第三章 円のテニス・1
真夏の刺すような眩しい日差しの下、テニスラケットの入ったバッグを左肩にかけ、彼はいつものように少女の右隣を歩いていた。
彼は部活の朝練へと向かう時のように機嫌よく鼻歌を唄っている。それは非常に歓迎すべき状況なのだが、いざそれを目の当たりにすると少女はどうにも面白くなかった。
自分は緊張のあまり昨夜はほとんど眠れていない。それなのになんで彼はこんなにもリラックスしているのか。むしろマネージャーである自分が彼に宥められ、応援要員である仲間の部員達にまでからかわれてしまっている有り様である。
今日は何の日か。そう問いただしたら、きっと近所の神社のお祭りにでも出かけるような口ぶりで彼はこう答えるに違いない。
全国中学テニス選手権個人決勝――と。
少女達は今、決勝戦の行われるスタジアムへと向かって歩いている。
幾何学模様のタイルで舗装された歩道が来場者を華やかな舞台へと歓迎する。
きっとこの時期でなければその雰囲気を十二分に楽しむことができただろう。夏休みももう終わりだというのに、暑さは全く和らぐ気配がない。
車道を対戦相手の学生達が乗った大型バスが通り過ぎた。全校挙げての応援のためか、その車列は四台にも及んでいる。
バスの中はさぞやエアコンが効いてて快適だろう。少女は心の中で恨み言を呟く。
こちらは家から二時間以上電車を乗り継いできたというのに、この扱いの差は何だ。けれど名も知られていない弱小校で、出場選手が彼一人ではそれも仕方のない事だった。
勝ったのはまぐれ。どうせ去年みたいに一回戦ですぐに負けるだろうと、学校もバスのチャーターは初日にしかしてくれなかったのだ。
顧問の先生が気を遣って、せめて選手の彼だけでもタクシーに乗せようとしてくれたのだが、彼はいつものように皆で一緒に歩きたいと言って、今こうして全員で駅からスタジアムまでの道を歩いている。
夏休みを通して見慣れたこの風景も今日で見納めかと思うと、少女は少し寂しい気分に……とはいかず、膨らませた頬を彼に突かれながらぷんすかと歩く。
けれど少女はそれでもいいと思っていた。こうして自分をいじることで彼や皆の気持ちがほぐれる事を彼女は理解していたからだ。
彼も部員達も決して超人ではない。地区大会でも、県大会でも、全国大会でも、こうやって一丸となることでようやく乗り越えてきた普通の人間だ。
だからこそ素直に振る舞っているうちに、少女もいつの間にか自分の緊張を忘れていた。
スタジアムが見えてくる――。
通りの信号は赤。戦場を見よといわんばかりに足を止めさせられる。
巨大な円状の建物はどっしりとその門戸を構えている。
けれども少女は決して怖いとは思わなかった。彼ならきっと勝つ。戦いの舞台を前にしてもその気持ちは揺るがない。
少女は再び隣の彼を見上げた。すっかり背も伸びて、背中も大きくなった。
小さい頃は一つ年上のくせに泣き虫で、いつも自分が面倒を見ていた。そんな彼も今や部員をまとめて立派に部長を務めている。少女は『嫁』などと呼ばれ、違う意味で彼の世話係になってしまっていた。
それでも少女は彼が眩しくて誇らしい気持ちで一杯だった。だからマネージャーとして全力で彼を支えたい、出来ることはなんでもしたい、そう思うのだ。
スポーツバッグの紐を持つ手に再び力が入る。
泣いても笑ってもこれが最後。中学生日本一を決める戦いであり、彼の中学校生活最後の公式試合である。
信号が青になり、少女達はその一歩を踏み出した。
スタジアムが迫ってくる。戦いのコートが近づいてくる……はずだった。
何が起こったのか理解できなかった――。
突然見えない力に引き戻され、身体があらぬ方向に動いていた。
目の前には彼がいた。それは試合でも見せないような険しい表情。そして彼は身体のバランスを崩して背中から倒れこみそうになっていた。
とっさに手を伸ばす――だが刹那、その姿は掻き消えた。
まるで初めからそこには何も無かったかのように、横断歩道の縞模様が見えるだけである。
遅れてけたたましいブレーキ音が耳を貫く。視界の隅でワゴン車が跳ねながら止まる。
少女の流されていた身体が後ろに立っていた部員に抱き止められた。
彼はどこに行ったのか?
少女は身体を支えられたまま、青ざめる皆の視線の先を見る。
彼は歩道にうつ伏せに倒れていた。頭から血を流し、ピクリとも動かない。そして首が生物としてあり得ない角度で捻じ曲がっている。
そんな彼の姿を見るなり、少女は全身から力が抜けてしまった。
顧問の先生の電話の声や、彼に駆け寄る皆の姿がやけに遅く、遠くに感じられる。
少女はただ、呆然とその場に座り込む事しかできなかった……。
午前七時――萌姫は時間通りにATTビルの裏口へとやってきた。
扉の前で待っていた祈哉は扉を開け、萌姫を迎え入れる。
「昨日はよく寝られましたか?」
すると中で待っていたエリスが丁寧な言葉遣いでお客様に尋ねた。
「大丈夫です。寝不足で足を引っ張って円を助けられなかったら元も子もないですから、気合で寝ました」
「気合は大切ですよね」
「そうなのか? 痛ででっ!」
祈哉はうんうんと頷く泉果に足を踏みつけられる。
本来転移先の到着時間は調整出来るのだからわざわざ早朝である必要はないのだが、なるべく現地との時差が出ないよう時間を合わせるのは時界旅行のルールとなっている。
「それでは有守様、出発しますが準備はよろしいでしょうか?」
「はい。よろしくお願いします」
萌姫は祈哉達に向かって深く頭を下げる。その表情は真剣そのものだった。
四人は職員用のエレベータホールへと向かう。
「それでは手荷物を検査させていただきます」
泉果は萌姫が背負っていたリュックを受け取ると、手荷物検査用のエレベータに萌姫のリュックを入れる。
一方祈哉は魔珠を取り出してエレベータの階層選択画面にかざし、画面を地下専用のものに切り替えた。同時に萌姫の手の甲に契約時に刻まれた紋章が淡く青白い光を帯びて浮かび上がる。
地下には基本魔珠を持ち、尚且つ事前に許可を得ている者しか入る事ができない。
ATTの地下には時界転移装置の他、時空軍の駐屯地や魔術関連の研究施設があるためだ。
未来製の侵入者排除のセキュリティも働いているため、ツアー客には予め手の甲に認証用の魔法陣を付与しているのである。
「萌姫様、こちらへどうぞ」
続いてエリスが萌姫をエレベータへと案内した。扉が閉まり、エレベータが動き出す。
「きゃっ!?」
箱を下から叩きつけられたような突然の衝撃に萌姫が短い悲鳴を上げる。
続いてまるで身体が浮かび上がるかのような感覚に襲われる。
「大丈夫です。エレベータは正常に降下しています。危険はありませんよ」
祈哉が強張る萌姫の手を握ると、強く握り返してきた。心配は要らない、そう伝えるために握ってきた手をもう片方の手で撫でる。
その瞬間、萌姫は顔を赤らめ恥ずかしそうに視線を逸らす。
「どうしたんですか?」
「い、いえ! その……何でもないです」
祈哉は手に汗を掻いていただろうかと心配になるが、萌姫の後ろには目の笑っていない泉果のスマイルがあり、それを引き攣った笑みでなだめるのに意識を奪われる。
そうしているうちに、今度は強い重力に包まれながらエレベータが止まり、ベルの音と共にドアが開かれた。
地下四千メートルにあるこの時界の技術では造るどころか到達する事すら不可能な領域。
そこには大小無数の扉が立ち並ぶドーム状の空間が広がっていた。
扉は鼠が通れるかどうかという小さなものから、巨大ロボットでも悠々と入れてしまえそうな程の大きさのものまでが不規則に並んでいる。
「それではこれを」
祈哉はそのうちの扉の一つから出てきた検査を終えたリュックを萌姫に返す。
それから祈哉達は正面中央の扉を開いて通路を進み、突き当たりの高さ二十メートルはあるかという重厚な鉄扉の前に立った。
「この奥に時界転移装置がございます」
「……」
エリスが視線で先へ踏み入れていいか確認すると、萌姫がそれに頷き返す。
それを確認したエリスは手を扉に添える。すると扉は萌姫の紋章と同じ淡い青白い光を纏った。人の手では到底動かせそうに無いその重厚な扉が、重苦しい音を立てながらゆっくりと開かれていく。
静謐の空間――そこはまるで球場のようなすり鉢状の構造となっていた。
魔法陣の刻まれた無数の装置が客席のシートのように整然と並んでいる。中央のステージには一面巨大な魔法陣が描かれ、中心には舞台装置のような巨大な楕円型の鏡が。さらにその鏡の上には光を纏ったクリスタルが浮かび、それがこの空間の光源となっている。
クリスタルはこの空間全てを照らし出す程の明るさを帯びているにも関わらず、目は全く痛みを訴えてこない。まるで光とは違う別の何かがこの空間に浸透し、満たしているかのような感覚に包まれる。
「これが、時界転移装置……」
ツアーや部隊の任務で何度もここを訪れている祈哉ですら、この広大な装置の存在感には圧倒されそうになる。初見の彼女であればなおさらの事だろう。
「参りましょう」
エリスが呆けている萌姫を促すと先に歩き出し、それに三人も続いた。階段を一歩下りていく度に靴音が空間に響き吸い込まれていく。
鏡の前まで移動すると、エリスが萌姫に向き直る。
「これから私達は現時点2021年5月3日より、2018年8月29日へと時界転移を行います。目的地はコーカス・スタジアム。そこで行われる全国中学テニス選手権の個人決勝戦を観戦するために如月円さんを救出します。間違いは御座いませんでしょうか?」
「……はい」
エリスの言葉に、萌姫は胸に手を置いて自分の意思を確認しながら頷いた。
「では時界転移装置を起動します」
エリスは胸ポケットから金色の鍵を取り出すと、鏡の前にあるガラス製の円テーブルの前に移動する。テーブルの上にはオルゴールのような小さな箱があり、エリスは鍵穴に鍵を差し込んだ。
鍵を回すと箱を開き、現れたコンソールに掌をかざす。足元の魔法陣や装置に魔力が供給されぼんやりと光を放ち始める。
「時界転移先を入力、確認をお願いします」
「入力確認。転移先時間確認、座標確認」
「同じく確認。全員のチェック完了したぜ」
エリスが行き先の時間と座標を入力。祈哉、泉果が内容を確認し、承認する。
「承認確認。魔方陣形成を開始します」
そして最後にエリスが最終承認ボタンを押すと、鏡の上のクリスタルが光を強め、同時に周囲の装置が一斉に動き出して足元の魔方陣が組み換えられていく。
やがて術式が確定して足元の魔法陣がくっきりと描き出されると、魔法陣はその光を強めた。眩しさを感じるほどであるが、やはり目に痛みは感じない。
足下で膨大な魔力が渦巻き、飲み込まれそうな勢いでうねりが迫ってくる。時界を貫く力場が生み出されて周囲の装置の出力が上がっていくと、その奔流に規則性が生まれる。
鏡が魔力に満たされ輝きだす。
「最終安全装置を解除する」
「安全装置、解除確認」
エリスが目配せをすると、祈哉と泉果が手元に画面を出して掌を置く。
「準備が整いました。それではこれより2018年8月29日の世界へと転移します」
最後にエリスがそう言うと、鏡から光が溢れ出して全ての景色がその中へと溶け――
四人は林の中に立っていた――。
湿った生暖かい空気が顔に吸いつき、辺りには蝉の鳴き声が響き渡っている。
視界が完全に光に包まれた瞬間から、四人はそこに立ち尽くしていた。
木々の隙間から覗く光はその強さを窺わせるほどに白い。そしてそれは魔力から発せられる光とは異なり、目に刺すような痛みを与えてきた。
エリスが先程箱に対して使っていた金色の鍵を足元に浮かび上がっていた魔法陣の中心に差込み、横にひねると魔法陣は収束して消える。その後には直径三メートルの草花が、螺旋を描くように薙ぎ倒されていた。世に言うミステリーサークルと呼ばれているものだ。
「これが、時界転移……」
萌姫は先程の感覚を思い出しながら呟いた。
時界転移が始まった瞬間、四人は世界を見失った感覚に襲われた。
奔流の中で自分は一体どこへ向かって流されているのか。五感全ての情報が奪われ、呼吸さえも奪われ、時すらも奪われた。
『自分』というそのあまりにも頼りない小さい砂粒を内に感じながら、何もできずただ流され続ける。それは一瞬だったようでもあり、永遠だったようでもある。
とはいえそう感じたのは光が収まり、自分達がこの街外れの林の中に降り立った瞬間からである。実際に流されている間にはそんな事は全く感じておらず、そもそも思考そのものが機能していなかった。
少し見回すと木々の間から小さな公園が見える。
「暑っ!?」
日なたに入った途端、想像以上の暑さに祈哉は思わず手で日差しを遮った。
「このむせ返るような暑さ、突き刺さる日差し……まさしく夏そのものだな」
後ろの三人も太陽の光を直接浴びると、同じように目を細めて腕で影を作る。
体感温度も一気に上昇し、四人は上着を脱いだ。祈哉と泉果は魔珠の中に、エリスと萌姫はそれぞれ鞄とリュックに上着をしまい込む。
「真夏です、だね……まだ朝方なのにこんな蒸し暑いと汗かいちゃいそう」
「そうだな。異常気象でもない限り、とてもではないがゴールデンウィークの気候とは思えん暑さだ」
言葉を崩した萌姫にエリスもいつもの口調で応じる。それはなるべく自然体でツアーを楽しんでももらいたいというエリスが提案した事だった。
「とりあえず、予定通りコンビニに向かおうぜい」
泉果は黄色の帽子を被ると、公園出口の先にあるコンビニを見やる。
それに祈哉達も頷き返し、四人は早足気味にコンビニへと向かって歩き出すのだった。