第二章 過去改変・3
ATT代理店受付――その奥には年季の入った木材により作られた重厚な扉があり、開くと上り階段がある。
ステップは繊細な装飾が施されていて、いかにも有力者向けといった趣で、その階段を上るとこれまた豪奢な造りの扉に行き着く。
中は広々とした部屋で、正面奥には第一時界にあるとされる『源初の宝珠』のレプリカが彫刻の施された台座に置かれている。
その左右には部屋を取り囲むように、幕末の有名な維新志士が暗殺されたときに折られた刀や、平安時代の都で実際に悪霊退治に使われていたという御札や数珠、中生代の恐竜を狩った際に手に入れた牙や鱗など、時界旅行によって得られた貴重な品々が飾られていた。
ATT六階のVIPルーム――各国の要人や大企業の社長らが利用する特別な部屋である。
そんな部屋の真ん中では、今日も第一時界製の座り心地を極めた革張りソファに座っている者達がいた。ただし今座っているのは各国の要人でも大企業の社長でもなく、都内に住む一女子高生ではあるが。
「以上が我々の提案するツアーの詳細です。何かご不明な点は御座いますか?」
エリスは今回企画したツアーの一通りの説明を終えると、有守萌姫の顔を見ながら質問を促した。
「あ、はい……」
ツアーの詳細画面を見る萌姫は場の雰囲気に飲まれてか、緊張で表情は硬く全身を強張らせている。
旅行目的は三年前の全国テニス選手権決勝戦の観戦――。
如月円を含むテニス部員達をスタジアム近隣のコンビニから尾行、件の交差点にて彼を救出し、幻に終わった鷹獅昇との試合を観戦するというものだ。
「あの、ここに書いてある築輪市内散策っていうのなんですけど……」
萌姫が旅程表の下の方に書かれた一文を指差す。
「時界旅行をより実感していただくための、我々からのサービスです」
当然質問に上がるだろう。エリスの隣に座る泉果がそれに淀みなく答える。
築輪市とは、時界特区――未来時間的平行世界開発特区に指定される前の本来の地名である。もし未来からの人間がやって来なければ、都心から少し離れたベッドタウンとして今も存在し続けていた場所だ。
眞白は何故かこの街の散策をツアーに組み込むよう指示してきたのだった。
「でも本当にいいんですか? 歴史をその……変えるって事ですよね?」
萌姫は恐る恐る尋ねてくる。
「そうですね。当然リスクを伴う行動となります」
それに対してエリスは穏やかに微笑んだまま淀む事無く答える。
「例えば円さんが将来プロテニスプレーヤーとなれば、直接間接を問わず多くの人々が彼を知り、関わり、影響を受ける事になるでしょう。
彼との試合に敗れて大会の出場権を失い、本人や本来その人と関わるはずだった者の人生が狂ってしまうかもしれない。いずれは彼に憧れる子供が新たなプロの選手となるかもしれませんし、そうなればその方が関わる人間全ての人生にも影響が及びます。そういう積み重ねによってその世界ではいい意味でも悪い意味でも少しずつ変化を続けるはずです」
もし円が有名選手にでもなろうものならテレビなどのメディアを通じてそれこそ計り知れない影響が出てくる可能性もある。そして彼の資質であればそれが十分可能である事はすでに調査済みだった。
萌姫は握っていた拳を震わせる。そんな彼女にエリスは言葉を続けた。
「けれどもそれはこの世界でも同じです」
「この世界でも同じ?」
萌姫はエリスの言わんとすることを図りかねて言葉を反芻した。
「もし今ここで我々が萌姫様の希望を叶えるならば、この世界も叶えなかったときとは違う世界になるという事です。
このツアーを経験する事で、萌姫様のテニスに対する考え方が変われば行動も変わってくるでしょう。もしかしたら本来は見出せない新たな選手を見出すかもしれない。
萌姫様の行動の違いが将来この世界にどんな影響を与えていくのかは全くの未知数。けれどそうやって世界が変わるだろうからといって、それを恐れていては現状を何も変えられません。それにあなたによる影響の差分全てに対して責任を負おうとする、それこそ傲慢な考え方だと私は考えます。
運命を切り開く……それ自体は素晴らしい行動なのですから」
それこそが他の時界に干渉してもよいとする根拠であり、同時に干渉してはいけないという根拠にもなりうる。
この第十三時界のように、対象の時界を自分達の仲間として積極的に関わっていくか、はたまたその他の世界のように不干渉を決め込むか。
結局のところ正解は無く『関われば変わる』、その事実のみが存在するだけである。それは時界の隔たりがあろうと無かろうと関係はない。
「時界を超えようと超えまいと可能性を信じて行動する……萌姫様。だからこそ今のあなたの気持ちが最も大切になります」
広々とした室内にしばしの沈黙が流れる。そんな萌姫をエリスと祈哉は静かに見守っていた。
ここで彼女が旅行を躊躇するようであれば、この話は無かった事にする。
昨夜、祈哉とエリスはそう話し合い、今朝朝食で泉果も賛同してくれた。
いくらこのツアーが規定路線だったとしても、それに倣う義務は無い。未来の自分は未来の自分。今の自分とは異なる存在なのだ。自分達の問題は自分達で答えを出す。
添乗員としての矜持と誇りを貫く――これが祈哉達の出した結論だった。
果たして萌姫は数十秒にも及ぶ長い沈黙の時間を置いて、意を決したように口を開いた。
「新しい自分に向かって進もうと踏み出したはずの足が、気づけばいつもあの試合へと向いてしまう。そんな自分が嫌で、だからちゃんとあの出来事と向き合って決着をつけたい。罪としてだけでなく糧とできるように。その気持ちは今も変わっていません」
その瞳の奥を観察するように見つめていたエリスはふっと表情を緩めた。
「かしこまりました。ではその心残りを解決しに行きましょう。私エリスティルがあなたの旅のお供をさせていただきます」
エリスはにこやかにそう答えると、テーブルの端に置かれたプリンタを操作した。
複製防止およびデータ加工が出来ないよう、特殊な紙とインクで印刷された魔力の込められた契約書。それを萌姫の前に滑らせ、タイムトラベルにおけるいくつかの注意事項を説明する。
「以上の内容をご理解いただけましたら、こちらの欄にサインをお願いいたします」
「――はい」
エリスはテーブル脇に挿していた羽ペンを萌姫に手渡す。受け取った萌姫は契約書にフルネームで名前を書き込んだ。
同時に彼女の左手の甲に一瞬ATTの兎のロゴマークが浮かび上がると、すっと消えたのだった。
夕日が沈みかけている河川沿いの国道で、祈哉はバイクを走らせていた。
――まったく、病人かもしれねぇ奴をパシリにするとか、ほんと鬼だなアイツは。
仕事帰り、昨日エリスに言われたとおり医務室で検査を受けてきた祈哉に対し、泉果がスーパーで買い忘れた箱ティッシュを買ってくるようメールを寄越してきたのだ。
検査の結果は特に問題無かったのだが、泉果はそれをまだ知らない。とはいえ家で自分以上に家事をこなす泉果には頭が上がらず、そもそも自分が予め生活必需品を買っておかなかったのが原因なので、動ける限りは言われるがまま行動する以外に選択肢は無いのだった。
「んっ?」
むしろ感謝した方がいいのか。そんな事まで考え始めた祈哉は、家の前の様子を見て、少しは離れたところでバイクを止め魔珠を外す。そして手で押しながら注意深く近づいた。
「…………」
しかし祈哉は傍まで来たとき、その姿に思わず見惚れてしまう。
そこには一人のシスター服を着た女性が家の前で膝を突き、手を組んで一心に祈りを捧げていた。
コイフを目深に被っているので目元はよく見えないが、まだ幼さの残る顔には柔らかそうな頬と薄桃色の唇、ゆったりとしたシスター服の上からでも分かるほどの膨らみある胸。清純という言葉を纏ったかのような彼女は、それでいて包容力があり自然と安らぎを与えてくれる雰囲気を纏う。このような感覚を慈愛と呼ぶのだろうかと祈哉は思った。
小動物のような可愛らしさの中にも官能的な色気を帯びている。もしこのまま大人になったなら、きっと聖母と呼ぶにふさわしい女性となることだろう。
そんな事を考えているとシスターは祈りを終えたのか、ゆっくりと顔を上げると祈哉に向き直った。
目の前のシスターは鳥がさえずるような綺麗な声で祈哉に尋ねる。
「もしかして亘道祈哉様でしょうか?」
「ああ、そうだ……」
祈哉は自分の声が若干上ずっているのに気がつく。
触れた途端に汚してしまうのではないか。彼女を見ていると、自分の手が汚れているという事実を再認識させられ、それを無意識に悟られまいとしているのを実感する。それ程に目の前の彼女は無垢で眩しすぎるのだ。
「ここで何をしてるんだ?」
それでも祈哉は魔珠を手の内で握ったまま一定の警戒を保ち、かつそれを表情に出さないよう気をつけながら目の前のシスターの少女に尋ねる。
「ちょうど十年前、こちらでご家族全員が失踪されたと窺い、祈りを捧げに参りました」
「ああ、それでわざわざ……その、ありがとうございます」
祈哉は頭を掻くと、聖職者に対する礼を言いつつも内心で驚く。
――まさか慰問客がやってくるなんてな。
ちょうど十年前の今日、祈哉の家を襲撃したオラ・フォルテの騎士達。だがその様子は彼らが張った結界によって隠され、さらに火災で全焼した家は未来技術によって眞白が一晩のうちに建て直したため、近所の住人ですら彼らの襲撃の事実を知らない。公式には祈哉以外の家族が謎の失踪をしたという事になっている。
「私は第一時界から来た魔術教会の者です。修行のため時界絡みの事件で被害に遭われた方のところへと赴き、祈りを捧げる行脚の旅をしています」
第一時界には源初の宝珠の巫女を輩出すべく、日々修行を行わせるための教会組織がある。その修行の中に、自分と同じ悲しみに触れ相手の心を癒すよう努め、自らの悲しみや苦しみと向き合うためのものがあるという。
最近ではメディアで源初の宝珠や魔術教会についても取り上げられる機会が多く、これらは一般的な知識として広まりつつある。
今の第十一時界の様子を見るに、あと三十年もすれば両方の世界を自由に行き来できるようになるだろう。
「慰問の行脚……ってことは、もしかして」
「はい、先日兄を亡くしました」
「悪ぃ、ぶしつけに踏み込んじまったな」
「いえ、こうしてこちらから先に踏み込んでいるのですからお互い様です」
「まぁ確かにそうか」
微かに陰りを落としている穏やかな笑み。祈哉は思わず抱きしめたいような衝動に駆られる。もちろん実際にそんな真似はしたりしないが。
祈哉は彼女の心から悼むような様子を見て思う。
心に傷を負っている遺族の下へ赴くのは相当に気を遣う。ましてや目的が修行であると既に知られているのだ。一歩間違えば遺族の感情を逆撫でし、余計な混乱が起こってもおかしくない。それ程までに巫女となる人物には清廉潔白を求められるという事か。
「ところで、一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「俺に答えられる事なら」
シスターの少女は澄んだ瞳を祈哉を見つめながら質問する。
「十年という時を経て、ご家族を失ったことについて、今あなたがどのように思っているかです」
「どう思っているか、か……」
彼女に見つめられていると、まるで鏡に自分の心を映しているかのような心地になる。
祈哉は十を数える時間シスターの少女の目を見つめ返してから、自分の気持ちを答える。
「別にどうとも思ってねぇかな」
「…………えっ?」
シスターは答えの意味がよく分からないといった様子で声を漏らした。
「特にどうとも思ってねぇって言ったんだ」
「どうとも思ってない……それはどういう意味でしょう?」
それが家族を失った者の言葉なのか。シスターの少女は瞳を揺らし、戸惑いの表情を隠せずにいる。
そんな彼女に対して祈哉は続けた。
「確かに俺は両親を失ったさ。その事で色々苦労させられたし、他の家族を見てうらやましいって思ったことだってある。けど幸い俺には親代わりの師匠がいて、幼馴染カッコ孫属性がいて、仕事の同僚や戦友なんかもいたりしてさ。なんだかんだで馬鹿騒ぎしながらここまでやって来たもんだから意外と平気だったんだ」
「そう、なのですか……」
目の前の少女は声を詰まらせる程に、祈哉の答えに驚いているようだった。
「とは言っても俺がたまたま特異な環境に置かれて変わり者になっちまっただけの話だから、こんな人間もいるんだくらいに思ってくれたらいい。自分でもおかしな事を言ってる自覚はあるしな」
「こんな人間……」
「ああ。死んだ人間は生き返らねぇ。魔法や魔術で医療は格段に進歩しても、その事実だけは覆らなかった。ならもうどうしようもねぇだろ? だったら過ぎた事をくよくよするより、今自分に出来る事をやる、その方がいいに決まってる。だからこれからも笑い続けられるように自分の出来る事を精一杯頑張るだけさ」
祈哉はにかっと笑いながら自信ありげにそう言った。
そんな祈哉に対し、シスターの少女は言葉を咀嚼しているのか、しばらくの間祈哉の目を見つめ続けた後に口を開く。
「ではあなたは全て忘れてしまったのですか? あなたが失くした命を」
「忘れるって……」
「死んでしまった人間なんてどうでもいい。そういうことなんですか?」
「いやいや、そこまでは言ってねぇよ」
シスターの少女の指摘はもっともな事で、祈哉は慌てて否定する。だが目の前のシスターはそんな祈哉の反応など見ていないかのように言葉を続ける。
「ではあなたのご家族の死は取るに足らない出来事なのですね?」
「だからそれはちがっ……!」
目の前の少女はあくまで穏やかに疑問を投げかけてくる。だがそこで祈哉は言葉を詰まらせてしまった。
どうでもいいなんてことは思ってない。それは紛れもない自分の本心だ。
だが、真っ直ぐにそう投げかけられて、自信を持って否定できる自分もいない事に気づかされてしまったからだ。
祈哉の心の奥底で、普段は押さえ込んでいるもやっとした感情が競り上がってくる。
「……わかりました。もうお話は結構です」
祈哉がそんな感覚を内心で必死に押さえ込もうとしていると、シスターの少女は祈哉に背を向けた。
「ちょっと待ってくれ!」
そんな彼女の様子に、祈哉はこのまま返してはいけないという焦りから、慌てて彼女の肩に手を伸ばし掴もうとする。
「あれ、祈哉帰ってたのかい?」
だがそれは窓から現れた泉果の声に阻まれてしまった。
「ちょうど今な。それより……って、あれ?」
窓から視線を戻すと、すく目の前にいたはずのシスターの少女の姿が無い。
「どうしたんだい?」
「今ここにシスターがいてさ、話をしてたんだ」
「……やっぱりエリスの言うとおり、祈哉疲れてるんじゃないかい? 幽霊だって今はまだオフシーズンだぜ」
「いやいや、確かに目の前にいたんだって。おっとりした感じの巨乳のシスターがさ」
「言っておくけどうちにシスター服のコスプレ衣装は無いからな。ていうか巨乳かい。おっぱいビンタかい。もしかしておいらに喧嘩売ってるのかい?」
「い、泉果の場合は胸があっても邪魔になるだけだろ。それにコスプレなら俺は断然ナース派だ。あと魔法少女も好物だからよく覚えとけ!」
泉果は冗談めかしく言っているが、目がまったく笑っていない。
そんな泉果の笑みに凄みが増していくのを感じ、祈哉は早口で捲し立てる。
「ほほぅ、それは参考にしておこう」
「エ、エリス!?」
すると突然隣から顔を出したエリスに、祈哉は思わずたじろぐ。
エリスは微笑んでこそいるが何故だろう。何か見えない壁の向こうにいるように存在がとても遠くに感じる。
「ええと、これはだな。売り言葉に買い言葉みたいなもんで……」
「皆まで言わずとも分かっている。思春期の男ならば皆それくらいの願望は持っていて然るべきだろう。これで少子化問題が解消するというなら良い事ではないか」
「理解が早くて助かるぜ……って、ちょっ! そんな優しい目つきで窓閉めないでくれるか!? おい、俺の話聞けって!」
言葉が終わると同時にピタリと窓が閉められると、二人の姿がさっと窓際から消える。
「俺はノーマルだからな! たまにあると嬉しいって思うくらいだからな!」
それを見た祈哉は叫びながら、慌てて家へと飛び込んだのだった。