニスラケットの入ったバッグを右肩に掛ける短髪の男子と、その彼を見上げて楽しそうに笑う黒髪の小柄な女子。その二人がユニフォームを着た一団に混じってコンビニの前を通り過ぎたからだ。

 三年前の有守萌姫、彼女は黒髪を束ねてポニーテールを作っている。隣の萌姫は髪を短く切り髪色を染めていたが、目の前の萌姫は黒髪で髪を染めておらず、中学生らしい初々しい印象をを受ける。

 そして――。

「円……」

 萌姫は無意識のうちにその名を口にした。

 部活動のシャツとパンツを着た写真通りの人物、萌姫にとっては思い出の中の彼の姿が今目の前にある。

 祈哉達はコンビニから出ると、距離を開けて後ろを歩く。

「……」

 自分の手に一人の少年の命がかかっている――祈哉はその実感と共に心臓の鼓動を強めた。

 前を歩く丘光テニス部の面々はどれも資料で見たとおりの顔ぶれだ。間違いなくこのまま試合のあるスタジアムへと向かっていくだろう。

 全ては予定通り……だからこそ目の前に横たわる死の運命を意識させられてしまう。数多の戦場で敵を倒し、多くの特異点にも干渉してきた祈哉だが、この手の緊張はそれとは全く違う類の異質なものであった。

 そんな緊張が伝わっているためか、四人共どうしても表情が硬く口数が減ってしまう。

 リリリ、リリリ……!

「うおおっ!?」

 だから突然鞄の中から響いた聞き慣れない電子音に、思わず祈哉は飛び上がってしまった。

 鞄を開けるとランプの明滅する細長い物体を見つける。それはこの時界の文明レベルに合わせて用意された携帯電話で、時界転移装置を通じてATTと通信を行う機能を持つ。

 普段携帯を持ち歩く習慣が無い祈哉はすっかりその存在を失念していたのだった。

 前の集団の何人かがこちらを振り返ったが、幸い一番前を歩いていた円と黒髪の萌姫は話に夢中でこちらに気づいていない。集団も祈哉が鞄の中を慌てて探っている様子を見て再び前を向いて歩き出す。

 こちらの萌姫に気づくのではないかとも懸念したが、髪を染め髪形の違う高校生の萌姫は別人と認識されたようだった。

『どうだ、着いたか?』

 通話ボタンを押すと、楽しげな声とともに画面に老人の祈哉が映る。

「今は件の集団の後ろを歩いてる……っていうか、俺が携帯を鞄に入れたままにしてたの、あんたなら知ってただろ?」

『そりゃ七十年前、俺も同じミスをやらかしたからな。いやぁ、ほんと懐かしいぜ』

「そういう大事な事は懐かしむ前に事前に伝えといてくれねぇか?」

『伝えたら行動が変わっちまうだろ。それでツアーが台無しになったらどうするつもりなんだ?』

「んな事でなるか! とか言って、本当は七十年前にやられた事をただやり返したかっただけなんじゃねぇのか?」

 祈哉はそもそもエリスがいるだろ、という台詞を飲み込み訝しむ。

『そんな心の狭い俺だと思うか?』

「思うな」

「思うね」

 エリスと泉果は自信ありげに言った老人祈哉に対し、即答で否定した。

「……と、とにかくこれでこっちの映像はそっちでも確認できるんだな?」

 そんな二人の本音に触れて動揺した祈哉だが、それでも添乗員としての義務を果たすべく、カメラの向こう側を確認する。

『うむ、カメラから確認できるぞ』

 すると携帯の画面内に横から眞白が入ってきた。

 二人は理事長室で緑茶を飲んでおり、テーブルにはおはぎが山積みになって置かれているのが見える。

『地図は頭に入ってるな、もうすぐポイントだぜ』

 老人祈哉の言葉とほぼ同じタイミングで、前の集団が交差点を曲がる。

 後を追って道を曲がると、正面に円筒状のスタジアムが見えてくる。垂れ幕には『第68回全国中学テニス選手権』と書かれていた。試合会場のコーカス・スタジアムだ。

「あの交差点か……」

 エリス、泉果と何度も確認した現場交差点の立体画像。その場所が今目の前に現れた。

「萌姫、これを頼む。なるべく全体の状況を見えるようにしておいてもらえるか?」

「うん、わかった……」

 祈哉は通信状態の携帯を萌姫に手渡し、ついでにエリスの鞄も預かってもらう。

 目の前の信号が赤になり、集団が立ち止まる。横断歩道の前では相変わらず円と中学生の萌姫が楽しそうに話をしていた。

 祈哉は集団の横、エリスと泉果は後ろに移動する。少し強引だが今は手の届く位置取りを優先する。隣のテニス部員がちらりと見てくるが、特に気にすることなく二人の会話へと視線を戻した。

 横目で確認すると、萌姫はエリス達のさらに後方で携帯を操作するフリをしてカメラを集団に向けていた。彼女にはツアー前、救出には一切の手出しをしないよう伝えてある。特異点――運命への干渉は魔力をもってしか行えないからだ。

 車の通りがないにも関わらず、歩道では信号待ちの学生達が立たされている。

 その後ろでエリスは大きく呼吸をして気持ちを落ち着かせようとし、泉果は黄色の帽子を逆向きして気合を入れ直している。

 ――落ち着け。予行演習どおりにすれば大丈夫だ。

 祈哉はエリス達と共に行ったシミュレータでの訓練を頭の中で反芻(はんすう)する。

 ようやく対角の歩道の青信号が点滅し、一つ上の赤信号へと光が移動した。車両用の信号も黄色へ、そして赤へと横に移動していく。

 祈哉は胸元に意識を集中して魔珠から魔力を引き出し、体内へ循環させる。

 青信号――。

 丘光中学テニス部の全員が横断歩道を渡りだす。円と中学生の萌姫が車道に出て――、

「――!」

 空回るタイヤ――唐突にその音は鳴り響く。

 焼けそうなほどの日差しの中、その黒光りする車体が姿を現した。

 アクセルを吹かして周囲を威圧するように破裂するようなエンジン音を上げ、加速しながらこちらに迫ってくる。

 ――今だ!

 祈哉は車道に飛び出し円と萌姫の前に立ちはだかった。二人はちょうどけたたましく音を立てる車に気を取られたタイミングで、祈哉には気づいていない。

 そんな中、早くも円が動きを見せる。身体を捻り萌姫に向かって手を伸ばしたのだ。

 ――大した反射神経だ。けどなっ!

 萌姫を突き飛ばした反動で祈哉に向かって身体が傾いている。いくら反応がよかろうと、こうなってしまってはもうどうしようもない。

「んらああぁぁぁっ!」

 祈哉は姿勢を低くして命知らずなお人よしの身体を抱えると、勢いのままに飛び上がる。直後、宙を舞う祈哉達の後ろを猛スピードで車体が通り過ぎた。

 勢いのあまり着地と同時に円を前へと投げ出してしまうが、後ろに控えていたエリスがそれを抱きとめる。エリスは円を抱えたまま尻餅をついた。

「大丈夫か、エリス!?」

「ああ、問題ない」

 エリスは片手を上げて返事をした。その後ろでは携帯を構えたままへたりこんでいる萌姫の姿があった。

 切羽詰った瞬間だったためか、コンクリートの地面と摩擦する激しいブレーキ音が遅れて聞こえてくる。

 ――いや、脇見運転で前を見てなかった……訳じゃねぇよな、こりゃ。

 祈哉は顔をしかめる。あの車からは明らかに害意を感じた。初めから円を狙っていたかのように猛スピードで交差点に突っ込んできたように思える。

 そんな違和感を感じていると、ワゴン車の中から青年が二人、遅れてもう一人降りてくる。色黒で派手なアロハシャツを着た柄の悪そうな青年達だ。

「こんなところまで資料どおりってのもなんだかなぁ……って!?」

 頭を掻きながらそう呟いていると、三人組は祈哉達を見据えて駆け出してきた。

 祈哉は勘に従いすかさず駆け出す。

「……!」

 一番前を走る中肉中背の青年が祈哉を払いのけようと手を伸ばしてくる。祈哉はその手を上から叩きながら踏み込み、走る勢いのままに腹へと膝蹴りをねじ込んだ。

「ぐふっ――!?」

 くの字に折れた青年を身体ごと押し返すと、青年は力なくその場にうずくまる。

 そこへすかさず二人目の小太りな青年が殴りかかってきた。

 祈哉は片足を引いてパンチを受け流すと伸びた腕をとり、引き倒しながら固める。

「――――っ!」

 手加減なしに一気に捻じ曲げると青年の腕はあらぬ方向を向いた。骨をへし折る前に関節の方が外れたようだ。

 その視界の隅ではもう一人、長身の青年が駆け抜けていくのを捉える。仲間が大怪我をしたにも関わらず全く怯まない。それどころか捨て駒にさえしている。

 祈哉はとっさにナイフを投げて、結んであったワイヤーを長身の青年の足首に巻きつける。青年は足をとられてその場で豪快にすっ転んだ。

「ったく、ひき逃げを認めて素直に応じるんじゃなかったのかよ」

 資料では円をひいた青年達は車から降りると、素直な態度で対応したとあった。

 だから逃げるどころか、襲い掛かってくるというこの状況は完全に想定外だ。

 ――まさかこいつら、初めから円の命を狙ってたっていうのか?

 車は交差点に進入する時、スピードを落とさないどころか加速までしていた。ブレーキをかけたのは交差点を過ぎてからで、明らかに円をはねる意思を感じた。

 彼らと円の間に接点が無いのは事件の調書から明らかになっているが、警察も掴めていない接点が何かあったということなのか?

 ――にしても悲鳴一つ上げねぇとか、一体どうなってやがる?

 相当な激痛が奔ったであろうに、三人共息は漏らしても悲鳴を上げない。その事に違和感を覚え魔力の気配を探るが、特に魔力は感じ取れなかった。

「――!?」

 すると長身の青年が再び立ち上がり、無理矢理前に進もうとした。

「させねぇよ!」

 祈哉はワイヤーを巻き取り、長身の青年を引きずり戻す。青年は足をとられて再び転んだ。それでもまた立ち上がり前に進もうとするのを止めようとしない。その動きはまるで足首に巻きついたワイヤーに気づいていないようであった。

 ――くっ、なんて馬鹿力だよ!?

 祈哉はその手応えに内心で舌打ちする。

 魔力による身体強化でもなければ、武術を使っているわけでもない。まるで肉体のリミッターが外れているかのような単純で純粋な膂力のみ。こちらが魔力で身体能力を高めていなければ、あっという間に持っていかれる程だ。

 ナイフで脚の筋肉を断てば動きを止める事も可能。だが一般人の見ている前で、刃物で相手を傷つけるわけにはいかない。

 そこへさらなる想定外が起こる。

 腹を蹴られ蹲っていたはずの中肉中背の青年が立ち上がり、再び走り出したのだ。

「泉果、頼む!」

「あいよ!」

 返事をした時にはすでに、泉果は円達の前で構えを取っていた。

 そして直進してきた青年の股間を躊躇なく蹴り上げる――再びその場に蹲った。

 泉果は絶妙な加減で攻撃を加えた。後遺症が残るような深刻なダメージにはならない。祈哉はそう思いながら安心してその様子を見ていた。泉果はどれ程度の力でどこに攻撃を加えるのが一番効果的か、理解して攻撃を入れているのを知っている。

 それは経験からくる予測とは異なる、百パーセント外れない純然たる事実。

 『触智診者(トゥシェプレシアンス)』――それが泉果の魔珠固有スキルである。

 対象への物理的接触がどう相手に伝わるかを、自分の感覚として把握出来る能力。

 それにより最適な攻撃を常に放て、尚且つ回避による空振りも感知するため、彼女の攻撃は百発百中、一撃必殺となる。

 このスキルにより泉果は僅か十九歳という年齢でありながら、時空軍の中でもトップクラスの近接格闘スキルを持つ。

「とりゃああっ!」

 泉果はこれまた痛みを忘れたかのように走ってくる腕が曲がった小太りの青年に飛び掛って捕らえると、そのまま足を絡めて首を締め上げる。予測を含む効果的な締め上げであっという間に白目を剥かせた。

「――ウソん? ゾンビですかい、君は?」

 だが直後の信じられない光景に、泉果は驚きに目を見張る。

 股間を蹴られ動けないはずの中肉中背の青年がまた立ち上がり駆け出したのだ。到底素人が動けるようなダメージではないにも関わらずだ。

 泉果は慌てて絡めていた脚を解こうとするが、小太りの青年は意識を失いつつも足首を強く掴んでいて離れられない。

 その間に中肉中背の青年は脇を抜け、円に向かって走っていく。

 と、青年と円の間に人影が割って入った――萌姫である。

「きゃっ――!?」

 だが突き飛ばされると、女子の軽い身体は地面を転がった。

 そこへ黒髪の萌姫も前に出て、両手を広げて円の前に立ち塞がろうとしている。

「萌姫!」

 しかしその前に円が割って出て、彼女に覆いかぶさるようにして庇った。

 そこへ青年が掴みかかり――、

「――させるか!」

 さらにエリスが飛び込んできた。

 ――なんだ!?

 すると中肉中背の青年が、まるで開かなかったガラス製の自動ドアにでもぶつかったかのように、何もないところで弾かれる。

 しかし青年は怯むことなく再びエリスに掴みかかろうとする。だがエリスは伸ばしてきた腕を払うと、懐に潜り込んで男を背負い投げ、地面に叩きつけた。

 パンデュルアーツ――添乗員が業務上必ず身につけている護身術である。

 様々な格闘術の基礎を取り入れ作られた初心者向けの格闘術だが応用範囲は広い。エリスは事務だけでなく、こちらの方もしっかりと訓練をしているのが動きから分かる。

「…………ぅぅ」

「――な、なに!?」

 エリスにより背中から地面に叩きつけられた青年。だがやはり痛みを感じていないかのようにむっくりと身体を起こすと、腕の力だけでエリスを突き飛ばす。そして手をぶらつかせながらゆらりと立ち上がった青年は、再び円に掴みかかろうとした。

 だが一歩踏み出そうとして前のめりになった。下を向いて自分の身体の重い原因を確かめると、そこには先程突き飛ばされた萌姫が青年の片足にしがみついている。

「…………」

「駄目っ! あっ、うぐっ! くっ……!」

 中肉中背の青年は無言のまま空いた片足を振り下ろす。しかし萌姫は腹を蹴られようが、顔を踏まれようが決して離そうとはしなかった。

 それでも青年は萌姫の腕を踏みつけ振り払うと、再び前へと踏み出す。

「……!?」

 すると円に手を伸ばしたところで、やはり何か見えない壁のようなものにぶつかった。

 再びエリスが間へと飛び込み割って入ったのだ。やはり目の前にガラスの壁があるかのように、手はその先へ届かない。

 ――結界か!?

 魔力の揺らぎを感じ、祈哉は理解する。

 確かに青年がエリスと接触する瞬間、エリスの中の魔力が外に出て壁を生成していた。

「せやいっ!!」

 そこへ小太りの青年を振り切り駆けつけた泉果が飛び掛かり、中肉中背の青年を締め上げると意識を奪う。

「……さてと」

 その様子を目の端で窺っていた祈哉は、目の前にはワイヤーで全身を拘束された無表情のまま無言でもがいている長身の青年を見下ろす。その瞳からは何の感情も読み取ることができない。

 ――まさかこいつら、洗脳されてるのか?

 暗示によって筋力のリミッターが外されているのならば、見た目以上の力を発揮できるのも頷ける。この異常なまでに迷いの無い行動にも説明がつく。

 祈哉はワイヤーを手繰りながら男に近づくと、魔力を引き出し頸椎(けいつい)に流し込む。すると糸が切れた人形のように口をぽかんと開けて長身の青年は動かなくなった。

 ――やっぱり洗脳だったか。……んっ? 転んだときについたのか?

 祈哉は男の後頭部に植物の蔦の切れ端がついているのを見つけ、指で払う。

「ううっ……」

「大丈夫ですか!?」

 一方、倒れたまま呻き声を上げる萌姫に円が声をかけていた。

 状況に唖然とする一同の中、円はいち早く立ち直っていた。と、

「円!」

「うわっ!?」

 そこへ唐突に黒髪の萌姫が顔を真っ赤にして怒り出した。円の肩がびくんと跳ねる。

「もう! なんで私なんか庇ったの!? これから円は試合なのに!」

「萌姫、ちょっと落ち着けって」

 その目には涙を溜めている。円は一瞬驚いた顔をしてから、そんな萌姫に両掌を見せて落ち着けとゼスチャーする。

「うるさい! いつもいつも円は損することばっかりするんだから! ……今日だってタクシーに乗ればいいのに、わざわざ暑い中体力使っちゃって! しかも危険な目にまで遭って、ホント馬鹿だよ! 馬鹿、馬鹿、馬鹿っ!!」

 だが黒髪の萌姫は落ち着くどころか怒りが益々ヒートアップしていく。

「萌姫、聞いてくれ」

 するとそんな彼女の両肩に円は手を置き真っ直ぐに見つめた。その真剣な目つきに、萌姫もようやく口を噤む。それを確認して円は一言一句言い聞かせるように萌姫に言った。

「そんなの萌姫が大切だからに決まってるだろ」

「えっ……!」

 思わぬ言葉だったのだろう。黒髪の萌姫は大きく目を見開いて円を凝視する。

「仮に萌姫を犠牲にして僕が助かったとして、そんな状態で冷静に試合ができると思ってるのか?」

「それは……」

「おっ、嫁が顔を真っ赤にしたぞ!」

 いつの間に立ち直ったか、萌姫を周りの部員達がはやし立てる。

 彼らはこんな事件の直後だというのに呑気なもので、もしかしたらこの底抜けの明るさが弱小校でも気後れせずにプレイできた理由かもしれないと祈哉は思う。

 黒髪の萌姫は蒸気を吹かんばかりにさらに赤面する。その後ろでは高校生の萌姫も同じように顔を真っ赤にしていた。

「まさか、この展開は……告白か?」

「そうなのか?」

 鼻息を荒げるエリスに祈哉は首を傾げる。

「見て分からないのかい? いい空気じゃないか」

 祈哉の隣まで来た泉果も鼻の穴を広げて二人の様子に見入っている。

 そんな全員の視線が円に集まる中、彼は満面の笑みで口を開く。

「なんたってお前は丘光テニス部の大切な仲間なんだからな」

「「………………」」

 祈哉は周囲の熱量が急速に小さくなっていくのを感じざるを得なかった。

「……いい風だな」

 真夏だというのに爽やかな風がスタジアム前の広場を通り抜ける。

「ごふっ!?」

 と、黒髪の萌姫の拳が円の腹に決まり、息が短く漏れた。

「僕、これから試合……」

「ふん! 心配して損した!」

 腹を抱えてしゃがみ込む円を置いて、中学生の萌姫はドカドカと先に歩いていってしまう。萌姫もそんな円を見ながら深く溜息を吐いた。

「まぁこんなものか」

「そだね、中学生に恋愛は早いよ」

「おい、さっきと言ってる事が違うぞ」

 エリスと泉果は腰に手をやり、やれやれと出来の悪い弟でも見るかのような視線を送っている。それでも口元を綻ばせ楽しげだ。

 そんな中、集団の中からひょろひょろとしたワイシャツ姿の男性が歩み出た。顧問の教師だ。

「助けていただきありがとうございます」

「いえ、皆さん無事でなによりです」

 それに続いてテニス部の一団も視線が合うと、ぺこりと頭を下げてくる。

「腹、大丈夫か?」

「大丈夫です、こういうのは日常茶飯事ですから」

「日常茶飯事って……ボクサーでも目指してるのか?」

「ははっ、殴るのも殴られるのも苦手です」

 円は鳩尾に決められ身体を震わせて息も絶え絶え。それこそ試合までに回復するのだろうかと心配になる程だ。

「試合頑張れよ、円」

「えっ?」

 円は意外そうに祈哉を見上げる。

「結構な有名人だぜ、お前」

「そうなんですか?」

 円は照れくさそうに頭を掻いた。円といい萌姫といい中学生とはこんなにも純粋なのかとつい思わされてしまう。

 ――しっかりと身体作りがされてるな。普段から練習を怠らなかった証拠だ。

 祈哉は円の肩を叩きながら、そんな感想を抱いた。

「それと、その……」

 円は言い辛そうに、顔を腫らした萌姫に視線を送る。

「スタジアムには医務室もあるだろうし、そこで治療するから心配すんな」

 濡らしたタオルで顔を押さえていた萌姫も、祈哉の言葉に頷いてみせる。

「試合、頑張って。私はそれで満足だから……最後まで諦めないでね」

「わかりました……必ず勝ちます!」

 萌姫を見据えて力強く返事をする円に、痛みに顔を歪めながらも萌姫は笑い返す。

 立ち上がった円が深く頭を下げると、部員達も次々に頭を下げる。そして最後に再び円が頭を下げると選手達はスタジアムへと歩いていったのだった。

「……行ったな」

 スタジアムの中に消える丘光テニス部のメンバー達。

「本来ならこれがあるべき光景なのだろうな」

「あるべき、か……少なくとも俺達が選びとった光景だな」

 祈哉はエリスの言葉に、今や事件現場となった交差点へと振り返る。

「俺達はただ助けたいから助けた。それだけのことだろ?」

「助けたいから助けたか。……うむ、そうだな」

 エリスは言葉を繰り返すと笑みを浮かべさっぱりとした表情になる。

「円は、助かったんですよね?」

「おっと、大丈夫か?」

 一方膝から崩れる萌姫を祈哉は慌てて抱き上げる。

「ごめん、安心したら力が抜けちゃって……」

「気にしなくていいさ。よく頑張ったな」

 今でもはっきりと思い出せてしまうほどの交通事故の光景。萌姫はきっと何度も夢に見て苦しみ続けてきたに違いない。

「ありがとう……」

「こら、試合はこれからだぞ。礼を言うのはまだ早いっての」

「あはは、そうだね」

 萌姫は涙で潤ませた瞳を祈哉に向け、笑いかけてくる。そんないじましい彼女を祈哉は愛おしく思う。いっそこのまま唇を奪ってしまうのも悪くないかもしれないと思ってしまう程に。

「ごほん。ところで、いつまでそうしているつもりだ?」

 と、不穏な声色に思わず顔を上げると、エリスが祈哉を半眼で見ていた。

「わ、悪い!」

「いえ、その……もう大丈夫です!」

 祈哉は慌てて萌姫を下ろす。咄嗟ゆえにお姫様抱っこの格好となってしまっていた。その事実に気づき、二人の間に気まずい沈黙が流れる。

「まったく、この女垂らしクン。おいらにはそんなことしてくれないじゃん?」

「お前の場合はおんぶだろ? 孫なんだから」

「おいらは祈哉の孫じゃない。じいちゃんの孫だ!」

『そうだぜ。勝手に人の可愛い孫を盗んじゃねぇ!』

「誰が欲しがるか、こんなじゃじゃ馬」

『なんだと! 泉果はいい女じゃねぇか!』

「いや、今は孫子の話だろ」

 携帯画面の向こうから老人の祈哉が唾を飛ばしながら抗議する。

「けどまぁ、その話の前にこれは片付けておかねえとな」

 祈哉は萌姫を下ろすと、倒れている青年達に向き直った。

『すでに対策はとっておる。もうすぐ到着するはずじゃ』

 直後、眞白の言う通り二台のパトカーが交差点に現われ、祈哉達の傍で止まった。

「警察だ」

 中から薄っすらと顎鬚を生やしたスーツ姿の男が降りてくる。

 真夏の炎天下の中、上着にネクタイまで締め、皺一つないきっちりとした着こなしをしている様子はまるでその場だけ季節が異なるかのような雰囲気を帯びている。

 その男は祈哉達に近づくと、警察手帳を開いた。

 だが手帳には、警察の逆三角形マークは描かれておらず、代わりにATTの白兎ロゴが入っている。

 ――アンドロイドか。

 外見こそ普通の人間と区別はつかないが、稼動のための魔力とアンドロイド特有の空気みたいなものを祈哉は感じ取る。恐らく眞白が時界転移装置のゲートから魔力を流し込み、こちら側の時界で生成したのだろう。

『という訳で後の処理はこちらに任せるとよい』

「ああ、任せたぜ」

 アンドロイドの刑事から眞白の声が発せられると、祈哉もそれに頷き返す。

「さてと、事情を聞かせてもらえるかな?」

「うっ……なんだよ」

 アンドロイドの刑事は視線を横たわる青年達に向ける。青年達はまるで悪夢から覚めたかのようにきょとんとし、先程までの無感情な彼らとはまるで別人のようであった。

「ご同行願いますよ。治療もしないといけないですからね」

「痛っ、なっ、どうなって……痛てっ」

「無理はしないでください。今助け起こします」

 そして眞白操る刑事は倒れている三人を起こすと手錠をはめてパトカーに乗せた。偽パトカーがゆっくりと走り出し、三人の青年達を連行していく。

 ものの数分、あっという間の出来事だった。後には何事もなかったかのように、刺すような日差しと蝉の鳴き声だけが取り残される。

『どうじゃ、なかなかの手際じゃろう』

「……まぁな」

 祈哉は気のない返事を返す。

 とはいえ祈哉は気づいている。先程は何気なく三人を立たせたように見えたが、実際は関節を叩いて意思とは関係なく身体を動かした。さらに重心を移動させて歩かせるという離れ業までやってのけたのだと。しかも遠隔操作のアンドロイドでだ。

『相変わらず素直ではないのぅ。……まぁよい。こちらで彼らの取り調べはやっておく。小僧は添乗員としてしっかりとお客様を案内せい』

「ああ。メインイベントはこれからだしな」

 そう言いながら祈哉は視線をスタジアムに向ける。

「ひとまず席の確保と萌姫の治療だな。泉果、萌姫の治療頼めるか?」

「うん、大丈夫だよ。治療キッドもあるし、マッサージと併せて手厚く看護しちゃうよ」

 そう言いつつ、泉果は帽子の(つば)を前向きにする。日差しのせいか、いつもより少しだけ目深に被った。

「まぁお手柔らかにな」

 触智診者(トゥシェプレシアンス)は攻撃に使えば一撃必殺の技と成り得るが、用途はそれだけではない。ツボを押さえれば肉体の活性も可能で治療もできる。またそのマッサージはまさに天にも上るような心地良さでどんな人間も骨抜きにしてしまう。

「ならば私は席の確保だな」

「ああ頼む。俺は一応他に危険が無いか周囲を確認してから行く。後は頼むな」

「任せておけ」

「祈哉、一人だからってサボっちゃだめだからな」

「お前と一緒にするな」

 祈哉はエリス達を見送ると、スタジアムの周りを歩き出す。

『それで、わらわに何の用じゃ?』

 自動販売機に差し掛かった辺りで、眞白が声をかけてきた。

 祈哉は自販機でスポーツドリンクを買うと、一口飲んでから眞白に尋ねる。

「さっきの襲撃の件だ……七十年前もこんな感じだったのか?」

『いや、襲ってくる事はなかったぜ。報告書は読んでるだろ』

「まぁな。じゃああの襲撃は何だったんだ?」

 祈哉は顔をしかめる

 第十一時界のツアーの報告書によると、青年達は円達には気づかずにそのまま交差点から走り去ったとなっていた。だからこそ今回何事も無く車が通過したならば、彼らの事は放っておくつもりでいたのである。

『あれはこちらでも想定外じゃった。三人から情報収集を進めておく。何か判明したら伝える故、今は有守萌姫との試合観戦に集中じゃ。添乗員はいつでもお客様のために行動するものじゃからな』

「ああ、そっちの件は頼むぜ。それと……なんでもねぇ。これからスタジアムに向かう」

『おう、しっかり応援してやれ』

 祈哉はエリスの能力について尋ねようとしてやめると通話ボタンを切る。すでに彼の中で、エリスの正体については見当がついていたからだ。

 ――だとしたらいずれ、俺は世界中の人間を敵に回すことになるかもしれねぇな。

 今ならまだ引き返せる。正体を知らない今なら……一瞬そんな考えが頭を過ぎるが、頭を振ってすぐにその考えを振り払う。

 そしてこれから自分が辿るであろう運命を思いながら、祈哉はスタジアムに向かって歩き出したのだった。

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