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不思議が池の幸子さん・・・・・第五話・・・・・

作者: やましん

「幸子どの、幸子どの、御相談事がございます。」

 と、幸子さんのお腹の中から呼びかける声があった。

「あら、そのお声は、地獄総務部長さまですね。お久しぶりでーす。」

 幸子さんは、お腹の中に答えた。

「いやまったく。この頃人手不足でして。忙しくてね。時に、これから人事課長といっしょにお伺いしたいのですが、よろしいですかな。」

「ああ、どうぞどうぞ。ちょうど、お饅頭も来ましたし、是非食べにいらしてください。」

「それは、ありがたい。では、十分後に参りましょう。」

「了解でーす。」

 幸子さんは、珍しいお客様を出迎える準備を始めた。

 といっても、座布団を二つ並べれば、完了なのではあったが。


 十分後、約束通り、幸子さんの口から、二人の大きな鬼が現れた。

 巨大な、青鬼が、日本出身の総務部長。一回り小さな、ぽっちゃりした、西洋人の(言わばだが)赤鬼の方が人事課長である。

「いやあ、突然すみませんなあ。」

 総務部長が恐縮したように言った。

 実は、この三人の中では、幸子さんが圧倒的に先輩なのである。

 部長は、室町時代の終わり頃から就任しているが、課長は明治維新の五年ほど前から現職に就いた、まだ中堅どころである。

 この地獄は、所謂本場の各種地獄とは違い、女王様がお造りになった、言ってみれば、公的な施設ではない、私立の地獄である。しかし、さすがに、なかなか素晴らしい設備を持っていることで、その筋ではよく知られている。

 勿論、宗教にも、思想にも、人種にも、一切関係のない、中立な地獄である。

 ここに入るためには、幸子さんのような、世界各地の、池の女神さまに食べられるか、あるいは女王様の特別な推薦を受けるか、しなければならない。

 とはいえ、女王様の特別推薦を受けられるような、優れた悪人は、歴史上そう多くはない。

 大部分は、女神様に食べられた人たちである。

「実は、折り入ってお願いがございましてなあ。」

「まあ、部長さんがお願いだなんて、珍しい。でもまずは、お饅頭をどうぞ。」

「いやあ、ありがたい。幸子さんのところでしか、頂けませんからなあ。」

「いや、僕も楽しみにしておりました。」

 と、課長もニコニコしながら言った。

「それはそれは。もう、言っていただければ、いつでもご用意いたしますのに。」

「はは、あまりやっておりますと、女王様にお叱りを受けますので。」

 部長が頭をかきながら言った。

「ところで、お願いの内容ですが・・・。」

「はい、なんでしょう?」

「いやあ、実はですなあ、最近『不思議が池』からほとんど地獄に人材が送られてこないものですから、ちょっと、御様子がいかがなものかと思いまして。」

「はあ、それはまあ、地獄にふさわしい方というのは、そう滅多にいるものでもありませんし・・・。」

「それは、そうでしょうなあ。ただ、まあ、何と言いますか、全体の中で見ても、『不思議が池』の地獄送り成績が振るっておりませんで。一部の幹部から、まあ、何と言いますか、幸子どのに一度地獄でのお仕事に就いてみてもらっては、という意見も出たりしておりまして。まあ、気分転換と言いますか。勿論我々二人は、そのような事は、言っておりませんが・・・・・。」

「お二人以外の一部の幹部、と言いますと、地獄長さんと、副地獄長さんと統括部長さんと営業部長さんと地獄情報局長さんと、あと各施設長さんくらいでしょう?」

「はあ、まあ、そうです。」

「わたしを、この池から降ろして、地獄の仕事に回せって言ってるのね。」

「いやまあ、そういう考えもあるという状態で・・・。」

「ひどーい。地獄のお仕事になったら、年中鬼の格好しなきゃならない。一年中鬼の姿していたら、皺が取れなくなるって聞いてるし。第一、お饅頭が食べられなくなっちゃう。それに、女王様から『幸子さんはこのままでいい」って言われたばっかりなのよお。なんでそんな話が出るのよう。ひどすぎ!」

「いやまあ、つまりですな、はっきり言って、地獄の人事は、世界の『池』を含めて、地獄長の権限になりましたから。一年前までは、『池』に関しては、女王様が直接人事をなさっておりましたし、お造りになった経緯からも、思い入れが強かったですからなあ。しかし、今、女王様は、ご自分の、入っておられるお体の王国や、音楽のお仕事や、なにやら新らしい事業で、猛烈にお忙しいのです。それに幸子さんだけ特別扱いという事にはなりませんから。」

 人事課長が助け船を入れた。

「いや、僕などは、鬼として、ものごころついた時から、もう幸子さんの熱烈な信奉者ですから、幸子さんと言えば『不思議が池』、『不思議が池』と言えば幸子さんなんです。それを変えたくはないのですが、なにしろこのご時世です。ここはひとつ、幸子さんに、ちょっとお力を拝借したいと、思いましてねえ。ね、部長。」

「まあ、そうですな。」

「ふーん。どうも、信用しにくいなあ。このところ、確かに地獄長さんが、独走しているらしく聞いてはいたけれど。ここにまで来るとはねえ。あの人に良い顔できる鬼はいいけれど、そうじゃない鬼は、左遷されたり、悩んで病気になったりしてるらしいって。池の女神様の中にも、いじめられてる方が、いらっしゃるらしいとも、ね。」

「だから、そうならないように、我々も、心配して内緒で来ているのです。」

「そう、内緒で?なの?」

「そうです。」

「ふうーん。」

 幸子さんは半分目をつむりながら、とても怪しげに言った。

「で、どうしろと、おっしゃるの?」

「そこです。」

 人事課長が勢いづいて言った。

「実は、地獄の『悩み事相談所長』が、もう『鬼化』がかなり進んで、相談が出来なくなっているのです。鬼になってしまうと、やはり相談者が萎縮してしまいます。だから、幸子さんも御承知のように、相談所長さんは、生きた普通の人が一番いいのです。」

「あそこは、だって、所長さん一人だけでしょう?あと、パートのおばさんと。」

「ええ、確かに。」

「もともと、すっごいハードルな職場じゃない。」

「ハードな、職場です、確かに。」

 課長が言いなおした。

「しかし、非常に重要なところでもあります。地獄の亡者どもの嘆きを、そのまま聞くところですから。まあ相談といっても、聞くだけでよいのですが、まあ内容が内容ですからなあ。」

 幸子さんは、ちょっと気落ちして言った。

「まあ、ね。そうですわね。で、どうしろと言うの?」

 部長が言った。

「幸子どのの、お客さんの中に、良い人材がないかと思うのですよ。」

「うちの、お客さんの中に、ですか?」

 課長が続けていった。

「そうです。そうなのです。いや、何、幸子さんにどうしと言うのではありません。適当な人材を教えてもらえたら、後は、僕たちがやります。その人間の夢の中に入って、スカウトするのですから。」

「で、あなたがたの功績になるわけ?」

「いえいえ、幸子さんの、ですよ。」

「うっそお。信じられない。」

 部長が言った。

「私が責任を持って言います。幸子どのの、成果になります。」

「本当に?」

「はい。」

「そうなったら、ここを離れなくても良くなる?」

「そうなるよう、全力で努力しましょう。」

「ふうーん。でも、それって、やっていいことかしら。確か、二人以上人を殺したとか、そうやって、本人が志願してきたのじゃない、罪もない人間を、地獄から先に勧誘するのって、違反じゃなかったっけ。」

 幸子さんは、お饅頭を頬張りながら言った。

部長が言った。

「大丈夫です。女王様からのお許しは頂いております。夢の中でお誘いして、その結果自分からここに志願しに来てもらう訳ですから。問題ありません。」

「ふうーん。まあ、それなら、ね。 そうね、候補者と言えば、二人かなあ。一人はもじゃもじゃ頭の眼鏡男。」

「はあ?」

「でも、これは仕事してるしなあ。一度ここで殺されかけたのよ。火星人に。それに、人の話をよく聞くのは、もともと専門職だし。」

「いや、それで良いのです。格別な条件を提示しますから。」

「あら、そうなの。あとは、そうそう、良い人がいる。一年前から失業していて、好きな人の為になんとかして仕事に就きたいのだけれど、高学歴で、本人の希望もプライドもけっこう高くって、上手くゆかないの。で、最近恋人を取られそうになっていて、で、やけになって、恋人にもらった大事なものを捨てに来て、拾ってあげた人。」

「それはいいですなあ。ぜひ、紹介してください。先の『もじゃもじゃ何とか』も。」

「あれは、辞めといた方がいいかも。見た目よりやっかいかも。なんか問題起こしそうな人だし。」

「いえいえ、とりあえず、その二人をいってみましょう。」

 課長は、勝手にそう決めてしまった。

 部長も、黙って肯いた。

 幸子さんは仕方なさそうに言った。

「はあ、まあ・・・・・・。」


 某『もじゃもじゃなんとか』氏は、いつものように一人で布団に入って、寝付けない夜を過ごしていた。若い頃なら、ヒルティの本なんかも枕元にあったが、小さい字が読みにくくなってきたため、そういう元気もなくなってしまった。

 それでも、深夜1時過ぎくらいには何とか眠れたようだった。

 もう明け方に近い時間だったのだろう。

 夢か、現実か、よくわからない中に、例の地獄の課長が現れた。

『お話があります。貴方を、地獄の悩み事相談所の所長として、破格の待遇にて、お招きしたい。お仕事は簡単で、地獄の亡者たちの話しを、聞いてやるだけでよろしいのです。何にも答えたり、アドバイスする事はありません。聞くだけです。あなたの得意とする分野です。是非、プロ中のプロである、貴方のお力を頂きたい。いかがでしょうか?」

 某『もじゃもじゃ』氏は、こう言った。

「いやあ、今のところ、まだ少しだけやることがあって、おたくの女王様との、約束があるのです。その後でないとだめです。」

「え、女王様とのお約束ですか?」

「ええ、そうなんですよ。女王様のお話を書くというお約束が有りまして。きちんとやらないと、拙くありませんか? あなたも。まだ書きかけですし、肝心なところは、これからなんですよ。」

「いや、それは、拙いですなあ。」

「そうでしょう。」

「やむおえません。近いうちに、何れ又という事で。」

「では、さようなら。」


「という事で・・・。」

 人事課長は説明した。

「それは、上手い事言って、断られたのではないかね。」

 部長が苦言を呈した。

「そうかなあ。でも、女王様のことを知っていたし・・・。」

「そりゃあ、『もじゃもじゃ人間』に一杯食わされたのさ。」

「はあ・・・・・。まあ、仕方ないです。もし本当だったら、女王様のお叱りもあり得ますし。今夜もう一人の方に当たってみますから。」

「頼むよ。幸子さんの事は、まあともかくとしてだ。あれは、ある種、止むおえない部分が大きいからなあ。それより、何か目立った成果がないと、我々も危ないからな。今は地獄長のご機嫌を取っとくべき時期だし。」

 課長はやや迷惑そうに言った。

「頼みますよ。貴方なら出世すると思っていたのですから。獄長を目指してもらわないと、僕も将来困りますから。」

「わかってるさ。今の獄長はそう長くないさ。せいぜい百年だろう。あいつでは、結局は『鬼心』がついてゆかないさ。」

「まあ、はい。ではまた、ご報告いたしますから。あの。」

「まだ何か?」

「ホントいいんですか。あんなこと言って?」

「あんなって?」

「ほら、幸子さんに、女王様の了解は取ってあるって。」

「心配ない。わたしが獄長から任されているのだから、了解済みと同じだ。」

「はあ、まあ部長がそう言うなら僕はいいんですが。じゃあ、やってみます。」

「わかった。頼む。」

 課長は、内心では、こう考えていた。

『ぼくもやっぱり、乗り換えた方がいいかなあ。でも、今の獄長は、どう考えても好きじゃないしなあ・・・。あいつは『鬼性』が良くないから。でも、やっぱり、この状況は良くないよなあ。ここは幸子さんにもがんばってもらって、一気にひっくり返すか、うん、それがよかろう・・・・・。』

 と、何か作戦を考えついたらしき、課長なのだった。


 次の晩、地獄人事課長は、もう一人のターゲットの夢の中に現れた。

 そうして、昨晩と同じ話をした。

 すると、この男は意外にも、すぐに断ろうとはしなかった。

「どのくらいの収入になりますか? 支払いは現金ですか、それとも振り込み? それもちゃんとこの世で使えるお金でしょうねえ。『地獄銀行券』なんてだめですよ。それと確認の為、事前の契約金が欲しいです。契約期間は? ちゃんと帰って来られるのですよね。きちんとした証拠も欲しいです。」

「いやいや、勿論です。契約は、2年ごとにしましょう。話し合いで更新するかどうか決めます。支払いは、お望みの方法で。円でもドルでもユーロでも。ただし、地獄ではお金は使えませんし、必要ありません。貴方の生活費はすべて無料です。食費もかかりません。ちゃんと生きている人間が食べられる食事も無料で提供します。寮に入っていただきますが、これも無料です。普通、生きたまま地獄には入れませんが、この場合特例となりますので、ご心配なく。月のお給料は、日本円ですと、三百万円でいかがでしょうか。契約金は五百万円お支払いしましょう。貴方がお金を確認したら、地獄に来ていただきます。仕事は簡単、収入は結構良いですし、しかも週休3日にしましょう。勤務時間は、午後七時から深夜1時までですが、相談は一人30分で、その後30分は事務時間兼休憩時間とします。ですから、実働は3時間だけです。昼間はお休みです。ただし、話の内容は亡者たちの自由としますので、多少刺激の多い話も出るかと思います。

そこは、聞くだけですから、我慢してください。もし体調を崩したら、わが地獄には、世界最高レベルの医者もいますし、医療機器も万全です。有給休暇もあります。」

「詳しい資料が欲しい。」

「いいでしょう。朝までにメールでお送りいたします。アドレスを教えてください。ではご返事は明日の今頃、おうかがいに参ります。」

「そりゃ早すぎるよ。」

「少し急いでおります。」

「なら、契約金を少し上げてもらえませんか?」

「ううーん。いいでしょう、なら契約金は六百万円としましょう。」

「七百万なら考えてみます。」

「ほー。いいでしょう、このさいですから。でも是非良い回答をお願いします。貴方こそ我々が探していた人物と確信いたしております。」

「そうかなあ。なんでそんなに買いかぶるのですか?」

「見れば分かります。ぼくも人事課長ですから。ぼくにまったく違和感なく対応できるのですから、亡者たちとも十分対応可能です。では、また明日。あ、名刺置いておきます。」

 夢は終わった。

「いや、これはまた、妙に現実的な夢だったなあ。」

 男は寝床の中で背伸びをした。

 そうして、枕元に名刺がある事に気がついた。

『地獄コーポレーション  人事課長  ドナルド・タロウ』

          連絡先;jigoku(β)0011## 内線 onioni   

 裏側には、『関連会社等』とあって、六つほどの社名が連ねられていた。

 ・地獄保養施設『ラクラクじごく園』

 ・特別老人養護地獄園『鬼喜楽クラブ』

 ・児童保育施設『おにっこ』

 ・地獄通信本社

 ・地獄労働組合本部

 ・地獄アトラクション開発


「ここまで来ると、なんだかよけいに怪しいなあ。しかし、寝る前には確かにこんなものは、置いてなかったしなあ。」

 男は唸った。

スマホを見ると、メールが二件来ていた。

 一件目は友人から。

『あの子、結婚決まったそうだ。相手の勤務先に一緒に行くらいしぞ。南の楽園、タルレジャ王国だと。当分会えないぞ。何とかするなら、今しかない。あんなきざ野郎に取られていいのか。拉致するなら協力するぞ。命かけるなら、そのつもりで行くぞ。』

 二件目

 発信人は『地獄コーポレーション ドナルド・タロウ』氏

『山下殿  ご依頼の件、資料送付いたします。是非ご検討よろしくお願いします。なお、総務部長より、契約金を八百万円とする案が提示されました。また、地獄振興協会長が、祝い金を二百万円出すと申し出てきております。都合あなたの就職時の受取額は一千万円となります。』

 これに、地獄紹介パンフのPDFやら、契約の基本条項やら、地獄観光案内やら、けっこういっぱい付いてきていた。地獄の女王様とかいう謎の人物からの、就職勧奨案内文も入っていた。

「何か、悩む余地があるのか? のりちゃんは取られてしまう。拉致? そんなこと出来る訳ないさ。仕事もない。貯金もない。結論は見えている。」

 男はもう一度、ぐぐっと背伸びした。



「幸子どの、幸子どの。今夜2時に、新しい地獄職員さんがタクシーで池に来ます。合図にお饅頭を投げ込みます、その後、生きたまま丸のみしてください。今回は、殺しちゃだめのパターンです。鬼に変えてはいけません。約束だからよろしく。人間のままで、地獄に送ります。」

 お腹から、人事課長の通信が、幸子さんに入った。

「あらま、決まったんだ。どっちかしら。『もじゃ』の方なの? 違う方? どっちですかあ?」

「『もじゃ』ではない方です。」

「やっぱりねえ。『もじゃもじゃ』は扱いにくいから、やめといた方が正解ですよ。わたしの事、よろしくねえ!!。 あら、返事無し。ひどーい。もう。女王様にメールしようかしら。叱られるかなあ。なんかこのところ、ひどくやりにくくなったわ。『女王様への直接通信回線はなくなり、今後はすべて地獄通信を通すことになります。』なんていう通達が獄長から来てた。でもひどく心配だしなあ。うーん、どうしよう。もう女王様からも見放されたのかなあ。お饅頭食べに来てくれないかなあ。一度やってみようかしら。よし ・・・『女王様、女王様。 なんだかものすごく心細くて心配です。幸子はどうなるのですか?教えてください。不思議が池   幸子より』と。それ池、なんちゃって。」

 すると女王様への通信回線から、一通の回答が来た。

『女王様への緊急通信の場合は、決められたコード番号を入力して、地獄長の許可を得てください。』

「なに。これ? そう言えば、この間の通達の『付属文書』とかに、いっぱい訳の分からないことが書いてあったなあ。ぶっ飛ばして読まなかったけれど。あああ、わたし、もう地獄に行こうかしら。でもそうしたら、ばっちり勤務時間決められて、好きにはできないし。やっぱり、ずっとここがいいよなあ。」

 幸子さんは、ついこの前まで、女王様といっしょに、ここでお饅頭を食べていたことを、懐かしく感じるようになっていた。世の中は、何かが大きく変わろうとしているようだったが、幸子さんは、自分だけ取り残されてゆくような感じがして、ひどく憂鬱になってきていた。何とはなく、あの時の女王様のお言葉も、気になっていた。

「あなたは、いままでどおりでいいのよ・・・いつまでも、いつものあなたでいてください。」

「あれって、もしかしたら、女王様の何か、特別なお気持ちだったのかも。つまり、もう世の中は違ってくるんだっていうような、幸子さんとは、もうお別れね、とか。  ううん、よくわからない、    もう!・・・・。」

 結局、幸子さんは、この問題を投げてしまった。

 

 約束の午前二時が近づいてきた。

 一台の自動車が山道を上がってきていた。

 それは、タクシーだった。

 こんなところに、タクシーが来ることなど、ほとんどない事だった。

「本当に、いいんですか?」

 運転手が怪しげに尋ねた。

「大丈夫。ちゃんと他の迎えが来ることになっているから。」

「はあ、じゃあまあ、八千五百円です。」

 男はきちんと現金で支払い、車から降りた。

 タクシーは、がけっぷちの空き地で回転して、降りて行った。


 あたりは、真っ暗になった。

 今日は月もない。空は曇っているらしくて、星も見えなかった。

 さすがに、身震いするような何かが、男に襲いかかってってくるような感じがした。

 ただ、男はここが初めてではなかった。

 前回来た時に、非常に不思議な体験をしたのだ。

 だから、まだ少しは落ち着いていられるのだった。

 しかし、今日は車がない。

 それが有るのか無いのかでは、気分が大違いだった。

 彼は、真っ暗になるのは予想して、懐中電灯を用意していた。

 携帯電話も持ってきているが、さすがに『圏外』表示になっている。


 あの次の晩、彼は地獄の総務部長と人事課長と、夢の中で契約書を交わした。

 するともう次の日には、彼の口座に一千万円が、海外から入金されていた。

 地獄は約束を守ったのだった。


 彼は、持ってきていた手提げかばんの中から、『お気楽饅頭』の箱を、懐中電灯の明かりを頼りに取り出した。

 「よし、時間だ。」

 男はお饅頭の箱を、崖の上から池に投げ入れた。


 すると、あの時と同じように、池の中から赤い光が立ち昇り、池の水が巻きあがった。

 しかし、今回はとても大きかった。

 ついに、巨大化した鬼の姿になった女神様が現れた。

「久しぶりじゃな。男。よく、恐れずに来た。お饅頭は頂いておきます。ありがとう。そなたは、わしのお腹の中から、生きたまま、地獄に堕ちてゆくのじゃ。心配はいらぬぞ。」

 女神様=幸子さんはそう言うと、男をつまんで、口の中に放り込み、噛まずに飲み込んだ。

 男は、幸子さんの不思議なお腹の中で、どこかに向かって堕ちて行った。


 幸子さんは考えた。

『これでよし。あとは、上手くゆく事を祈りましょう。でも、課長さんたち、ちゃんと説明したのかなあ。普通の人間が地獄に居ると、死んだ人より、すっごく『鬼化』が早いって。人によっては一年くらいですっかり鬼になってしまうし、2か月もしたら現世の事、忘れ始めるし。帰りたくもなくなるし。 ま、いいか。』



「おお、到着なさいましたな。」

 なんとなく夢のような気分から目が覚めると、夢の中で会った、地獄の総務部長と課長が出迎えに来ていた。

 彼はむっくりと起き上がった。

 あたりには、何か白い煙のようなものが立ち込めていたが、煙たくもなく、また霧のように冷たくもなかった。

 周りには何の建物もなく、部屋の中でもないようだった。

「ようこそ、地獄に。」

 人事課長が言った。

「ここが、地獄ですか?」

 彼は尋ねた。

「そうです。ここが地獄です。ただし、各種の宗教の公式な地獄ではなく、女王様がこの無限の空間にお造りになった架空の地獄です。しかし、すべてが本物なのです。」

「架空なのに、本物なのですか?」

 地獄人事課長は、明快に答えた。

「その通りです。パンフレットは、お読みくださいましたか?」

「まあ、一応は。」

「あお、それはありがとうございます。あれは僕が作ったものでして、なかなか良い出来だと、自負しております。日本にあるテーマパーク。あれは架空の世界を再現していますが、現実でしょう? 同じようなものなのです。お分かりですか?」

「はあ、なんとなく。」

「それでもう、ほぼ完璧です。ただ違うのは、ここからは、自主的に出てゆくことは、まず不可能だということです。それと、この腕輪、はめてもらいます。これは、貴方が地獄の貴賓であることを示していますから外さないでください。というか、外れないですが。」

 部長が補足した。

「まあ、時間はゆっくりあります。少しずつ理解していただければけっこうでしょう。それより、さすがにお疲れでしょう。三人でちょっとお茶でも飲みませんか?」

 部長が指差すと、その先にぽつんと明かりがともった。

      

        『喫茶 地獄館』


 という看板が現れてきた。

 そると、小さいけれども、バロック調の綺麗な建物が見えてきたのだ。

「まあ、入りましょう。我々も、よく昼休み時間に昼食に来るんですよ。いろいろ定食もあります。コーヒーもなかなかうまい。まあ、世界一とは言いませんけれど。」

 人間一人と、鬼二人は、ドアを開けて中に入った。

 ちりん、ちりんと鈴の音が聞こえた。

 とてもいい感じの、若い女性の鬼が出迎えて言った。

「まあ、いらっしゃい。あっらあ、生きた人間じゃありませんか。久しぶりですねー。部長さんのお客様ですかあ?」

「ああ、今日から相談所の所長さんになる方だ。よろしくね。」

「なるほど。あそこ、最近ずっと閉まってましたからねえ。わたしも、話を聞いてもらおうかしら。」

「まあ、職員も使える日は作るつもりだが、予約制になるよ。」

「もちろん、いくらでも待ちますわ。百年でも、二百年でも。」

「いやいや、まあそこまではならんだろうがね。ははは・・・・。」

 部長は少し心配そうな視線を男に投げてきた。

「そんなに長くはいらっしゃらないだろうから。」

「まあ、もったいない。ここにいれば何百年だって何千年だって生きていられるのに。人間はなぜだか現世に帰りたがるわ。」

「それは、現世には良いことも多いかだらよ。」

 部長が優しく言った。

「そうかなあ。わたし、人間だった期間が短いからなあ。あまり良いことなかったもの。で、何になさいます。」

「そうだなあ、トーストとコーヒーなんかどうですか。」

「はあ、けっこうですが・・・」

「もちろん食べて大丈夫ですよ。ここのはハイブリッド食品だから。」

 部長は面白そうに笑った。

 実際、夕飯から時間が空いていたからか、彼は何となく空腹を感じていたのだった。

 それにしても、ここは今何時なのだろうか。見回したところ時計もない。

「あの、ここって今何時ですか?」

「それは、実によいご質問です。」

 課長が膝を叩いて言った。

「あなたが出発した『不思議が池』は、午前2時でしたね。では、ここは何時なのか?」

 課長は少し間をおいた。

「地獄時間は、今お昼の一二時半なのです。ただし、時計を持っているのは、鬼だけですが。」

「はあ、じゃやっぱりここも地球上なのですね。」

「いいえ、そうではありません。ここは地球とは特別関係のない地獄ですから。」

「さっぱりわかりません。」

「この地獄には、本来いわゆる時間の概念は無いのです。永遠に。」

「そりゃあおかしいでしょう。だって、僕たちはこうして活動しているんだから。時間の流れが無いということならば、エネルギーの動きも無いはずでしょう。」

「まあ、そういう物理的な時間の流れはあるのでしょう。しかし、ここでは時間を考えない。ここにいる人間のほとんどは、死者です。彼らには未来はない。あるのは、過去と、今だけです。将来はありません。もっともここには、少数の生きたままの人間たちがいます。貴方もですが。彼らには、もしかした未来が有るかもしれない。ここでの過ごし方によっては、元の現世に戻れる可能性が有ります。あ、あなたは例外ですからね。で、ここは、あらゆる現在につながる可能性が有ります。決してつながらない可能性もね。貴方はごく稀な例外ですから、契約上、地球時間でお約束の期間が終了すれば、必ず現世に戻れます。これはただひとり、あなただけに、女王様が保証しているものです。こうしたことは、極めて哲学的で神秘的な能力が物理的な事象を動かすために起こります。その仕組みは不明です。今のところ、この宇宙で女王様だけが、そうしたことができる力を持ちます。」

「さっぱり分かりません。」

「そうでしょう。言ってる僕も分からないのですから。」

「それが地獄です。ここでは時間も月も年も意識はされません。しかしながら・・・・。」

 部長が説明に割りこんだ。

「かつては、ここもオフィシャルな地獄と同様、時間の切れ目なく活動していたのです。しかし、女王様は途中からお考えを変えました。地獄の亡者といえども、やはりその基本的な人権は消えないのだ、と。またそのためには、現世と一定の関係性を持たせることも必要だろうと。そのために、現世と同じように、時間を測るようにしたのです。もともとここには昼も夜もありませんでした。しかし、女王様が昼と夜を分けました。明るいうちが昼、真っ暗になったら夜です。季節はありません。現世に合わせて、一日は二四時間としました。亡者や鬼たちも、夜は基本的に休むことにしたのです。ただし、あまりに罪が重い者の中には、二四時間休みなく、責め苦を受ける者もいますけれど。で、貴方が担当する相談時間は、その夜に置かれます。まあ、すぐに慣れますよ。亡者たちは、西暦何年とか言うような概念は、もう持っておりません。意味ないですから。」

「でも、あなたがたは仕事が出来ないでしょう。年月の区切りがなければ。」

「まあ、便宜上現世に合わせておりますが、あくまで合わせているだけで、本当にそうなのではありません。」

「会計とか、困るのではありませんか? 僕への報酬とかは? ちゃんとできるのですか?」

「そのあたりは、大丈夫ですよ。きちんとやります。そのための機械が有りますから。まあ、でも我々には、そう関係ありません。別にお給料をもらう訳でもないですからな。はっきり言ってしまえば、あなたへの報酬が一千万円だろうが、一億ドルだろうが、僕たちには関係のないことです。」

 人事課長が、やや投げやり気味に言った。

「ここでは、お金は関係ないのですか?」

「そう。ここでは意味が有りません。」

「でも、それでは何も作れないでしょうに。サービスの提供もできない。この建物だって。」

「いえいえ、そこが地獄なんですよ。ここでは、ただ女王様のご意思がすべてなのです。彼女が作ろうと考えたら、何でもすぐ出来ます。材料も、職人も重機も、必要ありません。あの方の意志だけがすべてを成り立たせるのです。彼女が思えば、無限の土地を確保できます。海も、水も、ね。だから、女王様のご意志がなくなれば、ここは消え去ります。きれいさっぱりね。文字通り、無に帰すのです。鬼たちは給料をもらいませんから人件費はただ。亡者たちは死んでいますから、食費はかからない。鬼たちの食料は、勝手にできますから、基本的にはコストはかからない。もっとも、ここでは常に大きな商売をしています。実はこの地獄自体が、巨大な発電装置なのです。鬼や亡者たちの小さな動きがエネルギーに変換されます、地獄の海からも。地獄全体では、膨大なエネルギーが作られています。地獄はそれを自動的に集積して、現世に送信します。そのエネルギーは、女王様のお作りになったシステムを通じて、現世で販売もされます。これは極秘ですが、地球以外でもね。もちろん、一部は地獄でも使いますが。この地獄の規模は無限なので、まあ、大儲けですな。そこから、あなたの給料も出る訳です。ただし一定以上の亡者や鬼は確保しなければなりませんけれど。しかし、まあ、そんな事を考えるものは、この地獄では、我々関係者以外、誰もいませんよ。ここは地獄なのですから。まあ、だんだん事情はお分かりになってくるでしょう。さあ、ゆっくりお食べください。」

 課長は、そこで話をやめた。

 トーストは、意外と言っては失礼なくらいおいしかった。

 コーヒーは、確かにまずまずといったところだった。たぶん水のせいなのだろう、と、彼は思った。それにしても、これは誰が作っているのだろうか。ウエイトレスさんは注文を聞いたら中に伝えに行って、そうしてフロアーに帰ってきている。彼女が作っているのではない。

 何とはなく、恐ろしい光景も思い浮かんでくるが、彼はそれを考えるのは途中でやめた。

 部長と課長は、それに気が付いているのだろうか、面白そうに彼をちらちらと見ては微笑んでいた。


「さて、休憩は終わりにして、これからは地獄見学と参りましょう。見学用のバスを用意いたします。」

 三人(人間一人、鬼二人)は店から出た。少し歩いただけなのに、もう店は靄の中に見えなくなった。

 少し立ったままでいると、向こうの方からヘッドライトが向かってくるのが分かった。確かにバスに違いない。

 ほぼ目の前まで来て、その全容がやっとわかって来た。青い車体に白のラインが横に入っている、ボンネットバスだ。よくこんな古風なものが有るものだ。と、車体の下の方を見て彼は仰天した。

 タイヤが、ない。いや、ある。有るのだが、それは人間だった。

 人間の体をぐるっと丸くして、タイヤの様にひと塊りにしてまとめている。しかも、この人間タイヤは明らかに生きているようだった。異様な眼玉がぎらぎら光り、口から喘ぎ声が漏れてくる。何やら言っている者もいるのだが、エンジンの音にかき消されて良く判らない。鬼二人に促されて、乗り込もうとする彼を、沢山の眼たちが睨みつけている。見ないようにしながら見ていると、男も、女もいる。ほとんどの眼は、絶望と怨念と苦痛で溢れているのだが、その奥の方に、とても優しいまなざしが有った。

「なんだろう。」

 その眼は、随分と奥の方にあり、暗くて正体がつかめない。

「だれだろう?」

 彼は、平静を、わざと装おうとしてる自分が、何かとてつもなく哀れなように感じた。

「みな、罪人たちです。しかもかなり悪質なね。殺人以上の罪を犯しています。」

「殺人以上が、あるのですか?」

「もちろんです。」

 課長はあっさりと言った。

「あなただって、そう思うでしょう。殺さずに生殺しにされる恐怖や苦しみが。」

「はあ、ううん・・・・」

 運転手は、この二人よりも、さらに大きな鬼だった。帽子をかぶっているが、角が、派手に頭からはみ出しているのが、どこかユーモラスでさえあった。

「まず、何処に行きますか?」

 運転手が、相当擦れた、ベースの声で尋ねた。

「そうだね、まず楽しいと処がいいかな。あそこに行きましょう。ねえ部長。コンサートホール街」

「そう、いいね。」

 バスは走り出した。地面は相当、がたぴしゃだ。これではタイヤは大変な事であろう。

「舗装しないんですか?」

 彼は尋ねた。

「ここは地獄ですよ。楽に作ったら拙いでしょう。」

 人事課長が答えた。

「はあ、・・・・・確かに。」

「乗ってる方も、多少は我慢が必要です。まあ、仕事ですからな。」

 部長も平気で答えた。

「なるほど。」

 がたがたと走っているうちに、あたりの靄が晴れてきた。

 すると、周囲の状況がだんだんと分かって来たのだ。

「さて、これから見学本番です。地獄のアトラクションも、時代とともに変わったものもあれば、古典的なものもあります。まず行きますのは、通称『コンサートホール街』と言われております。これなんかは、もう明らかに今の女王様のご趣味で作られた比較的新しいものです。」

 人事課長が説明した。

「ここには、約50のホールがまとめて作られております。大体定員百名程度の小さなホールが集まっております。それぞれのホールでは、選りすぐりの亡者たちが、ワンマンショーを行っておりますが、たいていは全くの素人です。と、いいますか、ここで舞台に立つ者の多くは、生前、音楽とか芸術とか、芸能とかを、さかんに馬鹿にしてきた連中です。ただ馬鹿にしていたのではなく、その挙句に、音楽を楽しみにしていた部下や従業員をいじめた幹部社員や経営者、あるいは、音楽や文化関係の予算を、不必要に削減して大きな打撃を与えたのに、他でそれに見合うだけの成果のなかった政治家や公務員。多くの才能を、戦争や、でっちあげの罪で殺した独裁者などで、音楽関係の実技は、さっぱりできない罪人たちです。ただ音楽が嫌いだったとかいうだけで責められるわけではありません。それなら、スポーツ嫌いも、飲酒嫌いも、政治嫌いも、皆、同様に責められなければならないでしょう。そうではなくて、その、嫌いの為に、他の人を不当に苦しめたことが罪なのです。それに見合う成果が有れば、また話は別なこともあります。

「難しいですねえ。」

「そうですね。しかしたとえば、政治的な、身勝手な理由で、有能な音楽家や芸術家を多数、故意に殺したり、粛清したりした、ある有名な政治家には、ここで、言語に絶する、恐ろしい責め苦が課されております。そういう者達の他にも、自分から志願して、ここに来ている者もかなりおります。それも認められておりますから。ただし、一定の試験が有ります。あまり上手すぎると、責め苦になりませんからなあ。下手なものが合格する、おかしな試験ですよ。 ハ、ハ、ハ。 まあ、そういうところは、我が女王様の面白いところです。」

 バスはまるで蜂の巣のようにホールが並んでる中心に入って行った。

「さあ、降りましょう。」

 人事課長が言った。

 ホールの周囲には、獄卒のいかにも怖そうな鬼たちが、長い太い棒を持って構えていたが、さすがに総務部長、人事課長は偉い鬼らしくて、皆、鬼たちが丁寧に頭を下げて挨拶してくる。

 また、観客らしき鬼も、かなり沢山歩いているし、中には子供の鬼を連れている鬼夫婦もいた。

「彼らは、今日は非番です。」

 人事課長が説明した

「いまやってる?」

 一つのホールの入口で、人事課長がドア番の鬼に尋ねた。

「あ、休憩終了で、これからです。今ならどうぞ。」

「じゃ、入ってみましょうか。」

 部長が彼に先に入るよう促した。

 中に入ると、受付の女性の鬼が、簡素なパンフレットを、ちゃんと渡してくれた。

 確かに、これは決して場末の小屋とかではない、立派な本格的ホールである。

「空いてますね。ここに座りましょう。」

 部長が言った。

「『演歌、苦節十年の道』 ですか。なかなか本格的ですね。」

 と男が言った。

 すると、人事課長が説明してくれた。

「この人は、北アメリカ共和国の人です。」

「は?」

「けっこうそれなりの大会社に勤めていまして、日本法人の幹部として、長年日本で君臨しておりました。しかし大の音楽嫌い、芸術嫌いでしてね。そんなことに時間をかけるな、と、厳しく部下に言っていました。」

「北アメリカ版のモーレツサラリーマンですか?」

「いやまったく。最近は米国でも、学校で音楽を教える必要などない、という強硬派が増加しているんだと、先日女王様が、職員の鬼対象の講演でお話しなさっていました。ぼくも音楽は良くは分からないのですが、歌うのは好きですよ。特にぼくは、ピップ・ホップ系が好きです。演歌も嫌いじゃないですが、非常に日本的なので、かなり異国情緒を感じますね。この亡者の人は、自分で歌を歌うなど、まったく嫌悪すべきものだと考えていました。そんな時間が有ったら、セールストークの練習だと。まあそれなりに立派な人でもあったのですが、会社の経営の都合でリストラ策を取った際、彼の考えに合わない、趣味を持つ人間から、リストラしてしまったりして、またその他、彼流のいじめで、自殺者やら病人が大勢でました。特に自殺した人の家族から恨まれましてねえ。日本に居づらくなって、本国に帰ったのですが、彼の出身コミュニティが、今度は許してくれなくて、神父様を口論の末、殴り倒して殺したうえで、うつ状態に陥り、結局最後は、日本の『不思議が池』と同じ機能を持つ池で、自殺を図りました。」

「はあ、ちょっとそれは、可哀そうな。」

「まあ、しかし殺人ですし、池からこの地獄に送られました。」

「で、なんで演歌歌手なんかに?」

「いやいや、これは地獄の責め苦なのですよ。」

「これが、『責め苦』ですか?」

「まあ見ていてください。ほら出てきます。これから四時間、彼は同じ歌を、歌い続けなくてはなりません。子供のころから音楽は嫌いで、訓練してません。まして演歌と来てますから。難しいですよね。で、音が外れるたびに、後ろから、プラズマの矢が、彼の体を突き刺すのです。そうして体を焼きつくすのですが、その際、猛烈な痛みがあります。しかし矢が抜けるとすぐに体は回復します。歌うのを止めたら、複数の矢が飛んできますから、止める訳にはゆきません。倒れたら、鬼たちがむりやり立たせます。笑い顔を止めても矢が飛んできます。笑顔で微笑みながら、歌を歌わなくてはなりません。六日歌ったら、一日休んで別の曲になります。最初、元演歌歌手の鬼が模範演奏をします。で、2時間ほどの指導の後、コンサートです。」

「それが十年目ですか。」

「まあ、実際は三十年目です。あれでも大分上手くなりましたがね。レパートリーも相当なものですよ。あ、歌い始めます。『苦節十年演歌の道』という歌で、女王様が特に作曲なさったものです。でも、これすごいことですよ。女王様が持ち歌を作ってくださるなんて、現世ではなかなかないでしょうから。」

「はあ、・・・。」

 アメリカ人の大きな男が、和服姿で歌い始めた。オケはいないから、カラオケなのだろうか。

「~~~ぎらりと厳しい、演歌の道を、歩み始めて、この十年~~~。」

 なんだかかなり怪しい小節を付けながら歌い始めた。良い歌だ、なにか心にジわーっと来るものがある。 が、あらと思ったら、光り輝く矢が飛んできた。男は背中から体を貫かれて、真っ赤に燃え上がった。けれども、矢が通り抜けて消えると、不思議に元の姿に戻ってしまう。また歌う。

 と思ったら、また外れた。よな抜き音階なので、日本人なら外しそうもないところで、なぜか簡単に転んでしまう。また矢が飛んでくる。

 そのたびに、観客の鬼たちが声援を送る。

「まってましたあ。」

「負けるな、演歌、ここにあり~」

「ユケ!! キュウシュウー、ゴーゴー」

 訳の分からない声援もあるが、それなりに励ましているようにも聞こえる。少なくとも、罵声ではない。

「ここの鬼たちは、見かけよりも、優しいのです。」

 部長がつぶやいた。

「これが、女王様流です。」

 人事課長が言った。

「ぼくは、やっぱり嫌ですけど。」

 男が答えた。

「そりゃそうでしょう。ほら、また焼けた。」

 部長が言った。

「三十年もやったら、もうちょっとマシになりませんかねえ。」

 男が、炎のほてりで、赤く染めた顔を、ゆがめながら言った。

「そこです。彼はそういう自分の弱点を、実はよく分かっていたのでしょう。自分が、壮絶な『オン何』とかなのです。」

「なんか、やっぱり可哀そうだ。」

「そこはまあ、地獄ですからな。」

「はあ・・・。」

「じゃ、別のホールに行ってみましょうか。」

 ステージの上で、赤い炎がめらめら燃え立つ中を、三人は席を立った。


 次に真向いのホールに行ってみた。

「今演奏中なので、少しお待ちください。」

 入口の鬼に止められた。

「なかなか、マナーも守られているのですね。」

 男が感心して言った。

「まあ、これも女王様のご指導でして・・・。」

 人事課長が恐縮した。

 暫く待っていると、

「どうぞ、止まったみたいですから。」

「入りましょう。」

 課長が小さい声で言った。

 三人は、パンフをもらって中に入った。

 ここは結構お客が満員だった。

「ここ、空いてますか?」

 課長が尋ねると、子供連れの女鬼が答えた。

「ええ、どうぞ。」

「では、ここに。」

 舞台の上では、日本人らしき女が、ヴァイオリンを持ったまま立ち尽くしている。

 ピアニストの女は、何か茫然としたままピアノの前に座っている。

「どうしました?」

 課長が小声で女鬼に聞いた。

「ほら、あれ、『しびれ膨張弾』が貫通したの。ちょっと動けないかも。」

「はあ、あれが出ましたか。」

「出ました、わたし、始めて見ました。体がグあーっと五倍くらいに膨れ上がって、ぷーっと縮んで、体中が硬直して震えだして、苦しみもだえて、今、少し落ち着いてきたところ。」

「ああ、でも、もう演奏しないと、今度は焼かれますな。」

 部長が言った。

「ええ、それも何度も見ました。凄いです。鬼が言うのも何ですが。私まだ『鬼化』して間がないので。」

「ああ、弾こうとしてますよ。」

 舞台上の女は、必死に楽器をあごの下に持ってこようとしていた。壮絶な意志の力で、演奏を始めようと努力していた。

 観客も息をのんで見守っている。

 やっと、楽器を構えて、弓を当てて、弾こうとした瞬間、プラズマの矢が体を射抜いた。

「ああ、あ、やられました。」

 鬼女が言った。連れの鬼の女の子が、眼を手で覆っている。

「よく見ておきなさい。大きな罪を犯した人間の末路を。」

 部長が付け加えた。

「この女は、経営者でした。とても有能で、才気にあふれておりました。もう百年以上前です。ところが、どうしたわけか、競争相手や、客や、自分の夫や、その愛人を、次々に殺害した罪に問われました。八人、殺したと言われています。しかし、本人は決して罪を認めず、自白もせず、とうとう死刑となり、女王様の特別推薦で、この地獄に送られました。池からではない、比較的珍しいケースです。」

「冤罪ではないのですか?」

 男が質問した。

「ええ、女王様が直々に、女の頭の中を確認したところ、明らかに殺害していることが明白となりました。女王様をごまかすことは、出来ません。でも、この女、実は音楽が好きだったのです。しかし当時はなかなか音楽の勉強をしたくても出来なかったようですな。で、志願して、ここに来ています。」

 課長が言った。

「ただし、ここだけの話ですが、稀に女王様のお力に掛らない人間もいるのです。」

 反対側から部長がささやいた。

「内緒ですぞ。」

「はあ、・・・。」

 舞台上の女は、暫くすると元の姿に戻った。そうして、また同じように楽器を構えて弓を当てようと努力する。が、またプラズマに射抜かれてしまった。

「まだ、音はほとんど出していませんよ。」

 隣の女が言った。

「ドボルジャークを弾くはずですな。」

 部長が言った。

 女はしかしものすごい意志の力で楽器を再び構えた。

 そうして、演奏を始めた。

 茫然としていたピアニストも、気がついて弾きはじめた。

「はあ、これは僕も知ってます。」

「ユーモレスクです。」

 と、課長が答えた。

「し!」

 二人は部長に叱られた。

 演歌歌手と違って、こちらはともかくも、音楽になっている。

 ここまで来るのには、相当な苦労があったのだろう、と男は想像した。

 しかし、終止するはずの音が、少し下に外れてしまった。

 さっそくプラズマの矢が飛んでくる。一切妥協なしだ。

「うわあ。怖いなあ。」

 隣の女鬼が、鬼なのに震えている。

「ピアニストは上手ですね。」

「あの女は、学校の教師だったのです。今日は伴奏で比較的楽してますが、実は彼女も普段はソロをやらされていまして、元教師という事で、とびきり難しいのを弾かされているのです。今はショパンの第三ソナタをやっていますが、もう焼かれる一方なので、それはもう、身にしみているわけですな。あの矢の苦しさは。」

「あ、また弾きはじめた。」

 しかし、すぐにプラズマの矢に射抜かれて、激しく燃え上がったのだった・・・・。

「出ましょう。」

 部長が立ちあがった。


「実は、ヴァイオリンとピアノをやりたい、と希望する亡者は、かなり多いのです。」

 外に出て、課長が言った。

「はあ、何故ですか?」

「それはですねえ、ホントに時々なんですが、女王様が教えに来られることがあって。」

「はあ、そうなんですか。」

「女王様は、現世では、最高に有名なヴァイオリニストで、ピアニストですからなあ。」

 部長が使説明した。

「あなたは、この方面は?」

「いや、あまり知りません。時々、彼女に連れられて、演奏会には行きましたから、そこで教えられたことはありますけれど。」

「なるほど。まあ、しかも女王様は、とびきりの美女ですからなあ。それがびしびし教えてくださるので、人気が有るのです。それにですな、もしかして女王様に気に入られたら・・・という密かな願望が、亡者たちには、やはり有るのですな。現実には、ほとんどあり得ないのですが、稀にあるのが悩ましいのです。」

 そう、課長が説明してくれた。

「へえー。しかし、その女王様というのは、人間なのですか? それとも鬼なのですか?」

「さよう。人間です。ただし、鬼でもあります。しかも、これは、ここだけの話ですが、中身は違います。」

「中身? ですか。」

「さよう、中身は人間でも、鬼でもありません。」

 部長が、わざと神秘的に話した。

「それは、つまりゾンビとか、キョンシーとかの類ですか。」

「まあ、そのようなものかもしれませんが、ちょっと違います。女王様は、体は生きた人間そのものですからな。でも、体は借り物で、中身はしかし、むしろ神様に、近いのです。」

「はあ、複雑なような、よく分からないような。そんな神様のような人が、こんな恐ろしい地獄を作りますかねえ。あ、失礼でしたか・・・。」

「いやいや、そうでしょうな。いや、それでよいのです。まあ想像してみてください、日本において、閻魔様の本地仏は、地蔵菩薩であると、考えられたことを。女王様にも、そうした事が有るのではないかと、我々鬼は考えたりもしておりますが、真実はなかなか測れません。確かに、極めて少数ですが、地獄から、亡者を救い上げられる事もあるのです。それにあの方は、まれに、相手から、『鬼!』とか、『魔女め!』とか呼ばれると、とてもお喜びになるのです。 もしかしたら、貴方も近く女王様にお目にかかれるかもしれませんぞ。」

「はあ、それはまた、有り難い事、なのでしょうね。」

「その通りです。女王様に直にお目にかかれるというのは、大変な事ですからなあ。もし、女王様にお会いになったら、タイミングをみて『この鬼女め!』とか言ってみるとよいでしょう。それはもう、非常にお喜びになりますから。」

 部長が言った。

「殺されませんか?」

「いえいえ、大丈夫。かえって、気に入られますよ。」

「はあ、信じがたい事ですが・・・。」

「ははは、もし女王様が、貴方の事を、誰誰『さん』、でなくて、誰それ『様』、とお呼びになったら、気に入られた証拠です。さて、次に行きましょうか。別のアトラクションに行きましょう。」



 三人は、再びあのバスに戻った。タイヤたちは、水をかけてもらったらしく、前よりも生き生きとしていた。中にはいびきをかいている者もいた。

「まあ、こうした休憩は、亡者たちには救いでもあります。ほんのつかの間ですが。」

 部長がそう言った。

 ここでも、タイヤのかなり奥の方に、あの優しい目が見えた・・・。

「誰だろう?」

 男はかなり気になってきていた。

 運転手もバスに乗り込み、エンジンをかけた。

 バスはゆっくりと動き始めた。

「今度は、もう一つ先のカテゴリーに行きましょう。ここは、非常に古典的な地獄です。ボッスが『快楽の園』で描いたような地獄です。が、ここも現在は夜になると責め苦は中断されます。それは、鬼たちというか、悪魔たちというか、の労働条件の改善の為でもあります。実際今は、交代勤務は随分縮小されましたし。」

 男は、部長の説明を何となく聞いていた。

 彼の目の前を、タイヤから外れたらしき人間の首が、ころころと転がって行ったのだった。その後を、鬼が三人追いかけてゆく。

 誰も解説はしなかったが。


 部長の話のように、そこは異様な現場だった。ボッスの絵のような不気味な空に覆われた、けれどもかなり色とりどりの世界でもあり、眼を疑うような拷問の場でもあった。

 そこでは、西洋的な化け物も、悪魔も、日本的な鬼も、ごちゃごちゃになって、罪人を責め立てている。

 正視していられる方が、どうかしているような世界だが、我慢してよく見るていると、どうも変わった存在がいるようだった。それは、医者と看護師のようなペアである。

 二人は、拷問を受けている亡者たちを、順番に診て回っているようなのだ。そうして、彼らが診ているあいだも、化け物や鬼たちは、拷問を続けている。

「あの、医者のような人は何ですか」

 男は尋ねた。

「文字通り医者と看護師さんですよ。恋人同士です。もっとも彼らも罪人です。」

「はあ?」

「生きている時、医者でありながら、十分仕事をしなかったうえに、医療ミスを重ねたうえ、重い犯罪を犯してしまったのです。看護師も、担当していた三人もの患者を、殺してしまいました。まあ、二人には、事情も色々あるようですがね。二人で相談して、池に飛び込み自殺しました。そこで、ここの現場で活躍してもらっているわけですな。あれでなかなか大変です。患者は動き回っていたり、苦しみ喘いでいる。拷問は続くのですから、原因はなくならないし、患者も減らないし、同じ治療を永遠にやらなきゃならないし、まあ大変ですな。これも責め苦の一種です。」

「ふうん・・・・。」

 いま医師と看護師は、卵男の手(足?)をよじ登っているところだ。

 その、体が半分しかない、真っ白で、不気味な怪人の頭の上で、悪魔か鬼に手を引かれながら、永遠の行進をしている人物を診ようということらしい。

「行進を止めることはできません。一緒に歩きながら診察するのです。そうして、あまり無理をしないようにと、無理を言うのです。」

「はあ、・・・」、

「それに、ほらあそこ。カメラとマイクを持って走っているのがいるでしょう?」

「ええ、確かに。」

「彼は、アジアのある国の、フリーのジャーナリストだったのですが、ちょっとやりすぎましてね。取材していた人物を、犯罪者として追及していたのですが、相手が家族全員で自殺してしまうまで追い込んでしまって。最後は自分も池に入りました。で、ここに送られて、いまはこうしてあそこで、永遠に取材して回っております。

「はあ・・・仕事熱心だったということではないのかとも、思いますが・・・。地獄って、そんなに近いのですか?」

「地獄は、いつも貴方のすぐそばにあるのです。まあ、でも、この辺りは地獄の序章というところでしょうか。この先、永遠の広がりを持って続いてゆきますから。そうして、言語に絶する責め苦が行われております。我々も全部見たわけではありません。なにしろ、果てがないのですからな。すべてをご存じなのは、女王様だけです。地獄長でさえ、全貌は分からないのです。」

「はあ、また女王様ですか。」

「そうです。」

 男はふと疑問を抱いた。女王は、いったい犯罪者ではないのだろうか? 死んだ人間を、そのように裁いてよいものなのだろうか? さっきの話からみても、単なる都合のよいビジネスのような気もするが。」

『これは、不当な拷問なのでは?』

 しかし、それを口にする前に、部長が遮った。

「あなたも、お疲れでしょう。今日はこれでやめましょう。 では、宿舎にご案内いたします。」



 バスは、今度は随分長く走った。あたりは、何時の間にか薄暗くなってきている。

 皆、もう口数が少なくなっていて、ほとんど誰もしゃべらなかった。

 実際に走っているのは、ほとんど森の中のような感じのところで、説明すべき事もなかったのだろうけれど。

 三十分以上は走っただろう。バスは、松の林が、走って来た森とは直角になって連なっているところに出た。

 そうして、松林の間が、何かの門になっているところに入り込んでいった。

「さあ、着きました。ここは『無限寮』と呼ばれております。今日から、ここが貴方の宿舎、兼、職場になります。」

「ムゲン、ですか。」

「そうです。限りがないの無限です。どうしてそう呼ばれるかは、こちら側からはよく分からないのですが、部屋にお入りになって、窓から外を見ていただくと、すぐに分かります。じゃ降りましょう。」

 そう言うと、部長と課長は男を促してバス降りた。

「何か、海の香りがするようですね。」

「ええ、この建物の向こう側は海です。永遠に広がる。」

「永遠に広がる?」

「そうです。文字通りね。しかし、ここは女王様以外、地球上のどんな権力も届かないところです。」

「はは、またそれは凄いですね。そんなところがあるのでしょうか。」

「ええ、実際そうなのですからね。さあ、ここが玄関です。」

 それは、非常に広い大きな玄関だった。三人が近づくと、巨大な扉が、横にざーっと開いた。

「最近は、自動ドアなど珍しくもないでしょうが、これはもう作られてから、現世時間で二千年以上になります。でも、今でもおそらく現世のどんな自動ドアよりも、巨大でしょう。まあ、大きな鬼も出入りしますからな。」

「二千年前から、自動扉ですか?」

「ええ、そうだそうです。私が初めて赴任した時も、すでに、こうでしたから。」

「はあ・・・。」

「もっとも、先程お話ししたように、ここではそういう時間の概念もほとんど無いのですがね。まあ中にどうぞ。」

 大きな高い廊下が、両側に、はるか向こうにまで伸びているが、カーブしているので、どこまで続いているのかはわからない。

 しかし、がらんとしていて誰の姿も見えない。玄関の目の前には、これもまた大きな階段があって、二階に上がってゆくようだった。

「一階は、この地獄で働く鬼たちの宿舎です。我々の住まいもここです。そうして二階が、亡者たちの住まいなのです。あなたの部屋は、この寮の中でも特別な部屋です。二階にありますが、上り口は、あなた専用です。他は誰も使えません。こちらにどうぞ。」

 入って左側に少し曲がったところに小さな階段があった。入口を木の横棒が、踏切のように遮っている。

「まあ、これは気持ちだけのようですが、しかし、これだけで鬼も、亡者もここはくぐれませんから。

貴方が近寄ると、ほら!」

 木の棒がすっと開いた。

「面白いでしょう。そうでもないですか。今の方には。昔は随分びっくりしてもらったもんです。」

 部長が楽しそうに語った。

「さあ、上がりましょう。我々はまあ、特別に上がらせてもらいます。役得ですな。」

 その階段を上がると、ドアが有った。


「ここが貴方の部屋ですよ。この『無限寮』の中でも、ここだけ、という部屋です。」

 それは、彼の住んでいたアパートに比べると、まるで宮殿のような豪華な部屋だった。

「そういえば、ぼくは、自分のアパートをほったらかしてきたんですよ。」

「ああ、それは大丈夫。心配いりません。我々が対処しております。」

「それに何もいらないというから、この、カバンだけで来ましたし。」

「それでよいのです。いや、本当によく約束通りにして下さってます。生活に必要なものは、すべて用意いたしました。これからは、洗濯や掃除も、貴方がする必要はありません。ま、ちょっとした高級ホテル住まいと考えてください。バス、トイレ、こちらにございます。冷蔵庫もテレビもあります。日本の主要なテレビ局が映ります。もし御希望なら、パソコンで切り替えていただければ、世界中どこの放送でもご覧になれますよ。もちろん衛星放送も見えます。ここの時間は、本来現世とは違いますが、あなたの時間に合わせて受信するようになっています。

 有線放送も繋がってます。お好きなジャンルの音楽がお楽しみになれます。

 ま、多少の不便はありますでしょうが、そこは勘弁して下さい。なにしろここは地獄ですから。ははは。」

 部長が笑った。

「そうですな、例えば電話は地獄の外部には通じません。コンビニ、ありません。自動販売機もないです。レストランとかも、ここにはありません。」

「昼間、行った喫茶は?」

「あそこは遠いですよ。それに昼の時間しかやってませんしね。しかし、貴方は昼間はお休み時間ですからなあ。行きたい時は、専用車を出しましょう。この内線電話機は、管理鬼室にしか繋がりません。しかも、話しはできません。つまり、会話は。受話器をあげて、ピッと鳴ったら、一方的にご用件を喋ってください。例えば、喫茶行きたいから、車をよろしく、とか、気分が良くない、とかね。遠慮はいりませんよ。いつでもOKです。まあ、あの喫茶は、昼休みには我々もよく行ってますから、そこでお話もできるでしょうし。そう、特に体調が良くない時などは、すぐお知らせください。それから、あと、このパソコンで、我々と連絡が取れますのでお使いください。ここではお金は必要ありません。食事は、貴方からの断りがない限りは、自動的に届けられます。メニューはこちらにお任せ下さい。それなりの資格を持っていた鬼が、ちゃんと栄養などを考えて出しますからご安心を。でも食べたいものがあったら、メールで、事前に言っておいてください。その日すぐにはならないかもしれませんが、数日中には何とかしますから。あとは、まあ、これを読んでおいてください。肝心のお仕事は、明日からという事でお願いします。事前に当日のスケジュールや資料をパソコンにメールでお伝えいたします。まあ、相談者に対しては、『いらっしゃい』と『どうぞお座りください』あとは、あいずちを打つことと、『御苦労さま』だけで、あと何も話す必要はありませんし、話さないでください。何か話をすると、却って面倒が起りますからね。で、職場はこちらです。すぐ隣に相談室が有ります。」

 

 部長は、その広い部屋を横切って、ドアを開けた。

 そこは相談室といっても、かなり大きな部屋になっていた。綺麗なテーブルが一つ。その両側に肘掛け付きの椅子が二つ。

 警察の取り調べ室よりも、はるかに高級な感じだ。

「とにかく、聞くだけですよ。簡単でしょう。そうそう、我々は何を聞いたのかには、一切立ち入りません。付き添いの鬼も、そこに居ても、何も聞いていないことになっております。あと記録をするかどうかも、貴方にお任せです。まあ、少しやれば要領もつかめるでしょうが。前任者は、一切、記録をしなかったようですな。まあ、引き継ぎもなくて恐縮であはりますが。そのまた前任者は、もと速記者だったので、記録は残してますが、すべて中は見ずに保管してあります。」

「ぼくは、外国語は分からないですよ。」

「大丈夫です。日本語以外をしゃべる亡者には、通訳を付けますから。ご心配なく。それに必ず何時も、屈強の鬼を一人付き添わせますから、本当に心配はありません。ま、もっとも聞くだけですからな。ははは。それから、まあ無いと思いますが、万一緊急事態が起こったら、このテーブルの下のボタンを押してください。いいですね。」

「分かりました。」

「まず、危険は有りません。」

「あの・・・、」

「なんでしょうか?」

「ぼくの前の人は、なんで辞めたのですか?あるいは転職したのか、契約切れなのか。死んだのか。」

「ああ、それはですな、実はあの方はもうかなり高齢の方でして、地獄は永遠とは申しましても、生きている人間の方は、どうしても歳をとりますので。まあ、引退されたと、いうことですな。」

「それだけ? 生きているのですか?」

「はい。そうです。でも、それだけです。」

「そうですか。わかりました。」

 部長も、人事課長も、何か、ほっと安心した様子だった。

「まあ今夜はゆっくりお休みください。あすは初日という事もあり、予約は二人しか入れません。では、我々は引き上げます。また、あす仕事が終わった後、様子を伺いに参りますので。あ、そうそう、いいですかな、この寮の中では、あなたは自由に歩くことが出来ますが、あまり遠出はなさらない方が良いでしょう。まあ、散歩はもちろん結構ですが、せいぜい往復一時間以内にしてください。迷子になっても困りますから。この部屋の入口には、『相談室』の看板が懸けてあります。それを目印にしてください。貴方の部屋の入口は、貴方以外の者には原則反応しません。我々二人は例外としております。ほかの亡者たちは、自分の部屋に帰ると、勝手には外に出られません。この時計がすべての目印になります。いいですかな、今、午後五時少し前です。この時計で、午後五時から六時の間は、部屋の外に出ないでください。お約束です。まあ、七時からは勤務時間ですからな。その前の一時間は、貴方の食事時間です。食事は、お届けのときにはベル鳴らして、ここから入れておきます。ちょっと囚人みたいですが、安全の為です。お許しを。今日も、間もなく届きます。それと、その時間と、勤務時間と以外は自由に散歩などしていただいて結構ですが、他の部屋をノックしたり、覗いたりは、絶対にしないでください。これも、あなたの安全のために。のぞき窓から中を見たくなるでしょうが、止めておいてください。それをしたからといって、どうなるというものではないのですが、あなたの精神衛生上、けっしてよくないでしょうから。

 まあ、あとは、そう気にすることはありません。海岸に出ることも出来ますよ。正門から外に出て、右に少し歩いていただくと、海につながる通路がありますから。ただし、海には入らないでくださいね。永遠に漂流することになりますから。ははは。じゃあ、また明日。」

 部長と課長は帰って行った。

 彼は、一人部屋に残された。

 それから、『無限寮』という言葉のことが思い出された。

 男は、窓に手を添えて、両側に開いてみた。

 目の前には、完全には暗闇になっていない、不思議な光景が展開していた。

 海だ、まさしく。建物の下には、黒い砂浜が広がっている。その向こうは遥かに海が広がっていた。

 波は穏やかだが、どんよりとした怪しい空に覆われていたその海は、どこまでも続いていて、島影ひとつ見えなかったし、船の明かりもまったく無かった。


 そうして、彼は見た。この寮の二階建ての建物が、右も、左も、ずうっと、どこまでも伸びていっているのだ。やがてその建物の影は、水平線と地平線の交わる彼方に消えて行っていた。

「『無限寮』か。とんでもないものだ。とてつもないところに来てしまったかもしれない。」

 彼は、しばらく、あきれ果てて外をじっと眺めていた。

 すると、今まですべてが暗かった他の部屋に、一斉に明かりがともってきていた。それはどんどん増えてきて、いまや光の列が延々と続いていた。地獄の亡者たちや、鬼たちが、自室に帰ってきたという事なのだろうか。どの部屋も、見える限り、きっちりカーテンが閉まっているようで、中は窺い知れない。

 

 何か、幻想と現実との狭間に居るような気持がして、少し気分が悪くなりそうだった。

 彼は、まわれ右して、カーテンを引き、テレビのスイッチを入れた。

 そうして、ブザーが鳴った。


 次の日、彼は、部屋の靴箱にあったゴム草履をはいて、部長に言われたとおり、海岸に出て見た。

 低い位置からみると、夜間に見たよりも、海が盛り上がって見える。そのまま、まるでヨーグルトのようにもったりと、遥かに続いている。波が来ない。おかしな海だ。おかしなことと言えば、ここには太陽がない。なのに明るいのだ。あり得ないことだろう。しかも、暑くはいないが、適度に温かい。風もない。穏やかとう意味では、最高に気持ち良い。上着を脱いで、裸足になって浜辺に横になった。本当に平和だ。けれど、海の反対側の地上では、壮絶な責め苦が、今も行われているのだろう。ここは『地獄』なのだ。信じ難いけれども。



 相談の初日。

 聞くだけでよいとは言われても、緊張するものだ。

 彼はきちんとスーツを着込んでいる。

 どうしてか、わからないが、自宅のアパートに持っていたものとそっくり同じような服や靴が揃っていた。あきらかに、普段の生活が、地獄の誰かに覗かれていたという事なのだろうか。

 まあ、夢の中で契約できるくらいだから、それも当然なのかもしれない。

 一人目の時間になった。メールで来ていた資料によれば、女性だという。

 生前は役者の妻だった。自分も役者として、日本全国を公演して回っていたが、他の役者と恋仲になって、夫を殺してしまい、劇団を乗っ取ろうとしたが、子供から諌められて『不思議が池』に身を投げた。明治維新の直後だったらしい。

 やがて、ドアがノックされ、女鬼に連れられた女性が入って来た。

 着物姿で、なかなかの美人だ。

「どうぞ、お入りください。」

 彼は、おっかなびっくりではあったが、それでも何とかそう言った。

 女は部屋の入り、テーブルの前に立ち尽くした。

「どうぞおかけ下さい。」

 そう言うと、女は素直に従った。女鬼の方は、ドアの傍らにある椅子に黙って座った。

 間近で見ると、心臓がどきっとするほどの美しさだ。

「あの、わたくし、相談は始めて来ました。申し込んだのは、百年前ですが。」

 男は、黙ってうなずいた。

「反省してはおります。夫を殺してしまった事は。殺した時は、楽屋に持ってきてあった包丁で、こうやって、こうやって・・・。切り刻んで・・・・。」

 女は実演して見せた。どうした訳か、手には包丁が浮かび上がっている。

 ものすごい迫力だ。あまりにリアルで、男は思わず後ろにのけぞった。

 女が再び椅子に座ると、幻の包丁は消えてしまった。

「自分がなにをしているのか、分かっていながら、もう何も判っていませんでした。夫が今は極楽に行ったのかどうかもわかりませんが、暫くは毎晩のように、枕元に立って恨み節を申しておりました。   あの人は、・・・・・本当は他の役者の女と通じておりました。わたくしは、知っておりました。そのことはちゃんと。でも、それは許されて、何故、わたくしは許されないのか・・・・・・。もう、めちゃくちゃでした。わたくしは、夫が好きだったのに。本当に好きだったの、嘘ではありません・・・。それで『不思議が池』に身を投げました。この地獄では、毎日、わたしが夫にした事を、鬼からやられております。毎日殺され、切り刻まれ、また蘇り、また殺されます。ただそれの繰り返し。これが永遠に続くのだとか。」

 話しは、途切れることなく三十分続いた。彼は、ただ聞いていた。

 そう、まるで小説のようにだ。

 実際、人と話していれば、そのくらいの時間は、あっという間に経ってしまうものだ。

 時間が来ると、女鬼が立ち上がって、亡者の肩を軽く叩いた。

 すると、女は立ち上がり、お辞儀をして、こう言った。

「聞いていただいて、ありがとうございます。随分楽になりました。また百年後くらいにお願いいたします。」

 そうして、そのまま出て行った。

 これが、彼とこの女が出会う、永遠の中のたった一度になるという事については、男はあまり意識していなかった。

 電車の中で、たまたま一緒になったくらいの感覚だったのだろう。

 彼は 初めてのことでもあり、メモを取ろうと、紙も用紙していた。しかし、結局相手の話し中には、何もできなかった。


 二人目が来る前の三十分間に、彼は少しだけ記録を取った。ほんの少しだけにした。

 今日が何月何日なのか、(実際よく判らなくなりそうだったが)とにかく月・日と男女の別、何処の国の人だったか。それと簡単な内容、感想をメモした。


 男は、二人目のデータを確認する。・・・・・・・「データによると、男性、タルレジャ王国人、三百年前、自宅の近所の人を三人殺害。相手が良くないと主張し続けている。地獄は苦しい、家に帰りたいと言うも、反省なし。『鬼化』・・・え、これ何だろう? 『鬼化』しにくい体質? むむ・・・・・。」



 幸子さんは、愚痴っていた。

「まったく、ちゃんと着いたとか何とか位は、報告してほしいわよね。」

 あの男を呑み込んでから、地獄からは何も言ってきていないのだった。

 もう半月近くたつのに。

「昔は、そうじゃなかったわ。もっと丁寧だった。」

 幸子さんは、お饅頭を頬張りながらではあったが、どうも気持ちが収まらなかった。

 あれ以来、池を訪れる人もなく、女王様からの連絡も、指示も、何もなく、なんだか寂しかった。


 こんなことは、これまでもあることだったけれど、今回はやはりおかしいと思った。

「第一、『朝のお言葉』が当面中止というのが変よねえ。あれだけ続けていたのに・・・。」

 そこにようやく、お腹の中に地獄からの声がかかった。

「幸子どの、幸子どの。」

「まあ、部長さん。やっとお知らせですか?」

「いやあ、遅くなってすみませんなあ。何かと立て込んでしまって。男はちゃんと着任して、相談もしっかり始めてくれていますよ。ご心配なく。」

「まあ、それは結構なことですわよね。ねえ、部長さん、私の事は?」

「はい?」

「私のこと、よ。何かないの?」

「何か、と言いますと?」

「もう。ちゃんとしてくれてますか。ここに居られるように。」

「ああ、その件なら、今すぐどういう事ないでしょう。次回の人事異動の時のことですし。まあ、でも、、獄長にも、ちゃんと幸子さんのご活躍は報告しておきますから。まあ、大丈夫でしょう。」

「よろしく、ですよ。本当に。もう心配。」

「ははは、ではまた。」

「あ、部長さん! あの・・・。 もう。最近逃げてばっかね。」

 幸子さんは、次のお饅頭に取りかかった。最近食べすぎだと、自分でも思いながら。

 

 すると間もなくこんどは人事課長が連絡してきた。

「幸子さん、幸子さん。ぼくですよ。」

「あら、課長さん、今部長さんが・・・・。」

「ええ、わかってますよ。部長、どっかに行っちゃいましたから。」

「そう、なに?」

「あのですね、ちょっとお願い事があってですね・・・・・・。」



 その晩遅く、午前一時過ぎの事。

 一台の車が『不思議が池』に向かっていた。

「まあ、やっとお客さんだ。まま、女の人が一人。これは怪しいですね。おお、『お気楽饅頭』がありますねえ。すばらしい。あれ、お酒のパックかなあ。お酒も捨てるつもりかしらね。わたし、甘党なんだけど。でも、実はお酒も大好きだったりして。もう、絶対お客さん。とりあえず、ここは、準備・準備と。」

 自動車は、決まり事のように崖っぷちで停車した。

 それから、少し間を置いて、一人の女性が出てきた。

 彼女は、手に、お饅頭と、お酒のパックを入れたスーパーの袋らしきものをぶら下げていた。

 そうして、池に向かって呼びかけた。

「池の神様、聞いてますか?

 出てきてください。お酒持ってきました。お饅頭もありますよ。大切なお話があります。

 お願いします。

 彼がいなくなったの。出てきてください。助けてください。 」


 彼女は、お饅頭とお酒の入った袋を、池の中に投げ込んだ。


 すると、池の底から怪しい赤い光が立ち上がり、それから池の水が巻きあがった。

 そうして、美しい女神様が姿を現した。

「あなたが落としたのは、お饅頭と、この辛口のお酒パックですか? それとも金の斧ですか?」

 女神様は尋ねた。

 女は言った。

「お饅頭とお酒ですよ。女神様。お話を聞いてください。」

「まずは、やるべきことを済ませてからです。こほん。あなたはとても正直な人なので、両方差し上げましょう。」

「あの、お酒はいいです。女神様が飲んでください。お饅頭もどうぞ。」

「それは、まあ、是非にと言われれば、まあ、そうしますけれど。」

「はい、是非に。で、お話を・・・・。」

「まあ、気が短い人ね。ほら、あなたも飲みなさい。コップはないの?」

「あ、すみません気がつかなくて。紙コップあります。ちょっと待ってください。」

 彼女は車の中からコップを取りだした。

「うん、用意が良くて感心じゃ。ほら注いであげるから、飲みなさい。温まるから。」

 びっくりしたことに、女神様が、パックの口を引っ張り開けて、彼女のコップにお酒を注ぎ、それから自分のコップにも同じように注ぎ入れた。

「ああ、すみません。」

「いいのよ。お酒は久しぶり。最近、まあ、お饅頭は良く手に入るんだけどね。」

「ああ、お饅頭もどうぞ。」

「ええ、勿論。いただくわ。で、なあに?」

 女神様=幸子さんは、池の上に座り込んでお饅頭を食べながら、お酒を飲み始めた。

「あなたも、飲みなさい。飲めるんでしょう?」

「あの、まあ、少しなら。でも、車の運転が有るので、飲酒運転になってしまうので、形だけで。」

「まあ、飲酒運転はいけませんが、よかったら、ここで寝て帰りなさい。明日は仕事なの?」

「いいえ、仕事は辞めましたの。」

「じゃあ、いいでしょう。あす、昼まで寝てても。」

「あの、でも家族が心配するとやっかいですから。あの、お話していいですか?」


 幸子さんは、自分のコップに、もう次を注ぎながら言った。

「うん。どうぞ。これ、おいしいわ。」

「あの、実は、わたしがお付き合いしていた彼がいたのです。でも、彼は長いこと仕事がなく、はっきりしないこともあって、わたしは、親からある人との結婚を勧められて、まあ、良い人なのですが、なんだか分からないうちに、どんどん話が進んで、婚約までしてしまいした。何度も彼に、つまりもう一人の彼に、連絡したのですが、本当にはっきりしなくて。で、結婚式まで決まってしまって。彼は、つまり婚約した彼は、外資系製薬会社のエリート社員で、お給料もかなり高いし、人もできてるし、はっきりしているし、で、結婚後はタルレジャ王国に赴任する事になっております。もう一人の彼にその事を伝えようとしたら、こんどは連絡がつかないの。メールで言うのはいやなので、直接聞いてもらおうと思ったのに・・・・・。で、アパートに行ってみたら、出かけたっきり帰ってないというの。大家さんに聞いたら、出てゆくって、電話で連絡が有ったって、残りの家賃も、きっちり振り込んで来たって。荷物も業者さんが片付けに来たって。もう、なにがなんだかさっぱり分からなくって。」

 幸子さんは、内心ではしっかり思い当った。

『はあ、あいつのことに違いない。でも、なんで部長さんは、そこまで思い切った事をするんだろう? 人事課長さんが言うように、ホントにこのまま鬼にしてしまうつもりなのかしらね。ふうん・・・。』

 しかし、幸子さんは、女にはこう言った。

「それは、よかったじゃないの。だって、結婚は物事の始まりでしょう。この先の生活とか、考えたら、絶対お金持ってて、きちんとした立場のある人の方が、良いに決まっているでしょう。貴方の選択、多分間違いなく正解よ。悪いこと言わないから、そのまま進みなさい。うん? あれ、良くないの?」

 女は、気に入らない時の幸子さんのような態度を取っていた。

「あなた、その、はっきりしない男の事、好きなの?」

 少し辛そうにしながら、彼女はうなずいた。

「以前、彼が言っていました。自分は望みは高いが、上手くはいっていない。でも、頑張りたいって。

で、いっぺん『不思議が池』に何もかも全部捨てて、女神様に運をもらいたいって。その時は、何言ってるのかよくわからなかったし、冗談のようなものと思ってました。でも、最近この池で、不思議な事が起こっていて、警察も調査したっていう話を図書館の雑誌で読んで、それで、もしかしたら、ここに来て、何かしたのではないか?と思いました。」

「何かって?」

「自殺・・・・とか。」

「まあ、まあ大変。」

「でも、こうして本当に貴方が出てきた。ということは、つまり・・・」

「うん、つまり?」

「何かがあったと推測されますよね? だって、本当に女神様がいたんだから。で、女神様は何かきっと知っているに違いないと。それに・・・」

「まだあるの?」

「実は、変な夢を見たの。」

「変な、夢?」

「はい、夢の中に鬼が出てきて言ったのです。『お前の以前の彼は、生きたまま地獄に居るぞ。気になるなら『不思議が池』に行って神様に聞いてみるがいい』と。」

 女神様=幸子さん、はちょっと考えていた。

 それからこう尋ねた。

「あなた、本当にあの男に会いたい? 」

「ええ、会いたいです。このままでは嫌です。」

「ふーん。じゃあさあ、彼に、さらわれたいって、本当は思う? 結婚式の前にでも。今でも?」

 女は少し戸惑ったが、こう答えた。

「はい。」

「お金持ってなくても?」

「お金の問題じゃあないです。」

「へえー、そうなんだ。でも、なんで婚約なんかしたのよ。断ればいいじゃない。昔じゃあるまいし。」

「父は、古い人だし、母の手前もあったし・・・・あの人も、はっきりしないし。」

「なるほど。まあ、確かにある事ですねえ。あの男も変わってるしなあ。」

 そうして、幸子さんは尋ねた。

「あなた、これから、すぐ、地獄に行く気が有るかしら?」

「え? 『地獄』ですか?」

「そう、『地獄』。そうしたら、彼に会わせてあげる。でも、もしかしたら、この世には帰って来れないかもしれないわよう。私は、あなたを地獄に送り届けることはできるけれど、直接連れて帰る事はできないの。そのためには、あなたがた二人が、ちょっと危険を冒す必要があるの。うまく行かなかったら、永遠に二人で地獄暮らしになるかも。しかも、いい、このままだと、彼、遅かれ早かれ鬼になってしまうの。生きている人間が地獄に居るとね、随分早く鬼になってしまうの。死んでいる人は、鬼になれるのに、相当時間がかかるけれどね。だから、もし帰るのに失敗したら、二人とも鬼になってしまうわよう。まあ、その方がいいと言うなら話しは別だけど。で、そこまでしても、彼に会いに行きたい、救い出したい、と、思うのだったら、手助けしてあげるわ。どうする?」

 女はかなり戸惑った様子だった。

 けれども、やがてこう言った。

「地獄に行けるんですか? 死なないで。」

「そう言う事ね。ただし、私に食べられる必要があるけれど。まあ、一気に呑み込むから、別に痛くもなんともないわよ。」

「そんな・・・。」

「どうするの? このまま帰って、結婚した方がいいんじゃない。皆が納得するでしょう? 彼だって、そのつもりで、ここに来て、地獄にいっちゃったんだから。」

 女は、急に決心したように座り込んだ。

「お酒下さい。」

「あらま、飲むの?」

「はい。もう二十歳過ぎてますから。大丈夫です。」

「まあ、それは良いとして、あとどうするの?」

「呑み込んでください。」

「本当に?」

「はい。」

 幸子さんは、半分目を閉じぎみにして、疑わしそうに言った。

「あなたに、そんな度胸が有るのかしら?」

「やります。このまま帰ったら、一生後悔しますから。」

「ふうん。あの男、やっぱり、ダメ男ねえ。勿体ないこと。いいわ、じゃあほら飲みなさい。そしたら、どうしたらいいか、教えたげるから。」

 幸子さんは、辛口のお酒パックを持って、彼女のコップになみなみと注いだ。

 彼女は、一気に飲み干した。

「まあ、大丈夫? 急性中毒なんかに、ならないでね。」

「もう一杯ください。」

「はいはい。どうぞ。お饅頭もいかが?おいしいですよ。」

「いただきます。」

「なかなか、良い飲みっぷりね。さて、じゃあ教えてあげる。」

「はい。」

「いい、地獄に着いたら、男の鬼さんが待っています。でも、これは秘密の行動です。地獄長に知られたらおしまいよ。慎重に行動しなさい。鬼さんが、タイミングをみて、あなたを彼のところに連れてゆきます。鬼さんの指示に従ってね。で、彼を説得しなさい。現世に戻るようにね。時間はあまりない。三〇分しかね。ごちゃごちゃ言ったら、ぶん殴って、引きずってでも、連れて帰るのね。できるかなあ? で、いい、鬼さんが地獄茶屋という処に連れて行ってくれるから、そこからバスに乗りなさい。チャンスは一回だけしかない。乗れなかったら、それでおしまい。二人とも連れ戻されて、あとは仲良く身も心も恐ろしい鬼になって、罪人たちを、責めたり食べたりして、ずっと暮らすの。地獄茶屋の番人は、それはもう恐ろしい鬼女よ。なんだかんだと、バスに乗るのを邪魔するわ。それに惑わされずに、バスに乗るの。バスの中でも何か起こるでしょうけれど、力をあわせて乗り切りなさい。そうしたら、やがて泉のほとりに着く。いい、そこはたった一か所だけ、私が救いあげる事ができる地獄の場所。着いたら叫びなさい。『幸子さん拾って!』 てね。そうしたら私が引っ張り上げてあげる。それで、二人ともここに帰れて、めでたしめでたし。になるの。ね、簡単でしょう。」

「それって、『簡単』、なのですか?」

「ま、そのくらいの覚悟はしなさいってことよ。も、決めたんでしょう。」

「はい、あの、もう一杯ください。もうやけですから。」

「まあ、もう止めときなさい。動けなくなったら困るでしょう。さあ、いいわね、ちょっと怖いもの見るわよ。」

 幸子さんは、みるみる巨大化しながら鬼の姿に変わっていった。

「きゃあー。何、何。」

 彼女は叫んだ。

「そら、呑み込んでやる。」

 幸子さんは、女をつまんで、口の中に放り込んだ。


 やがて『不思議が池』は、また静寂の中に帰って行った。


「やれやれ、まったくもう、なんでこんな事になるのかなあ。」

 と、言いながら家に戻った幸子さんは、またまた、お饅頭をゲットして機嫌は悪くなかったのだった。

 おまけに今回はお酒も付いてきている。

「ちゃんと、課長さん出迎えてくれるのかしら。それにしても変な話ね。」


 と、その時、幸子さんのお腹の中から、何とも言えない霊妙な声が聞こえてきた。

「すべての池の女神様たち。よく聞いてください。」

「まあ、これはアヤ姫様。『全世界池の女神様会』の会長さん。」

「最近の地獄長の行いは、目に余るものがあります。そこで、緊急の全女神様による会合を開きます。時間は六時間後、場所は、タルレジャ王国の『アヤ湖』です。必ず参加してください。」

 幸子さんたち池の女神様は、お腹の中の空間でつながっているため、緊急時にはこうして呼び合う事が出来るのだった。しかしこれは、女王様には、なぜかつながっていない。

「うわあ、大変な事になった。全女神様の会合なんて、前の『女神様研修』以来ね。大変。それまでにお饅頭、片付けとかなくっちゃ。」


 幸子さんは、景気良くお酒を飲みながら、お饅頭を食べたのだった。



                                 第五話・・・・・おわり


















 
































































 
































 




 








 










































































































 
















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