エキドナ、きみは美しい
私には幼馴染がいる。
女好きの遊び人として有名な、どうしようもない幼馴染がいる。
そんな彼を私は愛してしまっている、なんて。
「言えるわけないわよね」
「ん?」
「なんでもないわ、ごめんなさい。続けて」
「それで、ロゼリアはそれからなんて言ったと思う?」
「なんて言ったの?」
「エリオット様は、私とエキドナ様どちらが大事なの? って。それ言われてなんか冷めちゃった」
エリオットは、そう言って口を尖らせた。
こういう仕草が女性たちの間では、可愛いと評判らしい。
「その話、前にも聞いたのだけれど……」
「それはロゼリアじゃなくて、マリエッタの話でしょ」
「……あなたの歴代ガールフレンドに、一体なんだと思われてるのかしら私」
「僕を誑かす悪女かな」
エリオットは笑った。どこか人を小馬鹿にしたような軽薄な笑み。
けれど、どきりとするぐらいに美しい笑みだった。
「馬鹿だよねえ、あいつら。悪女だなんて……エキドナほど優しくて美しい女性なんて、きっと他にはいないのに」
ほら、またそうやって、私の心を逃してはくれない。叫び出したいような衝動に、ぎゅっと強く掌を握る。
「あなたがそういうことを面白半分に言うから、私が世の女性から目の敵にされて、ある事ない事噂されているという自覚はある? 」
僅かに目を瞠ったエリオットは、それからゆったりと首を傾げた。
「なに言ってるの、エキドナ。僕は事実を言っているだけだし、そもそも噂の原因は僕じゃなくて、きみのその氷みたいな表情だよ」
ぐさり、と心に言葉が刺さる。
目付きが悪いのは自覚している。それに加えて、あまり表情の変化がないのもいけないらしい。けれど、好きな相手に氷みたいだなんて言われて傷付かないわけがない。
「出る杭は打たれるんだよ、エキドナ。身も心も美しいきみは、みんなの脅威なのさ」
そっと私の髪に触れる。
そんな顔で、そんな事を、言わないでほしい。
私は醜い。あなたがガールフレンドと別れるたびに、私の身体は喜びに震え、誰の事も愛せないあなたを見るたびに、心の底から安堵しているのだ。
私は、あなたの幸せを願えない。
「エキドナ、僕はついに本当の愛を見つけたかもしれない」
ある日、私を見て早々どこか興奮したようにそう言ったエリオットはそれから申し訳なさそうに、彼女に心配をかけたくないから私とはもう2人では会えない、と謝った。
今までエリオットから、そんなことを言われた事はなかった。頭をなにかで殴られたような思いで、けれど、いつかこんな日が来るのではないかと思っていた私は、操り人形のようにただただ頷いた。エリオットの嬉しそうな本当に愛おしそうな顔が頭にこびりついて離れなかった。
エリオットがリアーナに本気になり、ついに私を捨てたのだという噂は瞬く間に広がった。
リアーナは、笑顔の似合う可愛らしい女性だった。
私とは正反対の、女性。
悔しさなんて欠片もなかった。ただただ、エリオットにもう会えないという事実が、私を根本から打ちのめしたのだ。
「……会いたい」
ぽつりと、呟く。
言葉にしてみたらもう、ダメだった。心が痛くて、痛くて、胸元できゅっと両手を祈るように握りしめる。
それから私は壊れた機械のように、何度も何度も、会いたいと呟いた。
どうか、どうか、この気持ちがカラカラに干からびてくれますようにと願いながら。
それからしばらく経って、街中のカフェでリアーナを見かけた。相変わらず可愛らしい笑みを浮かべながら、友人なのだろう女性と2人で話し込んでいる。エリオット、と声が聞こえて無意識に耳を傾けた。
「そういえば、エリオット様とはどうなの?」
「どうって?」
「すごい噂じゃない」
「ああ……別になんにもないよ。私、遊び人とか嫌いだし」
「え? でも、仲良いんでしょう?」
「こう言ったらなんだけど、エリオット様のお兄様とお近付きになりたくて近付いたのよね。それなのに、あそこの兄弟仲悪いみたいで…どうしようかなって感じ。エキドナの事もあるしね」
「ああ、もうなにかされたの?」
「まだ、されてないけど……時間の問題だと思うのよね。今までだってエリオット様に近寄る女には悉くまるで制裁のように手酷いマネをしてきたのに、ついにエリオット様に完全に捨てられたって言うじゃない? 今までの比じゃないと思うのよ」
「確かに。あのエキドナだものね。お兄様を紹介してもらえないなら、もうさっさとエリオット様とは縁を切ったほうがいいんじゃない?」
「そうなんだけどね、もうすぐエリオット様のお兄様の誕生パーティーがあるのよ。それまでは我慢してみるつもり」
リアーナとその友人が笑いながらカフェを出て行っても、私はその場から一歩も動けなかった。
エリオットの幼い頃の泣き顔が、頭に浮かんでは消えていく。
エリオットは兄に並々ならないコンプレックスを持っている。エリオットの兄は優秀な人で、エリオットの両親もそんな兄だけを愛している、そうエリオットは子供の頃から、ずっとずっと思い続けているのだ。だからこそ、彼は本当の愛を探している。
そんな彼の傷を抉るような、リアーナの存在に思わず身体が震えた。
もう彼の、あんな顔は見たくない。
笑っていてほしい。
それがたとえ、私のそばじゃなくても。
リアーナと、話をしよう。
そう考えてからリアーナ宛に直接会えないかと何度も手紙を送ったけれど、嫌がらせが始まったと噂になっただけでリアーナに会えることはなかった。
そして、誕生日パーティー当日。
どこか浮かない顔をするエリオットと腕を組むようにして立っているリアーナに近付くと、彼女はサッと顔を青ざめさせた。
「ごきげんよう、リアーナ様。風邪だとお聞きしたけれどお身体は大丈夫なの?」
「エキドナ、様……」
「私、貴女にお話があるのだけれど、少しよろしいかしら?」
エリオットが怪訝そうに眉根を寄せる。
きゅっとエリオットの服をリアーナが掴むのが見えた。その手はカタカタと震えている。
「申し訳ございません、エキドナ様……私まだ体調が万全ではなくて、お話でしたらパーティーの後にしていただきたく思います……」
思わず、心の中で舌を打った。パーティーの後と言われてしまえば、それまで待てないと言うのは不自然だ。ぎゅっと両手を握りしめる。
「そうでしたの、それではまた後ほど」
去り際にエリオットと目が合った。
透き通るような青い目。美しい美しい青色。私の大好きな色。
ぶわりと、溢れそうになる得体の知れないものをぎゅっと押し込めるように、私は強く強く唇を噛んだ。
エリオットの兄が現れ、立食形式のパーティーが始まった。エリオットはまるでどこかが痛いような顔をしながら兄の顔を一瞥し、リアーナはキラキラした目を向けてエリオットの兄を見つめていた。
「エリオット様」
リアーナに名前を呼ばれたエリオットが嬉しそうに愛おしそうに彼女を見て微笑む。
「あの、私エリオット様のお兄様に……」
兄という単語を聞いただけで、だんだんとこわばっていくエリオットの顔を見た瞬間、私の中でなにかが弾けた。考えるより先に身体が勝手に動く。
ぱしゃり
辺り一面が、まるで水面に石でも投げ込んだかのように、しんっと静まりかえった。
目の前にはポタポタと髪の毛からアイスティーを滴らせるリアーナと、それを見てポカンと口を開けているエリオット。
「……なにを、なさるのですか。エキドナ様」
リアーナの声は震えている。こぼれ落ちそうなぐらい大きくて丸い目に、じわじわと涙が浮かび上がり、ぽたりと下に落ちた。可哀想なことを、した。
……けれど、後悔はない。
「ごめんなさい。手が滑ってしまって」
そう言って、ふとエリオットを見ると呆然とした顔のまま微かに口もとが、どうして、と動いた。
どうして?
私が、気に入らなかったからよ。
それ以外に理由なんてないわ。
私は私のためにしか生きられない。
あなたの泣き顔が見たくないなんて、そんなのただの、私のエゴだもの。
わかっている、わかっているの。
けれど、それでも、
「今……故意に、かけましたよね」
「まあ、なんてことをおっしゃるのかしら!私が故意に?わざとやったことだとおっしゃるの?」
「だって……っ」
「ひどいわリアーナ様……」
「ひどいのはどっちよ……」
「お召し物も汚れてしまいましたわね……体調もよろしくないようですし、お帰りになられたほうがよろしいんじゃなくて?」
リアーナがぼろぼろと涙を流しながら私を睨む。
ごめんなさい。それでも、私はエリオットがあの時のように泣かないでいてくれれば、他がどうなろうとどうでもいいの。たとえ貴女が恥をかこうと、エリオットの兄とお近付きになれなかろうと、私が悪女と罵られようと悪魔と恐れられようと。たとえ、エリオットに恨まれて二度と会えなくなろうとも。
そんな事はどうでもいいの。
ああ、けれど、エリオット。
どうか私を見ないでほしい。
きっと醜く歪むこの顔を、お願い、どうか、見ないでほしい。
ゆっくりとリアーナに近寄り、耳もとで囁く。
「エリオットのそばから消えてちょうだい。二度と私たちの視界に入らないで。そうじゃないと私、次は貴女になにをしてしまうかわからないわ」
にっこりと微笑むと、リアーナはひっと悲鳴を飲み込んで何度も何度も頷いた。
「帰りは、おひとりで大丈夫かしら?」
「は、はい、大丈夫ですわ!」
リアーナは顔を俯かせて、足早に去って行った。
「エキ、ドナ……」
エリオットが私の名前を呼ぶ。
その音を聞いただけで、ぶわりと鳥肌が立って、まるで熱でも出たかのように身体中が熱くなった。
身体の奥底からなにかが湧き上がり、目からぽろりとなにかが落ちる。
「っ、ぁ……」
エリオットが目を、大きく大きく見開いた。
慌てて頬を拭うけれど、止まらない。
暫し言葉を失ったように私を見ていたエリオットが動き出し、近付いて来るのが気配でわかって、私はぼろぼろと流れ落ちる涙をそのままに、素早く踵を返した。
なにか言われるのがこわかった。なにを言われても、きっと私は絶望するのだと思った。
私は卑怯だ。
本当は、なんの覚悟も出来ていない。エリオットに嫌われる覚悟も、エリオットから離れる覚悟も。本当に、なんの覚悟も出来ていない。
走って、走って、走って。
そして立ち止まり、振り向いた。追ってくる人は、いない。
濡れていた頬が乾いて、ひんやりと冷たい。
さよなら。
さよなら。
さよなら、愛しい人。
「エリオット」
彼の名前を小さく小さく呟いて、またひとり、泣いた。




