#縦と横──ケータイ小説考
一般書籍は右綴じ、ケータイ小説は左綴じ。最初手に取ったとき、ものすごく違和感があって、ちょっと試しにと開いてみたら、やっぱり駄目だった。
どうも、小説は縦書き、という先入観から抜け出せない……のは、私だけではないはずだ。
一方、変わってWEB小説。横書きが一般的だが、たま〜に、縦書きにしているサイトを見かける。横も縦も置いている、のではなくて、縦書きしか置いてない。うーん、PCや携帯では、横の方が読みやすいなぁと思ってしまう。
同じ小説でも、どこかが違う。縦と横、それぞれの読みやすさ。それは一概に、媒体のみで変化するのだろうか。
私は、字が詰まってるWEB小説を読むのは苦ではない。内容が面白ければ、必死に目で追う。(最近は時間がないため、それすらままならない現状ではあるが)それはPCでも携帯でも同じ。きちんと段組されていて、描写が丁寧ではっきりしていれば、尚良い。……まぁ、私の作風がそうなのだから、他人の小説を読むときもそう感じるだけなのか……、はたまた、私が両方扱うからか、定かではない。
強いて言うならば、私は小説は本で読む世代だったからだろう。WEBで様々な作品に触れるようになった今日でも、やはり基準は書籍の小説。ライトノベルに関しては殆ど読んだことがないというくらいなのだから、こればかりはどうしようもない。
しかし、世の中には様々な見解を持つ人々がいるわけで。小説作法に則った書き方や段組を推す者(私もこちら側に含まれるわけですが)と、いわゆるケータイ小説と呼ばれる空白を多用した小説を推す者が存在している。どっちでもいいじゃないですか、と言われると、そうですね、としか言えないが、この両者は、決して相容れようとしないのだ。
小説作法に則って書くWEB作家は、新人賞や文学賞へ応募する、プロ志向の人が多いと思われる。読書量も豊富で、普段読んでいる一般書籍に準じた書き方を尊重する。当然のように三点リーダーや段落前一字空け、感嘆符のあとの一字空けなどの基本的な書き方をしてくる。
原稿を送るときは、まず、縦書きに印刷するし、ルールを守った書き方をしていなければ、すぐに弾かれてしまう。縦書きの基本はあくまでも原稿用紙であるため、文章作法が殆どそのまま反映されているのだ。そういうシビアな現状もあって、他者の作品を読むときも、小説作法にうるさくなってしまいがちだ。
ただ、この書き方の場合、WEBではきちんとスタイルシート(読みやすくさせるために、行間や文字間の隙間を調節したり、レイアウトを変更したりするもの)を組まねば、とても読みづらいという欠点がある。何も考えずにテキストファイルをそのまま貼り付けたようなサイトは、今でこそ珍しいが……、文章量が膨大になればなるほど、目がチカチカしてしまい、即バックされかねない。
文字サイズ中〜大程度、文字サイズを固定しない、一行あたりの文字数を膨大にしない、見やすい色を選択する、などすれば、大体回避されるが、「元々文章を読みなれていない」人からしたら、ものすごく見づらいのだろう。
いわゆるケータイ小説はというと、改行が激しく、空白が多い。確かに、一文字一文字は読みやすいかもしれないが、絶対的文量が少ない上に、何度もスクロールしなければならず、いらいらしてしまう人もいる。
旧世代の私が携帯で読むときは、文字サイズ極小。このくらいでないと、スクロールが多くて面倒な上、全体像が捉えにくくて不便なのだ。それでも、世のケータイ小説と呼ばれる奴は、句読点のたびに改行や空白を繰り返し、ページ数の割りに全然物語が進まない……。携帯操作が苦手なのにクリック数が多くなると、別の意味でストレスが生まれてしまう。見やすいだの見にくいだのの前に、ページ数を見ただけで気が遠くなったりするのだ……。
一時期はパケ代がどうの言われたが、今は定額制が主だし、何回ページが切り替わったって、いいじゃん? ……という考え方なのだろうか。世代が違うからか、ちょっと理解できない。
1ページあたりの文字数が少なく、物語の密度が薄いと、それは単なる筋書きか独白になってしまうのではないか。そうなると、小説ではなく、詩やシナリオの一種だと揶揄されても仕方なくなる。
小説自体が、物語の起伏のみを楽しむのではなく、その奥に秘められた心の動きや葛藤、伏線などを楽しむものであると信じて疑わない世代は、私自身を含め、やはりケータイ小説には向いていないのかもしれない。
さて、話を戻し、この両者を縦書き、横書きの枠に入れてみる。
前者、小説作法に則った作品は、縦書き、横書きとも可能である。どちらにもそれぞれ読みやすさ、読みにくさがあるが……、ぎっしり詰まった文章が苦手でなければ、好きなほうを選択することが出来る。ハウツー本や教科書など、横書きの書籍は世にたくさん出ているし、縦書きといえば、小説や新聞、辞書など、どこにでも溢れている。
日本語は元々縦書きの文化であったが、近代以後、様々な遍歴を経て左から右への横書き文化も定着した。縦横どちらにも対応できる言語は少ない。文字の種類も豊富で、バランスが取れている。よって、単一種類の文字しか羅列しない言語(英語や中国語など)に比べたら、元々読みやすくなっているんじゃないかと思う。
それでは後者、ケータイ小説を、縦書きにして読んでみたことはあるだろうか。まず、そんなことをする人はいないだろう。実は縦書きにすると、極端に読みにくくなってしまう。ケータイ小説を書籍化するときに縦書きにしないのは、その独自の空白、改行が、横書きのときにしか効果を発揮しないからだと思われる。
つまりケータイ小説は、メール方式で発展してきたため、一行あたりの文字数が少なくてもよく、スクロールが難しくない「携帯」という媒体のためのものなのだ。
携帯のディスプレイは小さい。それ故、文字がぎっしり詰まっていると読みにくい。
適度な空白、適度な間隔──それは勿論、PCで読む場合も当てはまるのだが──、これが大切なようだ。
成り立ちも考え方も違う人間が書いている、WEB小説とケータイ小説。対象となる媒体さえ違うのだから、両者がいがみ合ったって、解決の糸口すら見えないのは当然だ。
以前も書いたが、それぞれ作者側の意図も違うのだから、わざわざ「あなたの書き方はおかしい」だとか、「読みにくい」と言うのは失礼なのかも。
と、ここで、一つ、私の体験談。
とある文学系の小説を拝読したが、(私はPCで読んだ)その書き方は、まるでケータイ小説だった。一行書いてすぐに空白、台詞の前後に空白。段落らしきもの(一字下げ)が見当たらず、せっかくの文章が台無しだと思えた。これは文学作品のつもりで筆者が書いたのであろうと、その旨指摘したが、本人は「ケータイ小説に準じた」と答えた……。
う〜ん。なんか違う。
私は自分の考えを押し付けるのは嫌だけど、その人はなんか、ケータイ小説を履き違えている気がした。前述の通り、ケータイ小説は独白や詩に近い。その書き方に準じて純文学を書くのは、ちょっと、変。
それぞれ、その書き方にしなければならない必然性があってそういう書き方をしているのだから、文学畑の人が何も無理してケータイ小説の書き方を真似る必要なんてないのに。携帯で読めるから、ケータイ小説ってのは、なんか、違う気がする。
ケータイ小説を馬鹿にするわけじゃないが、あの書き方には「多分」意図がある。空白も含め作品だというなら、やはり私の指摘した作品は、ケータイ小説にはなりきれていないし、なるわけがない。
横書きで、しかも携帯のディスプレイでなければ、緊張感や情感を発揮できないのがケータイ小説だとするならば、私はそのケータイ小説の世界に入り込めない類の人間だということで諦めようと思う。自分にしっくり来ない世界にのめりこもうだなんて、そんな厄介なことはしたくない。
世の中には「ケータイ小説は小説を名乗るな」という人もいるが、それならば最初から読まなければ良いのではないかとさえ思う。
少女漫画が嫌いだから少女向け雑誌を手に取らない、胡散臭いからスピリチュアル番組は観ない、という人もたくさんいるのに、ケータイ小説を嫌いなのに読んでいることを自慢するのって、おかしい。世の中にはそれぞれ、好みの分かれる問題があるのだから、小説(WEB小説も一般書籍もひっくるめて)とケータイ小説が同時に存在するのは悪いことじゃないんじゃない?
だけども、上記の純文学作品のように、ケータイ小説の中に紛れ込んだ文学作品がスイーツ小説好きの女子高生の目などに触れて嫌悪感を抱かれるように、WEB小説の中にケータイ小説もどきが混じっているのも事実。互いに「あ、ちょっと、何でそんなところに」と、つまはじきにされないように、文頭にでも注意書きをおいたほうがいいのかな、と思うこともある。
媒体が違っても、様々な作風が世に溢れるのは決して悪いことではない。表現方法や文章に「こうしなければならない」ことなどないし、縛り付ける必要もないと思う。それでも、読者側からしたら、自分の好みに合った作品にいち早く辿り着きたいと言う願望は同じ。ハズレくじは誰だって引きたくない。
以前視覚的効果の回でも書いたのだが、イメージや画像などの第一印象で人は作品やサイトを選びやすい。となれば、文章においても、空白の取り方や行間・段落の有無で無意識に読む小説を選んでいるのではないか。
そうなってくると、ケータイ小説世代の者が行間無し本格的小説の冒頭を携帯ディスプレイで見てしまい、不快感を覚えて即バックすることも、ケータイ小説を読んだことがない大人が初めてそれらに接し、「これは小説なのか詩なのか」と小一時間問答するのも頷ける。そうやって無意識的に、自分に合った小説を文字の塊が作り出す視覚的イメージで選択しているのではないだろうか。
こうして読者がWEB上の小説と対峙していることをふまえて、自分の作風が小説作法に則ったラノベや文学系の作品であるならば余計な空白は作らない、とか、ケータイ小説ならば思い切ってプロローグからスイーツにしてしまうとか、──作品の意図にそぐわない読者を排除する努力は少なからず必要なのかも。
入り口で失敗して、「あ〜、なんだ、書き方からして真っ当なラブコメかと思ったら、スイーツばりばりのケータイ小説かよ」とか、「甘々期待してたら、どうも純文学みたいなんで萎えました」とか言われるよりもマシ……かな、なんて。
文章作法がどうのこうので突っ込まれてムッとした、私の作風はこうだから、余計なこといわないで! って気持ちもよくわかるけど、読者としては、せっかく読むのだから失敗したくないんだよね。
だとしたら、やっぱり入り口ですぐに作品の対象がわかるようにした方がいいのよな〜。そうくると、あらすじの書き方からプロモーションから、作者の宣伝方法が上手く言ってる作品にはそれ相応の読者が付いてるし、その辺うらやましくはあるんだけど、私はそういうのが苦手で損をしているのかも、と、この記事を書きながら自己嫌悪に陥っていくのであります。