第一章 第一時界の添乗員・1
第一章前半です。
コンコン――。
装飾が施された木製のドアが、ノッカーによって小気味良い音を響かせる。
「亘道祈哉です」
「望司泉果です」
続いてドアの前にいた二人が声をかける。
二人はライトブルーの爽やかな色を基調としたブレザーに身を包み、赤いネクタイを締めている。祈哉は白のスラックスを、泉果はスパッツの上に白色のスカートを履いている。そして泉果の腰には黄色と緑色の野球帽が提げられていた。
そのコントラストの強い配色は一見テーマパークのキャストのような派手さを感じさせる一方、礼節も弁えた形状となっている。
「うむ、時間通りじゃな」
すると内線画面から古めかしい言い回しをした少女の声が返ってきた。
「失礼します、理事長」
断りを入れてからドアノブに手をかけ、祈哉と泉果は室内へと足を踏み入れる。
暖かみのある薄桃色の壁やトランプ柄の入ったカーテンと絨毯、金細工の施されたシャンデリアや壁際に並ぶアンティーク家具の数々。
中央の白いクロスの敷かれたテーブルには、細やかなデザインが施されたカップやポッド、バタつきパンの入ったバスケットやジャムの入った小瓶などが並べられ、そこはまさに童話の中の茶会の席そのものであった。
ここは時界旅行会社『ATT』の理事長室である。
「昨日はご苦労じゃったな、二人共。小僧は怪我の調子はどうじゃ?」
茶会の主催者である眞白・ラパンブランは不敵な笑みを浮かべ、祈哉に対して目力のある瞳を向けながら尋ねた。
小動物のようにくりっとしている目とぷっくりとした小さな唇が童顔を強調し、白く柔らかそうな長い髪の上に生える兎耳には掌サイズの小さなシルクハットが添えられている。燕尾スーツの上には薄桃色のポンチョを羽織り、彼女の控えめな胸元には彼女の顔程の大きさはあろうかという懐中時計が提げられている。
背の低さも相まって一見小学生と見間違えてしまう容姿をしているが、瞳には少女と呼ぶのも憚られるような妖艶さが浮かび上がり、それが彼女を少女として規格外であることを足らしめている。
「組織は治療槽で再生させた。とりあえず日常生活を送る分には問題ないぜ」
「うむ、それはなによりじゃ」
部屋に自分達以外誰もいないことを確認した祈哉は口調を崩すと、右肩を軽く回してみせる。昨日城島でリースエルトと戦った時に負った傷は、すっかり傷口が塞がっていた。
「んで今日は何の用だ?」
「まぁかけるがよい」
祈哉達は、眞白に促されるまま空いた席に腰掛ける。
すると彼女の操作で呼び出されたメイドのアンドロイドにより、カップに紅茶が注がれる。ふんわりとした柔らかい香りが鼻腔をくすぐり、口に含むと仄かな甘味が口の中に広がっていく。
「メンバーの増員じゃ。しかも長期のな」
「へぇ、そりゃ『表』か? それとも『裏』か?」
「とりあえずは『両方』と言っておこう。基本『表』で働いてもらう事になるが、すでに彼女はこちらの事情を全て把握しておる。隠しだてはせんでよいぞ」
「両方って……一体何者なんだ、そいつ?」
眞白の返答に、祈哉は怪訝そうに顔をしかめる。
「ただの添乗員じゃよ。第一時界から来たな」
「いやいや、『裏』を知ってる時点でただの添乗員じゃねぇだろ。それに第一時界って言ったら『源初の宝珠』がある時界だぜ。それで何もないとかあり得ねぇし」
「口止めはしておらぬ。聞きたければ本人に聞くがよい」
「なるほどねぇ。それは正体を知りたきゃ信頼を勝ち取れって意味でいいかい?」
「うむ、そう捉えてもらって結構じゃ」
泉果の理解に眞白は含みのある笑みを浮かべて頷いた。
連合国直属時界旅行会社TTCの第十三時界支店ATT添乗員部添乗員課職員――それが亘道祈哉の肩書きである。
普段は時間軸上に並ぶ並行世界、通称『時界』をツアー旅行として行き来する旅行会社の添乗員として、窓口でお客様に旅行プランを提案したり、実際の旅行にガイドとして同行したりしている。
だがそれは祈哉にとっては本来の仕事を隠すための表向きの顔に過ぎない。
第十三世界時空軍司令直属第六特務遊撃隊隊長――。
端的に言うなれば、司令直属の何でも屋で、世間で表沙汰にできないような裏の仕事を生業としている。
「という訳で早速紹介といこうかのぅ……入るがよい」
眞白は内線画面に呼びかける。
すると部屋の奥にあるドアが開かれ、一人の少女が入ってきた。
「お~……これはまた」
その姿を一目見て、泉果は感嘆の声を上げる。
一方祈哉も出迎えのために立ち上がったところで動きを止め、言葉を失っていた。
少女は二人の傍まで歩み寄ると手を差し出す。
「エリスティル・O・アルブスだ。エリスと呼んでくれ。これから添乗員として一緒に働かせてもらう事になった。よろしく頼む」
初対面の印象で『美しい』という言葉を想起させられたのは初めての経験だった。
腰丈まである白銀の髪にすらりと伸びた手足、均整のとれた顔には宝石のような青紫色の瞳が浮かび、背筋の伸びた凛とした佇まいは上流階級の雰囲気漂うこの茶会の場に最もふさわしい人物のように感じられる。
「何をぼさっとしているんだい?」
「えっ? ……ああ、亘道祈哉だ。よろしく」
泉果に声をかけられて我に返った祈哉は慌てて握手を返す。握った彼女の細い手はすべすべとしていて柔らかく、温かみがある。
それから泉果も握手を交わし、三人は眞白とテーブルを囲んで座る。
「それで確認するけど、俺の素性は全て織り込み済みってことで大丈夫なんだな?」
「ああ。ここにいる祈哉と泉果が時空軍人である事、そして普段は添乗員として振舞っている事は承知済みだ」
エリスは二人の正体をはっきりと口にする。
祈哉は眞白に視線を送り、菓子を頬張っていた彼女はその視線を受け止めると大仰に頷き返した。
次に祈哉は魔力に意識を集中する。するとエリスの胸元に魔力が集中し、それが体内で循環しているのを見て取れた。
――魔珠も魔術もなしに体内に魔力が?
本来人間には魔力を取り込む器官は無く、魔力を得るには魔珠を使う必要がある。
そして術式を自らの体内に施さない限りは、魔力を溜める事も出来ない。
電気と家電の関係で言えば、コンセントがなければ電気は得られないし、バッテリーが無ければ電気のエネルギーを蓄えられない。
だがエリスはコンセントにあたる魔珠も持っていなければ、バッテリーにあたる魔術の痕跡も一切見当たらないのである。
やはり普通ではない。そもそも普通の添乗員であれば、わざわざ理事長室まで呼び出される事も無いだろう。
「二人にはこの者の護衛をしてもらう。故あって魔珠は持っておらぬが、普段の業務では大いに戦力として活躍してくれるじゃろう」
「結局のところ何者なんだ?」
「…………」
その質問にエリスは黙り込んでしまう。
本人は平静を装おうとしているが、表情は硬く、わずかに身体が震えているのは隠し切れていない。
――なるほど。信頼を勝ち取れ、か。
祈哉はそこに問題の根の深さを垣間見る。
正体が分かればそれを付けねらう敵も想定しやすいのだが、今後の事を考えても今は無理に詮索しない方がいいだろう。
「悪い、無理に聞き出すつもりはねぇんだ。話したくなった時に話してくれたらいいからさ」
「そうして貰えると助かる」
エリスは申し訳なさそうにしながらもほっとした表情を浮かべる。
「すまないな。決して二人に含むところがある訳ではないのだ」
「分かってるって。俺達にとっちゃこういうのは日常茶飯事だしな。だから安心して俺達に守られてろ」
そんなエリスに対して、なんでもないといった感じで、祈哉はにいっと笑ってみせた。
「けどおいらは心配だなぁ」
だがそんな祈哉の気遣いに、思わぬ方向からいきなり水を差される。
「なんだよ泉果。守秘義務を抱えた人間の護衛なんてよくある事だろ。何が文句あんのか?」
祈哉はにやりとする泉果に苦い表情を向ける。
「だってエリっちって可愛いじゃん? 祈哉が手を出したりしないかおいらは心配だ」
「信用無ぇんだな。これでも軍人の端くれ、女子供に手を出す訳ねぇだろうが」
「ふぅん、そうだといいんだけどねぇ」
そう言いつつ、泉果はブレザーの胸ポケットをまさぐると、何かを掴み出して祈哉とエリスの間に放り投げ……。
シュルシュル――!
「――1?」
エリスの周りを細長い紐状の影が駆け巡る。
「こ、これは1?」
気づけば自分の身体が赤い紐で雁字搦めにされていた。
エリスは何が起こったのかも判らず混乱し、立ち上がろうとして足をもつれさせ……、
「おっと」
倒れかけたところを、いつの間にか背後に回りこんでいた泉果に抱きとめられる。
「今の言葉、もういっぺん言ってみ?」
そして泉果は祈哉を見る。表情はにこやかだが目は全くもって笑っていない。
「――すみませんでした!!」
祈哉は反射的に土下座し、床に額を擦りつけた。
全身の動きをきっちりと奪いつつ、身体のラインを強調させる。身じろぎをする度にその柔肉を絞り上げ、身も心もほぐしていく。
その絶妙な拘束は、決して偶然から生まれたものでは無い。
まさに芸術の域に達した『緊縛』そのものであった。
「まぁ本人の名誉のために言っておくと、女子供に手を挙げたりはしないのは本当だよ。ただちょっと手癖が悪いだけなんだよ」
「その言い回しはどうなんだ?」
そう言いつつ、泉果は慣れた手つきでエリスを縛り上げていた紐を解いていく。
「祈哉はね、紐と女の子を見ると思わず縛り上げてしまう特異体質なんだね。まぁ一言で言えば変態だ」
「ちょっ!? 元も子も無い事言わないでくれるか!?」
「何か文句でも?」
「いえ、なんでもないです! 変態ですみませんでした!!」
泉果の笑みに凄みが増すと、祈哉は身震いをして再び床に額を擦りつける。
腕と肘の角度、低姿勢でありながら堂に入ったその佇まい。
それでいて見る者全てが思わず誠意を受け取ってしまう雰囲気を併せ持つ。
これぞ数多の戦場よりも過酷な修羅場をくぐり抜けてきた、歴戦の土下座戦士の姿。
「けど本人は無意識にやってることだから、まぁ笑って許してやってくれないかな?」
「無意識で……」
「普段は意識して注意してるし、こういう不意打ちでなければ手が出る事はないからさ」
祈哉の後頭部を踏みつけながら、相変わらずにこやかに解説する泉果。
だがさすがにエリスは困惑の表情を隠せない。
「うーん、だったら紐を見ると反応する大きな猫だと思ってくれればいいかな?」
「ふむ、猫か…………ぷっ」
するとエリスは頭の中で何を想像したか、吹き出すとようやく頬を緩ませる。
「さすがは第一時界の添乗員だね。トラブルにも寛容な笑顔で切り返す」
「返す言葉も無いです」
後頭部で靴裏の感触を味あわされながら、心底申し訳なさそうに謝罪する祈哉。
「ほんと、いつもフォローが大変なんだから勘弁してほしいね」
街中で見知らぬ女性を縛り上げ、泣かせた事数知れず。
警察沙汰にされそうになった事もあり、その度に泉果の仲裁に助けられていた。
「けど中には隠れファンもいるんだよねぇ。縛り心地が病みつきになるって密かに縄を持ち歩いて、虎視眈々と縛られる瞬間を狙っている子もいるし」
「うっ……」
祈哉の肩がピクンと跳ねる。しかし泉果の口は止まらない。
「この前なんてどこぞの女兵団を制圧したとき、前線基地に戻って車を開けると……」
「わーっ、わーっ! その話はホントやめろ!」
祈哉は泉果の足を跳ね除け、両手をバタつかせながら大声を上げる。
「そ、そうなのだな……確かに今までに感じたことのない感覚だった。まるで全身を甘噛みされているような、それでいて包み込まれるような安心感もあって……」
そう言って自らの身体を抱くエリスは頬が赤くなっている。
「うむ、これさえなければわらわも何の心配も無いのじゃがのぅ」
「誰のせいでこんな体質になったと思ってやがる?」
祈哉はカップに口をつけている元凶の白兎を睨みつける。
「ワイヤー術の特訓で死に目を見て、それから無意識に身体が反応するようになっちまったんだぞ。そろそろなんとかしてくれてもいいんじゃねぇのか?」
しかもその時、やる気を引き出すという名目で、眞白が女性兵士や女の子型のアンドロイドばかりを練習相手に選んでいたため、現在のような状況となってしまったのだ。
「自制すればよかろう。それくらい自分でなんとかせい。その方がおも……こほん、修行になるというものじゃ」
「今面白いって言いかけたよな、この女兎!!」
祈哉は、目を逸らし空気ばかりの口笛を吹きだす眞白に向かって叫ぶ。
「まぁとにかく、紐がなければ無害だし、おいらがその辺りもちゃあんと守るから、大船に乗ったつもりでいたまえよ。それにおいらとエリスは同期みたいだし、遠慮なしっ子で大丈夫だよね?」
開かれた互いのプロフィール画面を見ると、第一時界と第十三時界という違いこそあれど、入社時期も歳も同じだった。
「ああ、よろしく頼む、泉果」
そんな凹凸に乏しい胸を張る泉果に、エリスは笑みを返して頷くのだった。
「ここをこう通してぇ……お兄ちゃん、そっちの指でもお願い」
「そこをこうして欲しいんだろ? ほら、次は紬の番だぞ」
「う、うん。次はここだからぁ……ゆっくり動かすね。今は紬の番なんだから、お兄ちゃんは動かしちゃだめだからね」
「わかってるって。安心して動いていいぞ」
「あっ、お兄ちゃんだめ。動いてる」
「仕方ねぇだろ。紬がそんな動きするんだから、つい反応するんだって」
「もぅ、お兄ちゃんのいじわるぅ」
真剣な表情で目の前の無数の糸と睨めっこする妹は、慎重に手元を動かしていく。
家のリビングであやとりをする兄と妹。お互いの指には赤く細い紐が無数にかけられ、さらにそれらは互いの間を何十本も行き来していた。
大の大人でも苦戦するであろう、ましてや小さな子供が扱うにしてはあまりに長い紐。
それでも二人は集中力を途切れさせる事なく、一つ一つ丁寧に思い描いたイメージに向かって指を動かし続ける。そして、
「出来た!」
ついに二人は小一時間をかけて、それを完成させた。
「まさか本当にできるなんてな」
「紬はわかってたよ。だってお兄ちゃんと一緒なんだもん!」
妹はうっとりとした表情で、二人の間に浮かぶ『作品』と呼ぶにふさわしいそれを見つめている。
それはおとぎ話のお姫様が暮らしていそうな、西洋のお城であった。
「えへへぇ~、えへへぇ~~」
妹はお城でのお姫様や王子様の暮らしぶりを想像しているのか、にへっと笑っている。
それを見ているだけで、兄は今までの苦労が報われてしまうのだった。
「これ、壊すのもったいないな」
そしてその苦労を振り返って長時間腕を上げ続けていた事を思い出した途端、疲れが腕を重くしてしまう。
とはいえ腕を下してしまえばたちまちのうちに、城は崩れてしまうだろう。
「ねぇ、もう少しだけこのままでもいいよね?」
そう言われてしまうと、いくら腕が重くとも我慢するしかない。
むしろそのころっと笑う顔を見ると、ずっとこのままでもいいとすら思えてしまう。
「あ、当たり前だろ。せっかく作ったんだしな。気が澄むまで眺めてろよ。ははっ……」
何よりも妹より先に音を上げてしまうのは、兄としてのプライドが許さないのだった。
だが――、
突然紐が燃えだし切れてしまう。城は炎と共に音もなく溶け落ちてしまった。
それどころか辺りはいつの間にか火の海となっていて、今にも家全体が焼け落ちそうになっている。
さらに足元には二人の大人が血溜りに倒れていて、すでに息絶えていた。
それを自分の両親と認識するには、兄はあまりにも幼すぎる。
「お兄ちゃああぁぁ――ん!」
割れんばかりの声が耳朶を打ち思わず顔を上げると、妹が泣き叫んでいた。
妹は兎耳を生やした、黒いドレスを纏う見知らぬ少女に抱えられている。
兄は慌てて追いかけようとするも、間の炎の勢いが強く近づけない。
そして妹を抱える少女は口の端を歪めて醜悪な笑みを浮かべる。
すると突然、妹の姿が別の少女に変わった。
腰丈まである白銀の髪に白く細い手足、紫色の瞳が印象的な少女。
まるでお人形のような、こんな状況でも美しいと思えてしまう姿をしている。
だがそれも一瞬の事だった。
「ううっ……ひっく……」
いつの間にか黒い兎耳の少女は姿を消し、炎も消えていた。
代わりに油絵で塗り潰したような黒が一面を覆い、その真ん中で銀色の髪の少女はへたり込み、ただただ泣いている。
感情を爆発させるでもなく、けれどもかみ殺すでもなく。
迷子の子供のように、何をすればいいのかも、どこへ向かえばいいのかもわからず、震えながら真っ暗となった空間で泣き続けている。
そんな彼女の周囲に蠢くものがある。
真っ暗となった空間ですらはっきりと分かる、より暗くどす黒い何か。
黒よりも深い漆黒の――『闇』。
『闇』は遠巻きに少女を取り囲み、徐々に少女へと集まっていく。
だが少女はそれに気づく様子はなく、手で顔を覆い嗚咽を交えて涙を流し続けていた。
直感で悟る――あの闇に飲み込ませてはいけない、と。
もしこれに飲み込まれてしまえばたちどころに彼女の姿は見えなくなってしまうだろう。自力では這い出る事も適わないに違いない。
手を伸ばすが全く届かない。
そもそもどれくらい離れているのかも分からない。
すぐ傍にいるような、はたまた果てしなく遠い蜃気楼のようにも見える。
『闇』は今まさに迫りつつある。
その身体に触れようとするばかりに集まっている。
必死に手を伸ばそうとするが、宙を掻くばかりで何も掴めない。
焦りが募る。届く届かない以前にその場から動けずにいる自分。
――どうして俺はここまで無力なんだ……!
心の奥で叫び声が上がる。
両親を、妹を失い、その上今度もまた自らが守るべき少女を失おうとしている。
何もできず、ただただ目の前で形を失っていく存在を見ている事しかできない。
自分はあまりにもちっぽけで、弱い存在……。
――違う! 俺はもう無力なんかじゃねぇ!
だが次の瞬間、胸の奥底から強烈な衝撃が全身を突き抜けた。
そして脳に電気が奔ったかのような感覚と共にはたと気づく――自分が成すべき事を。
今までの自分が何をしてきたかは思い出せない。それでも何度も死に目を見ながらも、この時のために自らを鍛え、戦うために刃を研ぎ澄ませてきた事だけは自覚できる。
魂にまで刻みつけられた記憶が訴えかけてくる。
そう、もう自分は無力に打ちひしがれるだけの存在ではないと。
自分の胸に広がっていく熱が、心と身体に活力を与えてくれる。
たとえ闇に飲み込まれようと、必ず見つけ出して引きずり出す。
それだけのものを自分は持っていると、誰に対してだって言える――!
不意に身体が前に進みだした。
あれだけ遠くに感じていた少女へと、あっという間に近づくことができた。
闇を払いのけながら、伸ばした腕が銀髪の少女へと届く。
そしてついに、その手が感触を得る――。
吸いつくような触り心地と手に馴染む弾力。そして適度な温かさがあり、何よりいい匂いが安心感を与えてくれる。
ここまでの高揚が嘘のように、安心感に包まれていく……。
「俺は……かじゃ、ねぇ……むにゃ」
温かく弾力のある感触に頭を埋める。
この中でいつまでもこうしていたい。この幸せをもっと堪能したい。
熱を帯びた手でその柔肌の隅々までを撫で回し、自らの匂いをつけるかの如く身体を擦りつけたい。
身体が熱を帯び、頭がちりちりと刺激を受け、衝動が高まっていく。
そして気づく。これは一体なんなのだろう、と。
祈哉は上昇した体温と共に、頭を回転させ始め……、
「――エ、エリス!?」
寝ていたソファから全力で飛び退いていた。
リビングのソファ。気づけばエリスが自分の隣で寝ていた。
恐らくは狭いソファで密着していたせいだろう。
白いブラウスが全開となり、汗ばんだ白い肌と下着が露わになっている。
両手に残る双房の感触。それがこの状況を自ら作り出した事を物語っている。
――とにかく着衣だけでも元に戻して……。
とはいえずれた下着に触れるのは憚られ、仕方なく胸元をはだけさせているブラウスのボタンだけでも留めようと手をかける。
「うん……」
と、エリスは寝苦しそうに身じろぎし、うっすらと目を明けた。
「…………」
「…………」
焦点の合わないエリスの目線と祈哉の目線が繋がる。
――やべぇ、どう言い訳しよう。
ここで視線を外してしまうと完全にアウト、いや実際にはすでにアウトなのだが、それこそ取り返しのつかない誤解を招いてしまうような気がして、じっと見つめ返す事しかできない。
エリスに覆いかぶさるような姿勢、しかもボタンに手をかけ、まさに衣服を脱がそうとしているかのような格好をしているのだ。
祈哉は背中に冷たい汗を掻きながら、ようやく口を開いた。
「お、おはよう……エリス」
「おはよう、祈哉」
するとエリスは起き上がり、自らの着衣の状態に気づく。
祈哉は殴られることも覚悟しつつ、次のエリスの反応を待った。
「すまない。勝手にソファに上がりこんでしまった」
「えっ、あ、ああ……」
しかし予想外に謝られ、祈哉は目を白黒させる。
落ち度は完全にこちら側にあるはずなのに、どうして自分が謝られているのだろう。
そして祈哉は気がついた。
「確かエリスは昨日、俺のベッドで寝てたはずじゃなかったか?」
祈哉はエリスに確認した。
祈哉の家はごく普通の二階建ての一軒家。だが十年前から一人暮らしをしており、二階の彼の部屋以外は完全な空き部屋となっていた。
当然ベッドは祈哉の部屋にしかなく、そこにエリスを寝かせ、自分はリビングのソファで寝ていたのだ。
「そうなのだが、どうも眠れそうに無くて起き出してしまってな。それから水を飲んだら急に眠気が襲ってきて、ついソファに倒れこんでしまったのだ」
「寝付けないなら遠慮なくそう言ってくれ。事前に部屋を用意できなかったのはこっちの落ち度なんだしな。特にエリスは時界旅行の添乗員なんだ。寝不足にさせる訳にはいかねぇし」
ATTの添乗員は主に過去の世界にお客様を案内する。
歴史の節目に立ち会う事も多く、下手を打てば行き先の世界の歴史を改変してしまう恐れがあるため、仕事に際しては万全の体調が求められている。
「そうだな。すまない」
「いや、エリスが謝る事じゃねぇって。こっちこそ気配りが足りなくて悪かった。それよりも具合は大丈夫か?」
「体調は問題ない。最近ではよく眠れた方だしな。ひとまずは礼も出来たようだから、この話はここまでという事にしないか?」
と言いつつ、エリスは胸元のボタンを留めていく。
「あ、ああ、そうだな。この話はここまでにしよう……うん」
祈哉はいつの間にか見やっていた胸元から視線を逸らしつつ頷く。
と、頭を掻きながらも祈哉は言いにくそうにエリスに尋ねた。
「……怖い夢でも見たか?」
「そうか。お前もあの夢を見てしまったのだな」
そう言って、エリスは困った表情を浮かべると、そっと指で涙を拭う。
魔法の中には精神に影響を与える感応系のものがある。
エリスの魔力はその方面の属性を秘めているのかもしれない。
「この夢、よく見るのか?」
「ここのところは毎日な。ソファに潜り込んできたのは、その……決して偶然ではない。実は……怖くなってだな。助けを求めて降りてきてしまったのだ」
「エリス……」
初めての世界で知り合いは一人もおらず、しかもあんな夢を見たならば平常心でいられないかもしれない。
あの『闇』はそれ程の不気味さを帯びていた。
だからこそ本来なら非常識極まりない行動も、あの夢の後だと納得させられてしまう。
「とりあえずシャワーを浴びて汗流しとけ。その間に朝食は用意しておくからさ」
「朝食? ……ああ、もう朝なのだな」
「まだ日の出直後だけどな」
エリスが手元に画面を出して操作するとカーテンが開かれる。それと共に朝日がリビングに差し込んできた。
「ではお言葉に甘えることにしよう」
そう言ってエリスは扉に向かおうとし、立ち止まる。
「優しいな、お前は……何も聞かないのか?」
「俺に嫌がっている女の子から無理やり事情を聞き出す趣味はねぇよ。まぁ対価はきっちりいただいたし、その分は優しくするさ」
祈哉は意地悪な笑みを浮かべると、エリスもそれに対し、
「そうだな。それが男の責任というものか。ではこれからは存分にその責任を果たしてもらう事にしよう」
冗談めかしくくすり笑う。
「おいおい、俺に何をさせようってか?」
「ふふっ、まさか私の胸に顔を埋め揉みしだいた件を、一度の朝食で有耶無耶に出来るとでも思ったか? 時界旅行の添乗員の胸はそんなに安くは無いぞ?」
「うっ……気づいてたのかよ」
祈哉は言葉を詰まらせ、しまったという顔になった。
いくら寝ぼけていたとはいえ、今でも掌にはっきりとあの弾力の感触が残ってしまっている。反応からして最早寝ぼけてましたではすまない。
「お手柔らかに頼むな」
祈哉は観念したと両手を挙げるしかない。
「では、シャワーを浴びながら何をしてもらうかゆっくりと考えることとしよう」
「出来れば俺にとっても美味しいイベントを期待してるぜ」
「まったく、お前という奴は。少しは反省しろ」
エリスは苦笑を浮かべながらリビングを出て行こうとする。しかし再び動きを止めると祈哉に振り返り、視線を泳がせてから口を開いた。
「その……夢の中でお前が闇を掻き分けて現われてくれた時は……本当に嬉しかった」
その表情の穏やかさに祈哉は頬を綻ばせる。
「夢の中とはいえ、あなたの騎士になれたのは光栄であります、お姫様」
そしてエリスに向かって、腹心の騎士のように恭しい礼のポーズをとってみせる。
「ふふっ、では美味しい朝食を期待しているぞ、騎士殿」
そんな祈哉の様子に、エリスは再びくすりと笑うと、今度こそリビングから出て行ったのだった。
次回の掲載は1週間後の同じ時間くらいを予定しています。