もういいよって、言って
その日、彼はとてもとても疲れていた。傍から見ていて今にも死んでしまうのではと心配してしまうほどに疲れ果てていた。
ろくに話をしたこともない人だったけれど、あんまりにも酷い憔悴っぷりに声をかけてしまったのがはじまりだった。
「あの、よろしければこちらで少しお休みになりませんか」
放課後の図書館で思わず声をかければ、返ってきたのは不審と疑惑とさげすみに満ちた青い瞳。その強い嫌悪に逃げ出しそうな足を叱咤する。
「この先は関係者以外入れません。私も仕事で少し館内を見回りしていますし、少なくとも閉館時間までは誰にも邪魔されずに済むと思います」
本当にくたびれ果てたという顔だった。だから、少しでも休めれば。そう思った私に他意はない。
「大丈夫です、今日は私が当番なので誰も入れません。ご心配でしたら鍵もお預けいたします、閉館の時に反していただければ大丈夫ですので」
「……君は」
「は、はい」
思わず力説してしまった私をしばらく眺めたあと、彼はひとつ息を吐く。
「僕は、君を知らない」
「そうでしょうね。私もよく知りません」
「……そうなの?」
「人気のある男性で女性によく追いかけられている他クラスの銀髪さんだとしか知りません」
素直にそう言ったらあっけにとられたような顔をして、それから小さく笑った。
「そう。じゃあ、なんで助けてくれるの?」
「鏡見ます? 凄いお顔なんですよ、夢に出てきそう」
持っていた手鏡を差し出せばそこを覗き込んで、今度は声を上げて笑う。
「本当だ、酷いね。じゃあ、甘えてもいい?」
そういった彼が最初よりずっとずっと柔らかく表情を動かすのを見て、ホッとしたのをよく覚えている。
それが私、ニナ・ヘルミードと彼、クラウス・ボルレウスの出会いだった。
あれから二年、彼はずっと私の隣にいる。
「ニナ」
「クラウス……」
教室の戸口で私の名を呼ぶクラウスに、周りの女性陣が黄色い悲鳴を投げかける。毎日のような光景に笑いも浮かばなくなったのはいつからだっただろう。
手早く荷物をまとめて歩み寄れば、クラウスは柔らかく微笑みを浮かべる。
「今日も図書館?」
「いいえ、今日は特に予定もないわ」
「じゃ、僕とデートしよう」
さりげなく繋がれた手が大きいことや掌が私よりも分厚くてしっかりしていること、触れてくる時になるべく力加減をしていることを知っている。
でも、同時にこれが偽りなのだということも、私はよく知っていた。
『学校を卒業するまででいい、僕の恋人役をしてくれないか』
毎日繰り返される女性たちの特攻にくたびれ果てた彼がそう言った。このままでは学業にも支障が出る。そのかわり、私が女性たちの嫉妬にあってひどい目にあった場合、責任を持って対処するし就職先なども斡旋するから。
彼は疲れていたのだろう。今でもそう思う。そうでなければ、偽物の恋人なんて欲しがる必要もない。
偽物、そう自分で考えて、ちくりと痛む胸に苦笑する。
はじめからわかっていたことなのに、偽物であることが苦しい。そう思うほどにいつの間にか彼に惹かれてしまっていた。
「どうした?」
私が少しでも不安そうな顔をすると、彼が心配そうな顔になる。本気で案じてくれているのはわかるから、余計に胸が痛くなる。
「ちょっとね、考えてただけ」
嘘を言えば追いつめられる。だから、嘘は言わない。
それでも本当のことは言えないから、ただ私は小さく微笑んですべてを拒絶する。
そんな私に何かを言いかけて、それでも彼は口をつぐむ。
いびつな関係、だけどそれももうすぐ終わりだ。
「もうすぐ、卒業だね。クラウスは財務省に勤めるんだったっけ」
「ああ。しばらく忙しくなる」
卒業後、私たちは違う道を歩む。クラウスはその成績と試験結果から財務省に就職が決まっていて、私はといえば図書館職員として働けることになっていた。
これまでのように毎日一緒にいることはできない。職場もそれなりに離れている。
だから、もういいだろう。
「財務省に行ったら、もう大丈夫だよね」
「何が?」
「私がいなくなっても」
ぴたりと足を止める彼に合わせて私も足を止める。それでもなるべく明るい声で言葉を紡いでいく。
「だって、この関係は卒業までの約束だもの。もう解放されてもいいでしょう?」
きっと私の言葉は優しいあなたを傷つける。それでも、私だって苦しかったんだから少しでも傷つけばいいなんて思う私もいるんだ。
ほんの少しでいい。ただ、あなたの中に私という存在を残したくてたまらない。
「私はあくまでも役だから。終わりが来るのは、わかっていたでしょう?」
「ニナ……」
力が抜けた彼の手から、私は自分を取り戻す。あなたに向けた心は取り戻せなくても、一人で歩くためには少しでも私を取り戻さないと。
そのぬくもりも、優しさも。私の名を呼ぶ声の甘さも、全部忘れる日が来るのか、それはまだわからないけれど。
「もういいよって、言って。もう大丈夫だって、私がいなくても平気だって」
その言葉をもらえれば、私は歩いて行けるから。
私を見つめる青い瞳が痛みをはらむのを見つめながら、私はただ静かに微笑んでその時を待っていた。
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