第二章 過去改変・1
『時界特区』のほぼ中心にそびえるATT本社ビルは、一階から五階までがショッピングモールとなっている。
食料品、衣料品、化粧品や家電、中にはアンドロイドや工作機械、家のリフォームの販売に至るまで、政府によって認可された未来製品が取り揃えられている。
各店はいずれも時界特区でしか手に入らない商品を扱っており、平日にもかかわらずどの店も満員御礼の賑わいを見せている。
一階から四階までが吹き抜けの中央広場には『カルト・ゲリエ』と呼ばれる未来の汎用型巨大ロボットの展示が行われていて、子供に限らず多くの人々が記念撮影をしていた。
利用客についても、各国から集まった様々な衣装を着た人々が混ざり合い、英語や中国語、フランス語、スペイン語、アラビア語、ポルトガル語など世界の言葉全てが出揃うのではないかと思われる程、多種多様な言語が飛び交っている。
そしてそれらの言語は、未来技術により開発された自動翻訳機能のアプリを通じて、つつがなく橋渡しされているのだった。
そんなショッピングモールの五階は、フロア全体がATTの旅行代理店となっている。こちらも他の店舗に漏れず、多くの人々で溢れかえっていた。
「それではイリオモテヤマネコふれあいツアーに登録させていただきました。旅行当日までにこのパンフレットの注意書きをよくお読みくださいませ。出発前に簡単な確認テストを行いますので」
エリスは説明を終えた注意書きのパンフレットをクリアファイルに挟みこむ。
「ではこちらにサインをお願いいたします」
そして今日何件目かになる旅行の契約が結ばれた。旅行客が画面に書き込んだサインの下に、自らのサインを書き込む。
すると一瞬、旅行客の手の甲に薄っすらと白兎のロゴが浮かび、青白い光を放った。
旅行客が席を立つのと同時に、受付の後ろにあるデスクに座っていた祈哉の画面に契約データが送られてくる。彼はフォームに従いエリスが仮押さえをした時界転移装置の運用スケジュールを確認、使用予約を決裁する。
――入力確認、各項目誤入力なし。
祈哉はエリスと旅行客とのやりとりを耳元で最小化した通信画面から聞きながらサポートに励んでいる。
会話を聞きつつ資料検索を行い、やり取りに必要な情報を受付に提供する。そして契約が結ばれて旅行の日程が確定した場合は速やかに時界転移装置の使用予約を入れる。
祈哉は一通りの手順を終えると完了ボタンを押し、エリスに登録内容の確認と次のお客様の受け入れ可能サインを送った。
添乗員の仕事は単にツアーに同行するだけではない。
パンフレットのスペースで旅行客に旅行プランの紹介をしたり、こうして窓口に座って受付業務も行う。
時界旅行ではその時界の歴史の節目に立ち会う機会が多く、僅かな勘違いによるトラブルでも、その時界に対して重大な歴史改変を引き起こす事がある。
よって基本的に受付はツアーを担当する添乗員達が行い、トラブルを未然に防ぐシステムをとっているのだ。
祈哉は手元のペットボトルのお茶を飲みながら、確認作業をするエリスを見る。
ここ数日、祈哉はエリスの仕事ぶりに感心させられっぱなしだった。
パンフレットを見に来た客にも積極的に声をかけて相談に乗ったり、添乗員目当てにやってきただけの観光客に対しても嫌な顔一つすることなく、握手や写真撮影に明るく応じているのが印象的だった。
ツアー中も全体を見渡して率先して動きまわり、トラブルの予防や回避だけで無く、旅行客の立場に立った接客を心掛ける姿勢は大いに勉強させられた。
祈哉もそれなりに業務経験を積んでいるという自負はあったが、エリスの働きぶりを見た後だといかに自分が未熟であったかを思い知らされるのであった。
「次のお客様、三番のカウンターへお越しくださいませ」
エリスが画面のボタンを押して次の旅行客へと呼びかける。同時に二人の画面にその旅行客が事前に入力した情報が表示された。
エリスの前には一人の女子高生が座る。
祈哉は制服姿の彼女に思わず視線を留めた。
行き先の時界にもよるが、時界旅行は通常の海外旅行よりも一桁も二桁も旅行料金が高い。学生には手を出し辛いのが実情で、パンフレットを見に代理店にやってくる者はいても、こうして受付で添乗員とやり取りする者はほとんどいないからだ。
「……んっ?」
だが祈哉はいつものお客様と比べてなにやら違和感を覚え、首を傾げた。それは時折旅行客が陥る過度な緊張にも見られたが、どちらかというと思い詰めたといった顔つきだった。
「それではお客様のご希望プランを確認させていただきます」
それでもエリスの進行に祈哉は意識を予約データ画面に戻し、素早くプロフィールを確認する。
有守萌姫――都立丘光学園二年のテニス部のマネージャー。
その下には略歴も記されているが、特筆すべき記載は見当たらない。
「希望プランは個人向けフリーですね。詳細を確認しますので少々お待ち下さいませ」
フリープランは文字通り、旅行客が時界転移先での行動を自由に決められるプランである。
パッケージプランと違い具体的な旅行内容を審査する必要があり、まずは窓口でその内容に不都合がないかどうかを確認する。
「希望転移先は三年前、2018年8月29日。場所はコーカス・スタジアム。そこで行われている第六十八回全国中学テニス選手権の決勝戦の如月円と鷹獅昇の試合の観戦、でよろしいですか?」
「はい」
エリスは彼女が頷くのを確認してから詳細を読み進める。
一方、祈哉はその試合についてのデータを検索し、
――これは……とりあえずエリスの判断に任せるか。
検索結果を見て手を止めるが、すぐに思い直してエリスにデータを転送した。
送られてきた画面を横目で見て同じく一瞬固まったエリスだったが、もう一度詳細情報に目を通すと萌姫に向き直り、丁寧な口調を心がけて話し始めた。
「大変申し上げにくいのですが、記載頂いた二名の試合はこの日行われておりません。放棄試合となっております」
「それは知っています」
しかし萌姫は間を置くことなく即答した。表情に変化は見られず落ち着いたものである。
検索した記録によると、その試合は選手の一人が試合会場に現れず、試合は行われていなかった。そして、
「それと試合に現れなかった如月円選手についてですが……」
「はい。それも承知してます」
やはり彼女は即答した。
エリスは彼女の表情を確認した後、再び画面のデータに視線を戻す。
如月円はその日、交通事故で死亡したと記録されている――。
当時のニュース記事によると、試合に向かう途中、スタジアム前の交差点で信号を無視して進入してきた車にはねられ、首の骨を折り即死したらしい。
原因はスピードの出しすぎと脇見運転。車内では二十歳前後の若者四人が大音量で音楽を流しながら大騒ぎをしていたという。
「つまりそれは……」
そこまで理解して、エリスの頬がわずかに緊張で強張った。
「彼を救出し、試合をさせて欲しいという事でしょうか?」
「……はい、その通りです」
答える萌姫も緊張の面持ちとなる。それでも確かな意思を汲み取れる真剣な眼差しがあった。
「当該世界への干渉は極力最小限にする、『時界憲章』はご存知ですね?」
「はい。存じて、います……」
萌姫は時界憲章を持ち出されて、声を詰まらせ俯いてしまう。時界旅行による積極的な歴史改変がタブーとされているのは、すでに世の中に広く浸透しているルールだ。
「直接的な干渉を伴う旅行となりますと、メドルプランとなります。審査もより厳しくなり、料金もさらに上乗せされてしまいますがよろしいですか?」
メドルプランとはフリープランの中でも積極的に行き先の時界へと干渉するプランである。その世界が不利益を被らない範囲で干渉するものであるが、歴史改変について様々な面で調査が必要であり、料金がさらに割高となるだけでなく、旅行までの準備期間も非常に長いものとなる。
――やっぱりな。
そんな二人のやり取りを見守っていた祈哉は、手元に現れた見積り画面を見て僅かに目を細めた。
億単位の旅行代金。一方萌姫の支払能力を確認すると、案の定『不可』と結果が返ってきた。家族の収入データを人工知能が収集して、結果だけを画面に表示する機能である。
祈哉はこのやりとりが不毛に終わる事を結果と共にエリスに伝える。
目の端でそれを見たエリスは数瞬考える素振りを見せてから、萌姫を見据えた。
「事情をお聞かせ願えますでしょうか?」
「エリ……」
だが祈哉は喉まで込み上げた声を飲み込み、成り行きを見守ることにする。
確かに事情は気になる。場合によっては代替のプランを提案できるかもしれないし、このまま無下に返してそれこそ何かあったら大事である。
そう思わせる程に、萌姫の放つ雰囲気には異様さを感じる。
「円は私の幼馴染で、ずっと二人三脚でテニスをやってきました。私はどんな大会にも同行して一番近くで彼を見守り続けてきたんです。だからそんな円のやっていたテニスを無駄にしたくなくて、今でもテニス部のマネージャーを続けています」
萌姫はたどたどしくはあるが、しっかりとした口調で事情を話し始めた。
検索すると、本人の言うとおり彼女は小学校から現在まで、地元丘光テニス部のマネージャーとして活動を続けている事が確認できる。
「そんな中で、以前知り合ったプレーヤーから海外留学の話をもらったんです。プロテニスプレーヤーのトレーナーになるために向こうのテニススクールで修行を積む。これでようやく新しい自分に向かって頑張っていける。そう思ったんです。でも……」
萌姫そこまで話してから自嘲するように笑った。
「気づいたら昔のノートを開いていたり、試合のビデオばかりを見て、あの果たせなかった試合の準備をしているんです。未来を目指すテニスプレーヤーのために円のテニスを繋げていこうだなんて格好のいいことを言っておきながら、結局はあの日の事ばかり考えて、未練たらしくマネージャーを続けているだけだって気づかされました。
今回の留学もただあのときの試合の代わりになるものを求めているだけかもしれない。今のあたしじゃどこに行っても変わることなんかできない。ちゃんと一人一人の選手と向き合えるようなトレーナーになりたいのに、自分自身の問題も解決できない。今のままじゃ上手くやっていく自信がないんです」
萌姫は涙声になりながら、きゅっと唇を噛みしめる。
「だからちゃんとあの試合を見届けて今までの自分に踏ん切りをつけたいと思っています。円の試合を見れば自分がどうすればいいか答えが見つかりそうな気がするんです。円の試合にはいつもそんな魅力があるから……。
個人的な事情なのはわかっています。無茶を言っているのも重々承知で。それでも、あたしは円の試合が見たいんです!」
その瞳には強い決意がはっきりと表れていた。それは依存しきった者には決して宿すことのできない力強さがある。本気で前に進みたいと思っているのだろう。
「お客様……」
だがそんな萌姫に対して、エリスは淡々とした口調で質問をした。
「失礼ですが、募金は活用していませんね?」
「それは……!」
その言葉に萌姫の瞳は呆気なく揺らぎを見せ、言葉を詰まらせる。
高額な時界旅行への救済策として、募金を募るというやり方がある。
自分の望む旅行の理由について胸の内を語り、ATTが用意したサイトで募金活動をする。または時界旅行の支援を行っている団体に旅行者登録をして旅行の順番を待つ。そして賛同者が多ければ募金が集まり旅行へと行く事ができる。
だが萌姫の場合、検索してみてもそのような活動の痕跡は一切見られない。
それに今から留学までの期間は短く、とてもではないが募金で必要金額を集められる時間やそもそも審査の時間すら圧倒的に足りない。
はっきり言って、『無計画にも程がある』という評価をつけざるを得ない。
「一つ確認させてください」
エリスは真っ直ぐに萌姫の瞳を見つめた。
「仮に三年前の如月円さんをあの交通事故から救うことができたとしましょう。それでも私達の今いる世界に存在した如月円さんは蘇らない、それは理解していますね?」
エリスは棚から説明用のパンフレットを取り出すと、萌姫の前に滑らせた。
今まさにスタジアム前で交通事故が起きようとしている三年前の平行世界、それは時間的にずれているというだけの完全に独立した異世界である。
向こうの世界で何が起ころうと、決して自分達の世界に影響が及ぶ事はない――。
「はい、理解しています」
萌姫はパンフレットの図解を一瞥してから答える。
一応は時界旅行について正しい認識は持っている。それでもやはり彼女を旅行に案内するのは難しいだろう。
エリスがそれをどう切り出すか見守っていると、先に萌姫が口を開いた。
「あの交通事故で円が死んだのは……あたしのせいなんです」
「それは一体どういう意味ですか?」
萌姫の穏やかではない台詞にエリスは先を促す。
「円はあたしを助けるために車道に先回りして、あたしを歩道に押し返しました。もしあたしなんかを庇わなければ、円は車を避けられたはずなんです」
当時を思い出してか、目には涙が溜まっている。
「どうぞ、お使いください」
エリスがハンカチを差し出すと、萌姫はそっと涙を拭う。
「ごめんなさい。やっぱり駄目ですよね? ……わかってます。募金活動もせずにいきなりこんな我侭を言って、ただ添乗員さんを困らせて……本当にごめんなさい」
「いえ、お気になさらず……」
それに対し、エリスはかける言葉を見つけられないようだった。後ろに控えていた祈哉も同じくかける言葉が見つからない。
と、突然二人の画面にメッセージが飛び込んでくる。
――…………嘘だろ?
それを一目見た二人は何度かそこに書いてある内容を読み返し、それから直接互いに目を合わせた。
一体何が起こったのか。もしかしたら自分達は狐か何かに化かされているのではないか。いや、ここでは白い兎か。
『有守萌姫の旅行プランを承認する――BY眞白』
そこにはただ一文、そうメッセージが記載されていたのだった。
「じいちゃん!」
「おう泉果。久しぶりじゃねぇか!」
昼休みのATT理事長室、泉果は入るなり駆け出すと、テーブル席に座っていた強面の老人に飛びついた。
抱きつかれた老人はまるで犬を可愛がるかのような乱暴な手つきで泉果の頭を撫で回す。
「じいちゃん、いつこっちに来てたんだい? いきなりだからおいら驚いちゃったよ」
「来たのはついさっきだ。泉果、しばらく見ない間にまた綺麗になったんじゃねぇか?」
「えへへ。おいらはじいちゃんの孫だからね。美人になるのは当たり前だよ」
「あっはっは! 俺に似たら厳つい強面の女になっちまうだろ。そりゃ婆さん似だな」
老人は顔のしわを深くしながら、愉快そうに笑った。
「それで、計画の方は順調か?」
「もちろん! 祈哉はじいちゃん以上のいい男にしてみせるぜ」
泉果は自信有りげに親指を立てる。
「せいぜい頑張れ。まぁ俺以上なんてのは早々無理だろうけどな」
「抜かせ」
祈哉は苦い顔でそう言いながら、部屋の別の方向へと歩き出す。
「それでこれはどういう事なのか説明してもらおうか」
「なんじゃ、小僧も食うか?」
そんな唐突に問い詰められた眞白は、手に杵を持っていた。足元には臼があり、中からもくもくと白い煙が立ち上っている。
眞白は杵を下ろすと臼の中に手を入れ、搗き立ての餅を千切っては丸めてメイド型のアンドロイドが持っている大皿に次々と並べていく。
茶会の部屋は今、正月でもないのに焼きたての餅の香ばしい匂いに満たされている。
「ああ、一つ貰うぜ。ほらエリスも遠慮なく食えよ」
「なぁ祈哉。おいらには取ってくれないのかい?」
「お前はさっさと自分で取れ」
「ぶーっ、女の子に優しくない!」
祈哉はそのうちの一つを箸で掴むと、醤油につけて頬張る。エリスと泉果もそれぞれ小皿に餅を乗せて食べ始めた。
「有守萌姫の件だ。いきなり承認とか何考えてやがる」
通常のツアーの手続きであれば、外の時界から影響を与えられた人間と、その人間が後に起こすであろう更なる影響を第一時界のスーパーコンピュータでシミュレーションしたり、実際に現地へと調査員を派遣して調査させたりと非常に時間がかかる。
その上で各担当部署の決裁が必要となり、稟議を通すのは非常に骨が折れるのだ。
「いくら師匠がここの最高責任者でも独裁者じゃねぇんだ。何やっても許されるなんて思うなよ?」
「そんな事、小僧に言われずとも理解しておるわい」
眞白はかじりついた餅を箸で伸ばしながら面倒くさそうに言った。
「……んで、今回も『既定事案』なのか?」
すると祈哉はテーブル席の老人を見やった。
「ほぅ、なかなか察しがいいじゃねぇか」
泉果に抱きつかれている老人は、祈哉達と同じように搗き立ての餅に舌鼓をうちながら、不敵な顔で祈哉を見返す。
「あんたがいれば当然思う事だろ。それにこの世界と三年前の時界で同じ事故が起こってるなら、もう『特異点』絡みしか考えられねぇだろ」
「まぁそういうこったな。ったくこのやりとり、七十年前の俺を思い出すぜ。がははっ!」
そう言って老人は大笑いする。
「祈哉、このご老人は一体……」
エリスはそっと祈哉に耳打ちする。
「……七十年後の俺だよ」
「なにっ!?」
エリスは驚きに思わず大声を上げる。
白髪で顔もしわだらけだが、面影は感じ取れる。何よりもその老いて尚輝きを失わない瞳から受ける印象は隣にいる祈哉と全く同じと言っていい程にそっくりであった。
「第十三時界時空軍総司令で――第十一時界の英雄だ」
「第十一世界はこの第十三世界の七十年後にあって、その世界でじいちゃんはいろいろと活躍して今の地位に落ち着いたんだってさ」
「そういえば泉果は先程からこの方を『じいちゃん』と呼んでいるが……」
「そうだよ、エリス。おいらは第十一時界の亘道祈哉の孫なんだぜ!」
「そういうこった。泉果は俺の自慢の孫なんだぜ!」
泉果と老人の祈哉は互いに目を合わせ、親指を立て合う。
「つまり今回の案件は七十年前、第十一時界の2021年にもあったもので、しかもそれが特異点でもあると。そりゃますます放っておく訳にはいかねぇよな」
「その通りじゃ」
祈哉が苦々しい表情で確認すると、眞白はまるで雑談でもするかのような口ぶりであっさりと認めた。
「話が進んでいるところ悪いが、その『特異点』とはなんだ?」
そんな祈哉達の会話を聞いていたエリスが手を挙げて尋ねる。
「そうか、エリスは知らないんだね」
泉果はしまったといった反応をする。
「特異点っていうのはね、時界旅行とかで別時界の人間から干渉を受けても、なぜか歴史の変わらない事象を指してるんだ。おいら達の住んでる時界は未来からかなり影響を受けてるよね? 特に都内に関しちゃもうひっちゃかめっちゃかなくらいに。なのに干渉が無かった時界と同じ事象が同じ時間、場所、人間によって引き起こされる事がある。普通こんな偶然が起こると思うかい?」
「言われてみればそうだな」
泉果の説明にエリスは頷き返す。
三年前の当時はまだあまり未来製品が世の中に出回ってなかったとはいえ、都内に関してはすでに随所で未来技術の影響が見られていた。未来技術絡みの職業や事業も急速に増加していた時期で、人の居住や往来にも大きな影響を与えていたはずである。
それにも関わらず、如月円の交通事故は同じ場所で同じ人間により引き起こされているという。
「そして『特異点』への干渉は時として『世界』全体に大きな影響を与えるのじゃよ」
「『世界』全体?」
眞白の『世界』という言葉に、エリスは思わず聞き返す。
『世界』という単語は、昔は地球上全域を指していた単語であるが、時界旅行が発達した現在では『時間軸上に存在する全ての時界』を意味する言葉となっている。
「通常歴史改変は干渉した時界にしか起こらぬが、時として魔力を通じ、別の時界に影響が及ぶ事があるのじゃ」
「という事は……!」
「残念だけど、三年前の円君を助けても今の円君は蘇ったりしないよ。全く関わりの無い時界で、干渉した案件とは全く無関係の事象が起こるからねぇ。しかも複数箇所同時に」
「そう都合のいい話では無いか」
はっとした表情をしたエリスだったが、泉果に否定に残念そうに肩を落とす。
「じゃが『特異点』への干渉は『世界』全体の運命に影響を及ぼすのは確かじゃ。もし運命を自由にコントロール出来るとしたらどうなるか。良い方向に向かえばいいが、悪用する者共も出てくるじゃろう。よってわらわ達は密かに特異点に接触し、調査を行っているという訳じゃ。くれぐれも口外してくれるな?」
「わかりました。肝に銘じます」
珍しく真面目な顔つきの眞白に、エリスも真剣な表情で頷き返す。
「それで話戻すけど、今回俺達は七十年前に第十一時界でも行った有守萌姫のツアーを提供すればいいんだな?」
「うむ。ちなみに百五十年前にも第九時界で同様にツアーを成功させておるぞ」
「やっぱりか……」
祈哉は呻く。
親の敷いたレールどころの話ではない。まさに自分の敷いたレールの上を走る感覚。
自分の将来を全て知っている人間が目の前にいるというのは、どうにも解せない気分にさせられる。
「んで具体的に俺はどうりゃいいんだ? あんたがいるって事はこれは任務なんだろ?」
裏ルートでの任務であれば、他に情報の漏れる心配の無いこの部屋で指令書を受け取る他無い。そういう意味でも手間を省くために祈哉はこの部屋を訪れていたのだった。
「俺はただ師匠に誘われて餅を食いに来ただけだ。特に任務って訳じゃねぇよ」
「今回はあくまでも添乗員として動いてもらう。メドルプラン宣伝用のツアーとしてな。余計な心配は無用じゃ。ほれ、決裁も事前にとっておるぞ」
書類の表紙の決裁欄には各部署のサインが書き込まれている。その画面を掲げて眞白は得意顔になっている。
「これでもし有守萌姫が受付に現われなかったらどうするつもりだったんだ……」
祈哉は余白にびっしりと手書きの文字と訂正印が押された決裁文書の中身に目を通し、各部署の担当者達の苦悩を思い浮かべながらほやく。
「今回はツアーの一部始終を記録として公開する。ここまでATTではほとんどメドルプランが実現していないからのぅ。歴史改変に対して強い抵抗感を示している勢力がおるせいで、社会的立場が落ちるのを恐れて資産家もなかなか手を出さぬ。じゃが今回このツアーを公にする事でメドルプランに対する理解が広まれば、ツアーの数も増えるというものじゃ。ATTの体制も磐石になるじゃろうて」
「実際そうなったんだろ? 第九時界と第十一時界ではさ」
眞白は頷きで答えると、ずずっと湯呑みの緑茶をすすった。
すると、老人祈哉は短く揃えられた顎鬚をいじりながらエリスを見やった。
「けどなぁ、そっちの嬢ちゃんは七十年前にはいなかった気がするぜ。綺麗な娘がいれば忘れ、痛ででっ!」
「そうだねぇ。エリスは美人だよねぇ」
泉果は笑みを浮かべて同意しながら、老人の足を踏んだ。
「それはそうじゃよ。こやつは第一時界から来たからのぅ」
「な、なるほど、どおりで知らねぇ訳だ。まさか第一時界からやってくる酔狂な添乗員がいるなんてな。彼女にとってここは自分の産まれる五百年前の世界……わかったから泉果、もう足をぐりぐりするのやめろ!」
「まったく、じいちゃんは女の人を見るとすぐ色目使うんだから」
「使ってねぇだろ! 綺麗な人を綺麗と言って何が悪い!」
「あんっ?」
「いえ、すみませんでした!」
泉果が笑みに影を落とすと、老人祈哉は身体を強ばらせる――と。
「……私はここにいても良いのだろうか?」
エリスはこの場にいる事自体を申し訳ないといった様子で尋ねる。
それも仕方の無い事である。元々ツアーの成功は約束されているのだから、そこに飛び込んでも自分はただの不確定要素に過ぎない。
そんなエリスに対し、祈哉は肩に手を置きながら言った。
「ここで話をしてるって事は大丈夫なんだろ。そもそも受付をしたのはエリスなんだ。いつものように添乗員らしくしていればいいんじゃねぇか?」
「案ずることは無いぞ。すでに二度のツアーを通じてマニュアルも作っておる。一人くらい増えたところで何の問題ない。それに護衛任務もあるじゃろう」
「ほほぅ、ではその娘さんが例の……ひっ!?」
「じいちゃん、一体どこぞの娘さんと勘違いしているんだい? このスケベ爺」
泉果がまるで妖怪のような笑みを浮かべると、老人祈哉は蛇に睨まれた蛙のような顔で震え上がった。そしてこれには祈哉も吊られて震え上がってしまう。
自分も将来、老後はこうして泉果に頭が上がらない生活を送るのかと思うと、言い知れないやるせなさが込み上げてくる。
「わ、わりぃ。これはまだ秘密だったのか」
「いえ、大丈夫です」
緊張で強張りつつも謝りを入れる老人祈哉に対し、エリスはなんでもないと言って手を振るが顔色は優れない。
――ってか、泉果はエリスの正体を知ってるのか? いや、そうじゃねぇな。
老人祈哉が口を滑らせるタイミングでしっかりと割り込んだ。だがそれは秘密を隠すためではなく、秘密に触れるのを避けたためだろう。
初めて出会ったその場でエリス本人の口から聞けと眞白にも言われた。それに軽く尋ねただけで震えだしたのを泉果は決して見逃してはいないはずだ。泉果はそういう気配りができる人間であり、添乗員の仕事でもそれが活かされている事を祈哉はよく知っていた。
「そういう訳じゃ。あとは資料を見ながら三人で打ち合わせをする事じゃ」
「わあったよ。準備進めとく。俺建もそろそろ行こうぜ」
そこへすがさず眞白は今回のツアーデータを転送してくる。
それを見て祈哉も話を切り上げ、二人と共に理事長室をあとにするのだった。