第二章 過去改変・2
炎に包まれた二階建ての民家を前に、少年が立ち尽くしていた。
左手には妹と遊んでいる時に使っていたあやとりの紐、右手には装飾の施された短剣が握られている。
「すまぬのぅ。もう少し駆けつけるのが早ければ全員を助けることが出来たのじゃが」
少年が後ろを振り返ると、そこには白兎が立っていた。
燕尾服にトランプ柄の薄色のポンチョを羽織り、首からはその小さな顔よりも大きく見える懐中時計を提げ、手には鳥の装飾がついた短い杖を握っている兎耳をした少女。
まるで童話の世界からそのまま飛び出して来たかのような彼女が、火の粉降る道路の真ん中に佇んでいる。そしてその足元には同じく童話の世界から飛び出してきたかのような、白銀の騎士鎧を着た男が倒れていた。
突然家に押し入り、妹を連れ去ろうとした騎士の男達。
少年の十歳を祝う誕生日会は、得体の知れない存在によって蹂躙された。
止めに入った父親も、自分を庇った母親も容赦なく両刃剣で斬り捨てられ、目の前で絶命してしまった。
誕生日ケーキの蝋燭の火が包装箱に引火し、テーブルからリビング中に炎が燃え広がる。空間の色が橙色に染まると共に、煙の臭いが鼻をつく。
「お兄ちゃああぁぁ――ん!!」
そして割れんばかりに泣き叫ぶ妹は一人の少女に抱えられていた。
黒兎――。
肩の露出する胸元に赤い薔薇をつけた黒のドレスを身に纏う少女。ドレス同様薔薇の刺繍が施された手袋を嵌め、その手には毒々しいワイン色のパラソルが握られている。
「紬!」
妹の声に反応した少年は、今にもその場から歩き去ろうとする黒兎に近寄ろうとする。だがその前に騎士の男が立ち塞がる。その後ろで黒兎は横目で少年を一瞥すると、にやりと笑みを浮かべて再び前を向いて歩き出した。
黒兎が妹と共に黒煙の中へと姿を消すと、一際炎の勢いが強くなる。
その勢いに騎士が気をとられた隙に、少年は男の腰から短剣を引き抜いた。妹を追わなければ。状況は頭に入らずとも、その意識だけは辛うじて少年を動かした。
騎士は不意を突かれたことで一瞬不快に顔を歪めるが、薄笑いを浮かべて篭手を嵌めた手を伸ばしてくる。
自分も妹と同じ運命を辿る……そう覚悟しつつ、それでも震える手で握った短剣を前に突き出そうとして――、
ドサリ。
突然騎士は白目を剥き、糸の切れた操り人形のように少年の脇へと倒れこんだ。
さらに別の場所から同じ音が聞こえてくる。見ると何か白い塊のようなものが弾き出されるように家中を跳ね回っている。
――兎?
兎が家の中を駆け回っている。
火の粉が舞い散る家の中、現実離れをした考えが頭を過ぎる。しかし少年は炎の熱さに我へと返ると、足元にあったあやとりの紐を拾って家の外に飛び出した。
それからしばらく少年はただ焼け落ちる自分の家を眺めていた。
そこにはもう妹も黒兎の姿も無い。
家が全焼しているというのに何故か消防も警察も、いや近所の住人すら誰一人姿を見せなかった。
代わりに周囲には騎士のような男達が倒れている。まるでここだけ世界が切り取られ、別のところに縫い付けられたような異様な空間となっていた。
「悪いがこやつらには色々と事情を聞かねばならん。仇討ちはさせてやれぬぞ」
兎耳の少女は燻る炎の色を反射する短剣に視線を向けて僅かに目を細める。
「いいよそんなの……紬が泣くし」
「ほぅ」
しかし少年はあっさりとそう答えた。まだ目の前で起こっている出来事を理解できていないのか、その表情には怒りや悲しみどころか、焦りや動揺すらも浮かんでいない。
「紬は?」
それでも今全ての思考を放棄して目を瞑ってしまえば、それで何もかもが終わってしまうような気がして、少年は白兎に向かって質問を搾り出した。
「すまぬ、一歩間に合わなかった……」
「……」
目を伏せる白兎の少女。すると数瞬考えを巡らせた少年は言った。
「お前、強いんだろ?」
「それなりにはな」
少女は事も無げに答える。
少年はあらためて倒れている男達を見た。皆気を失ってはいるが、死んでいる者は誰一人としていないようだった。
「だったら俺に、守りたいモノを守れるだけの力をくれよ」
その瞳は真っ直ぐに兎耳の少女を捉える。
目の前にいる存在はこの状況を理解し、さらには解決もした。だったら力を求める相手としてふさわしい人物に違いない。
そんな少年の瞳を見た白兎の少女は、少しの間考える素振りを見せていたが、
「よかろう。小僧が必要と思う分だけの力を用意してやろうではないか。じゃがわらわの修行は生半可なものではないぞ。命の保障はできぬがそれでもよいな?」
兎耳の少女は外見の年齢に見合わない、妖艶な笑みを浮かべる。
こうして少年は、泣くより怒るより、まず先に守る事を選択し、白兎の弟子となったのだった。
――久しぶりに見たな、この夢。
自分の部屋のベッドで目を覚ました祈哉は、暗がりの天井をぼんやりと見つめながらそんな事を考えていた。
昔は随分とこの夢にうなされていたはずなのに、今では『夢を見た』と落ち着いて考えられている自分がいる。
――あれから十年か……俺は、強くなれたのか?
今日であの事件から十年の節目を迎える。だからこそこんな夢を見たのかもしれない。
確かにこれまで自分は戦闘技術を磨き続けてきた。
魔珠の特性を理解し、時空軍内でも数少ない固有スキルの引き出しにも成功した。それこそ時空軍においては先頭を切って戦える程に。
決して楽ではなかったが、毎日に充実を感じていた。
だが分かっている。それらもそこで満足してしまった瞬間に意味を失くすと。慢心を抱いた瞬間、今見た夢は牙を剥き、悪夢として再び自分に襲い掛かってくると。
――俺はまだ、何にも決着をつけられてねぇんだ。
だからこそ止まれない……泣けない。
自分は何一つとしてまだ諦めていないのだから。
机上の写真立てには家族写真。その隣には紬がよく使っていたあやとりの紐がある。
亘道紬――彼女について、この十年生死どころか、その手掛りすら得られていない。
果たして紬はどの世界に連れ去られ、どうなったのか。
あるいは……『何』にされたか。
――くそっ、言ってる傍から余計な事を考え過ぎたな。
腹の底から煮え立つようなイラつきが込み上げてくる。
――大丈夫だ、俺ならやれる。今は力を蓄えろ。
身体を抱え、自分に言い聞かせるように目を堅く瞑る。身体を休めなければ戦えない。休める時はしっかりと休み、戦うべき時に最大限の力を発揮する。
普段の祈哉であれば、どんな困難な任務の前でもしっかりと眠る事ができる。そうできるように訓練してきたからだ。
しかし今日に限ってはなぜか頭が冴えてしまい一向に眠気が訪れない。それはここ二、三年無かった事だ。
仕方なくベッドから起き上がると、水を飲みに部屋を出る。
そこで祈哉は隣のエリスの部屋の隙間から灯りが漏れているのに気がついた。
「エリス、まだ起きてたのか?」
「祈哉か? ……うむ、少し作業に没頭してしまっていたようだな」
ドアをノックすると、中からエリスが返事を寄越した。
「入っていいか?」
「ああ、構わないぞ」
祈哉はドアを開け、部屋に入る。
「へぇ、随分とファンシーになったな」
ベッドにはクッションやぬいぐるみが並べられ、薄いピンク色を基調とした部屋は小さな女の子にありがちな雰囲気に包まれている。
「可愛いものに目が無くてな、気づけばこんな感じになってしまっていた」
そういうエリスもふわっとしたフリル付きの可愛らしいパジャマに身を包んでいた。
「いいんじゃねぇか? 好きなもんは好きなもんでさ。これ昨日二人で買ってたぬいぐるみだろ? それでこそ荷物持ちをした甲斐があったってもんだ」
「そう言って貰えると助かる」
祈哉の正直な感想にエリスは照れくさそうに笑う。
ここ数日、エリスと泉果は仕事帰りによく買い物に出ていて、祈哉も護衛兼荷物持ちとして二人に同行していた。
「ところで、エリスはこんな遅い時間まで何をしてたんだ?」
祈哉は机の上で開いている画面を見てエリスに尋ねる。
いくら責任感が強い彼女でも睡眠時間を削ってまでツアーの準備をするのは逆効果だという事は理解しているはずである。
特に時界旅行の添乗員は精神の不安定を引き起こすリスクのある、強い薬や魔法による睡眠補助が制限されている。そのあたりの教育は徹底されているのだ。
「企画書を書いていた」
「企画書?」
エリスは自分の作業画面を祈哉の目の前まで移動させた。
「新ツアーのプランを思いついたのでな、色々と資料集めをしていたのだ」
「エリスは企画書も作れるのか。凄ぇじゃねぇか」
祈哉は感嘆しながら、画面のページをぱらぱらとめくる。
「白亜紀への旅行プランか。植物にスポットを当てたんだな。……へぇ、この時代の植物ってこんなもんまであるのか。面白そうじゃねぇか」
文書は表や図が使われよくまとめられている。初見の祈哉でもすぐにツアーの内容と、その実現性が理解できるくらいに分かりやすい。
新規旅行プランの提案は確かに添乗員の業務として存在しているが、他の業務と違って必ずしもやらなければならないものではない。
普段の業務が忙しい上、現地環境の調査や予算確保などの煩雑な手続きをこなす必要があり、余程の情熱を持っているか出世コースへの野心でも抱いていなければ作り上げるのは困難だろう。
そして鼻歌交じりにキーボードを操るエリスは前者で行動しているに違いない。
「……あれ?」
そして文書を読み進め、別添資料の写真やイラストのページに差し掛かったとき、不意に祈哉は身体に違和感を覚えてふらついた。
一瞬このタイミングで先程の眠気が訪れたのかと思ったが、どうもおかしい。
――まさか、酔ってるのか?
身体に力が入らず気分が悪い。吐き気すら込み上げてくる。
この感覚には覚えがあった。
子供の頃は父親の運転する車で、新人隊員だった頃に乗った嵐の中の軍艦で、そして初めて使った時界転移装置で。
だがそんなものとは比にならない程に今は気分が悪い。
――やべぇ……これは何かの魔法か?
今度こそ襲撃者か。
そう思い祈哉は越境奏者の能力を発動させる。だが自分に対してなんら魔術のようなものをかけられた形跡はない。
そもそも周囲に不審な魔力や魔術の気配を感じない。
――だったら兵器か!?
だがそれだとすぐ隣のエリスがなんとも無いのが不可思議だ。
魔術も使わず、この第一時界のセキュリティが行き届いた家の中を気づかれずにスキャンし、ピンポイントで対象を狙う。そんな芸当はほぼ不可能だ。
そしてとうとう祈哉はその場にへたり込んでしまった。
「どうした、大丈夫か?」
突然の祈哉の変調にエリスが驚いたように目を見開く。
「いや、少し眩暈がしただけだ。問題ねぇよ」
「何を強がっている、顔が真っ青ではないか。少し休め」
エリスは有無を言わさず祈哉をベッドに寝かしつけると、膝枕をしながらバイタル画面をチェックする。
「とりあえず安静だ。はぁ、どうやら発作などではないようだな。疲労が溜まったか?」
「疲労? 俺がか?」
「現に今倒れたではないか。明日は念のため医者に診て貰え。本業が軍人だからといって、お前が添乗員である事に変わりは無いのだからな。健康管理はしっかりとしてもらうぞ」
「わかった、わかった。必ず行くからそんな怖い顔すんなって」
心底意外そうな顔をする祈哉に対し、エリスは念を押すようにしかめっ面を作る。
「ところでさ、この画面の端にある怪獣の落書きはなんだ?」
そして祈哉は話題を逸らすべく、この症状を引き出したであろう奇怪なイラストを指差しながら尋ねた。
「何をとぼけたことを言っている? トリケラトプスに決まっているだろう」
「…………はっ?」
エリスの発した言葉の意味が理解できず、思わず聞き返してしまった。
それは確か白亜紀に存在する恐竜の名前ではなかったか?
「まさかとは思うけどこれ、企画書の資料画像とか言い出さねぇよな?」
「うん? その通りだが何か問題あるか?」
「ありまくりだろこれ! ……うっぷ、絵を見てたらまた吐き気と眩暈が……」
言われてみれば何かの生物に見えなくもない。だがそれ以前に、その絵を見ているとまるで激しい船酔いに襲われたかのような感覚に陥る。
「失礼な奴め。昔友達が同じように倒れる遊びをしていたのを思い出して傷ついたぞ」
「いやそれ、多分本気……」
心底心外そうな顔をするエリス。祈哉は絵から視線を外して拒絶反応を堪えると、なんとか胃から込み上げる物体を飲み下せた。
「なぁエリス、なんで恐竜だけ写真画像じゃなくてわざわざイラストを描いたんだ?」
「よくぞ聞いてくれた!」
質問の瞬間、エリスは待ってましたとばかりに得意顔になる。
「ふふっ、可愛いだろう。この方が審査側の心象もいいはずだ。何せ私のイラストを見た者達は全員鼻血を出しながら二つ返事で承諾してくれたしな」
「鼻血ってどんだけトリックアートだよ! ってか苦し紛れにもがいてただけだろ!」
一体どんな仕掛けがあるのか、このイラストはとてもではないが、常人の肉体と精神で耐えられるものではない。そこらの呪術より余程強力。しかも魔力も一切使わずにこの破壊力とは、まさに最強の視覚兵器だ。
そんなものを向けられ恐怖が刻み込まれれば、否が応でも稟議を承認し、さっさと逃れる道を選択するのは当然の話だ。
「なんならこのイラストを旅行パンフレットの表紙にするというのも手だな」
「頼むから止めてやめてくれ。フロアを血の海にするつもりか?」
「さっきからなんなのだ。それではまるで私のイラストが絶望的に下手だと言われているみたいではないか」
「言ってんだよ、実際! せめて一緒に写真画像も添えようぜ。万が一にも誤解が生じると後々厄介だろ?」
「うむぅ、お前の態度は釈然としないが確かに一理ある。イラストの隣に資料写真も載せるとしようか」
できればその写真とイラストを比較して、本人の絵のセンスについて気がついて欲しいところだが、この様子だとそれは絶望的に無理な相談だろう。
祈哉はこの絵のせいで上役達が次々と倒れて病院送りとなり、企画がボツになるのだけは勘弁して欲しいと切に願う。
「けどこの企画書、誰から書き方を教わったんだ? ここまでのものを作るのは相当のベテランでも難しいぞ」
「書き方は憧れの人から教わったよ」
「憧れの人?」
エリスは一枚の写真画面を呼び出すと、祈哉の前に差し出した。
「これ、エリスの小さい頃の写真か?」
それは小学生くらいのエリスの写真。隣には第一時界にあるTTCの添乗員の制服を着た女性が写っている。
二十代であろう細身の黒髪の女性。清楚という言葉をそのまま形にした上に、包容力のありそうな雰囲気を帯びている。
「昔、近所に添乗員の女性が住んでいてな。彼女は時々子供達を集めては時界旅行の話をしてくれたんだ。彼女が語る話はどれも心躍るものばかりで、幼い私はすっかりその女性に懐いたものだ。そうやって育ったからなのか、いつからか私も時界旅行の添乗員になるのが夢になり、彼女もその夢を応援してくれた」
エリスは画面を手でなぞり遠い目をする。
「私もあの女性のように添乗員としてお客様を笑顔にしたい。心から旅行を楽しんで欲しい……そう思っている」
「ならエリスが添乗員になったのを、その人も喜んでるだろうな」
「そうだな……きっと喜んでくれているだろう」
「だろうってエリス、もしかして……」
軍で戦い経験を積んでいる祈哉は、そのニュアンスを敏感に感じ取ってしまう。
「ああ、私が添乗員になる二年前にな」
「そうか、悪い」
部屋に重い沈黙が流れる。
そんな中、祈哉は添乗員が背負うリスクについて考える。
時界旅行では、ツアー客が勝手にグループから離れて行動してしまう事がある。
興味本位でより現場に近づこうとする者、よりリアルな写真や動画を撮って利益を得ようとする者、元々私的な理由で目的の年代に移動してきて本来の目的のために行動しようとする者など様々だ。
その大半は事前の受付段階で、身辺調査や脳波・心拍数などの情報から検出し未然に防ぐ事が可能だが、中にはそういう調査や検査を巧妙に潜り抜けてくる者達がいる。
その結果現地で混乱が起き、それに巻き込まれて怪我を負ったり、運が悪いと死ぬ添乗員もいたりするのだ。
「私はあの女性の遺志を継いでいきたいと考えている。あの女性が目指していたお客様全てを笑顔にするようなツアーを催すのが私の目標だ」
そんなエリスの瞳はどこまでも澄み渡っていて、夢を追いかける者の輝きの眩しさに祈哉は思わず目を細める。
「エリスならできるさ。お前が笑ってると元気を貰えるしな。その笑顔はエリスの最高の武器だと思うぜ」
だからこそ祈哉からも自然と笑みが零れる。
「もしかして今私は口説かれているか?」
「そこは素直に喜んどけよ。本当にエリスの仕事ぶりには感心させられてるし、勉強させて貰ってるんだ。ここまで真摯に添乗員の仕事と向き合ってる奴なんて初めて見たぜ」
「そこまで言われるとさすがに照れてしまうな」
祈哉の率直な感想に、エリスはくすぐったそうにはにかむ。
だが祈哉の言ったことはお世辞でも口説きでもなく、紛れも無い本心だ。
彼女の周囲にはいつも笑顔が溢れている。
しかしそれは彼女が美人だったり、はたまた少女としての可愛さを残しているからだけではない。
話術や表情や仕草、ツアーの知識やその伝え方、お客様の機微への対応や事務作業の丁寧さに至るまで……エリスは自らが目指すツアーの実現のために、一つ一つ自分に出来る事を絶え間なく探求し続けた結果として、今のスタイルを確立している。
一体どれだけの時間と労力を積み重ねればここまでの振る舞いが出来るようになるのか祈哉には想像もつかない。エリスはまさにプロの添乗員であった。
「ではお返しに私も聞いてみたいのだが、祈哉は秘密工作を生業とする軍人なのだろう? どうしてわざわざ添乗員としてカモフラージュをしている。こんな世界中が注目する花形の部署でなくとも、ATT内には様々な部署が存在したはずだ」
時界旅行の添乗員は今や宇宙飛行士と並んで世界中の人間が憧れる程の人気の職業だ。当然祈哉も添乗員としてそれなりには名も知れ渡っている。隠れ蓑にするにはあまりにも目立つ職種だ。
「師匠に言われてさ。いろんな人間の人生に触れて色々と学べだとよ。そうやって俺は師匠から戦闘技術の他にも、ガキの頃から添乗員としての教育もみっちり受けてきたんだ。
それにまさか周りの人間もこんな人から注目を浴びる職場の人間がまさか秘密工作員だなんて思ったりはしないだろ?」
「そうだったのか。確かに言われてみれば納得もできるな」
だがエリスは言葉とは裏腹に何かを言いたげに見つめてくる。
「けどな、やるからには手抜きはしないぜ」
そんなエリスの意図を汲んで祈哉は続ける。
「確かに俺はエリスのようにお客様を笑顔に出来る自信は無ぇけどさ。少なくとも自分の過去と真剣に向き合おうとしてるお客様を侮辱するような真似は絶対にしねぇよ」
「そうか。それならば私からは何も言うまい」
エリスは嬉しそうに目を細め、口元を緩ませる。
「ではついでに尋ねるが、どうして軍人になったのだ? 聞くところによれば相当の手練れだそうだな。理事長や司令ともかなり密に通じているようたったが……」
「十年前にオラ・フォルテの連中が家に押し入ってきてさ、親を殺されて妹の紬を連れ去られた。その時俺を助けてくれたのが師匠でさ、そのまま俺は師匠に育てられたんだ」
「私こそ言いにくい話をさせてしまったな」
「気にすんな、時空軍にいる連中なんざそんな奴らばっかりだぜ」
祈哉は本当になんでもないといった様子で手をひらひらさせる。
「紬は行方不明。生きていても死んでいても、たとえ……それを見つけ出して弔ってやろうと思ってる。そしてこれから先、一人でも悲しい想いをさせないために俺は戦うだけさ。当面は黒兎を見つけて落とし前をつけさせてやるのが目標だな」
オラ・フォルテ――。
第二から偶数番号で第十二まで存在する、もう一つの未来の影響を受けた世界群で、積極的な時界干渉により全ての時界の繁栄を目指す事をスローガンに掲げている。
だが実際に彼らが行っているのは、魔法の力に物を言わせた異時界からの搾取と略奪。非人道的な人体実験を繰り返し、周囲を省みない発展を追い求め続けている集団だ。
黒兎はその全ての世界を統括する実質上のトップと言われている。
「だからエリスの事もちゃんと守るからな」
「こんなに顔を青くして言われても、少しも安心出来ないがな」
「何言ってる。俺は元気そのものだぜ。なにせこんな美人の膝を枕に寝てるんだからな」
「ほほぅ、私は美人か?」
「ミスアイリスが何を言う。お前の謙遜はもう嫌味だからな。ほんと気をつけろよ」
エリスのまんざらでもないといった様子に祈哉は苦笑する。
彼女のプロフィールにはミスアイリス学園コンテスト優勝とある。
時界旅行の添乗員は第一時界でも安定の人気職業となっていて応募者も多く、男女問わず容姿端麗の者が多い。その中でもエリスは頭一つ抜きん出ているように祈哉は思っている。
「それに不安はこっちの台詞だ」
そう言って祈哉は宙の一点を指差す。
「……やはり見抜かれていたか」
「俺の実戦で鍛えた洞察力舐めるなよ?」
祈哉に指摘され、エリスは観念したように最小化して隠していた画面を展開する。
祈哉は部屋に入る一瞬、エリスが作業画面を隠すところを見逃していなかった。
エリスの目の前に複数の画面が浮かぶ。いずれも新聞や雑誌の記事で、地元のスポーツ大会から中学の地区大会や県大会など、内容はどれもテニスに関するものだった。
「今回はツアーが組まれる事になったとはいえ、どうにも後味が悪くてな。考えをまとめようと眺めていたらつい時間を忘れてしまっていた」
「まぁ一度は断ろうとしたわけだしな。それも仕方ねぇよ」
検索により表彰式の画像が次々と選び取られる。そのいずれでも、杯を持った円が得意げな顔を浮かべていた。
「彼女の気持ちはやはり本物だったのだろう。それを私は無下にしようとしたのだ」
未来ある才能溢れたテニスプレイヤー、そんな彼の写真のいずれにも萌姫が一緒に映っている。彼女自身が語ったように、二人の笑みからはその二人三脚ぶりがひしひしと伝わってくる。
「私はひどい人間だな」
「いいや、立派だったと思う。それは必要な優しさだ」
自虐的に笑ってみせるエリスに、祈哉はしっかりと首を振ってみせる。
祈哉には理解できる。中途半端な情けが一番残酷で危険な行為であるという事を。
もし十年前、あの場で命を助けられるだけで放置されていたら、自分は理不尽に家族を失った事実に苦しめられ続けていただろう。それに耐え切れずに自ら命を捨てるか、はたまたその原因を作ったであろうATTを憎むかもしれない。
どちらにしろろくな未来は待っていなかった。
そして眞白の助けを借りて事実と正面から向き合えた今の自分も、ここまでの道のりは決して楽ではなかった。
何度も命の危険に晒され、死にたいなどという表現すら生ぬるい訓練と実戦を重ね、文字通り血反吐を吐きながらようやく今の力を手に入れたのだ。
そんな環境を用意し育てる側も、生半可な覚悟では到底務まらなかったはずだ。
「萌姫と同じような想いを抱えて、その目標に向かって必死に募金活動を続けている人達を俺達は知ってる。それを差し置いて手を差し伸べたとしても、そりゃ絶対にお互いのためにならねぇよ。それどころか周囲を悪戯に混乱させるだけだ」
「そうだな。だがやはり気分のいいものではない」
「エリスのそういうところは嫌いじゃねぇよ」
祈哉はバツが悪そうに頭を掻く。
画面の円からは不思議と何かをやり遂げてくれそうな雰囲気を感じていたからだ。
なまじこのツアーが萌姫の人生の転機になると分かっているだけに、裏技的にツアーが組まれたとはいえ、エリス自身は萌姫に対して負い目を感じてしまっている。
だから祈哉はエリスの目を見ながら、しっかりと言って聞かせる。
「エリスは何も間違った事はしちゃいねぇ、それは俺が保障する。だからそんなに自分を追い詰めるな。まぁ辛い思いをしたってなら愚痴ぐらいいくらでも聞いてやるからさ。お前はお前の信じるやり方を貫き通せばいいんだ」
「そうだな……ありがとう。そう言って貰えると本当に心強い」
そんな祈哉の励ましに、エリスは安心したように表情を緩めて礼を言う。
「んじゃそろそろ俺は部屋に戻るわ。膝枕ありがとな」
「むぅ、なんだか素っ気ないな。少しはドキドキしてくれてもよかったのではないか?」
エリスは立ち上がった祈哉に向かって悪戯っぽく笑う。
「ドキドキしてたって。こうやって女の子に膝枕して貰ったのってエリスが初めてなんだからな。ただ話がシリアスになっちまったから顔に出せなかっただけだっつーの」
祈哉はそう言いつつ、先程まで感じていた体温と匂いを思い出してつい頬を染める。
「ほぅ、私が初めてか。それはおいしいところを貰ったな。かく言う私も男に膝枕をしたのは始めての経験だったがな」
そんな反応にエリスは満足げに頬を緩ませた。
「まぁ次はその憧れの添乗員がしてくれたっていう話でもしてくれよ。そうしたら、俺だってなんの気兼ねもなくお前の膝枕を堪能できるからさ」
「話、か……」
「どうした?」
含みのあるエリスの返答に祈哉が尋ねる。
「いや、昔私もあの女性に膝枕で話をしてもらったのを思い出してな……。いいだろう、とびきりのロマンチックなものを選んでやるとしよう」
「そうか。楽しみにしてる」
そんなエリスに祈哉は優しく笑いかけながら部屋を出て行こうとする。だがドアノブに手をかけたところで動きを止め、エリスに振り返った。
「そうだエリス。一つ提案があるんだけどさ」
「なんだ?」
「明日の契約の話だ」
そして祈哉はエリスの前まで戻ると、自分の考えをエリスに伝える。
「なるほど。確かに私はそうすべきなのかもしれないな……だが」
「心配すんな。俺達で話し合って決めた事ならちゃんと師匠も理解してくれる。それに今のままなし崩し的にツアーを始めるとか、そんなのエリスらしくねぇよ」
「祈哉……」
エリスは驚きに目を丸くしていたが、やがて決心したように頷いた。
「そうだな。ならば私もこれ以上は何も言うまい。明日はその方向でいこう」
「ああ、それでこそエリスだ」
そして二人は頷きあい、互いに勝気な笑みを向け合うのだった。