#数足の草鞋
なかなか作品を仕上げられず、代表作を足掛け十年も書き続けている。仕事をしながら、家庭生活もあり、様々な障害もあったりと、続けることだけに意義があるような状態だから如何ともしがたい。せめて休んでいる間はと筆を進めようとするが、上手くいかないのが現実だ。
それでも、少しずつ新しい作品をと思って、暇を見つけては短編や中編の小説を書き下ろしてみたり、公募に出したりしている。ひとつの作品に固執しすぎるのは、もしかしたら自分の目線を固定してしまうんじゃないかという懸念があるからなのかもしれない。
私はどうも、一つのことに集中して、ばっと仕上げてしまうようなことが苦手で、あれもこれもと、欲張って手を伸ばしてしまう。作業は大抵二つか三つ同時進行。どうしてだろう、頭の中で、優先順位を組み立てているはずだが、「いずれ終わればいい」という気持ちがどこかにあるのだろうか。
インスピレーションが沸いて、どわっと書きたくなったら、さっさと仕上げる方法も、少しだが身についてきた気がする……が、それでも、いくつか同時進行している。
料理を作るとき、頭の中に献立が出来ていて、材料をどの順番で切って、どの順番で茹でていけば、炒めていけば、まな板とコンロの使用効率が良いのかとか、いつの間にか考えている。一つ一つ完成させていけばよいのだろうが、時間のない主婦はそうは行かない。どんなに長くても1時間くらいで、今ある食材から献立を考え、実際調理し、盛り付けなければならない。(と、私は勝手に決めている)
肝心なのは、決められた枠内で最大限の効果を引き出さねばならないこと……、せっかく作ってもおいしいといってもらえなければ、調理の1時間はなんだったのだろうということになってしまう。
小説だって、自分の今ある知識、経験をうまく使って、そこに資料という名の材料を上手く調理して作品に仕上げていっているはずだ。面白くするのは腕の見せ所……であるに違いない。
一つを丁寧に作りこむのに長けている人は、強いと思う。それ故、思い入れも出てくる、愛着も湧く。
では、二つ以上を同時進行するのは愚かしいのかというと、そんなことはない。要は、それぞれの作品との付き合い方なのだと思う。
連載中止や途中放棄をしてしまうのは、結局、この、「数足の草鞋をうまく履けない」状態からくるのだろう。あれもこれも、アイディアがあふれ出して止まらなくて、気がついたら、回収できないくらいの伏線と、膨大な量のネタに、どうしていいかわからなくなってくる。頭の中で整理しようにも、どうにもならなくなってくるものだ。
プロットがしっかりしていないと、そういうことに陥りやすい。以前も書いたが、始まりと終わりが決まっていないのに、途中経過をつなげていけば何とか物語が成立すると思って書いている場合。自分の中で固まっていないものを形にするっていうのは、かなり危険な行為だ。行き当たりばったりっていうのは、案外当てにならない。
しかし、プロットばかりがしっかりしていて、それに沿って書かなければならないという硬い考えを持ってしまうのはもっと危険な行為だ。
物語が動き出し、キャラクターに性格がしっかりとついてくると、作者の予期せぬ方向へ連れて行かれる場合がある。このようなときに、焦ってプロット通りに進行しようとすると、キャラクターが死に(死亡する、ではなく、輝きを失うということ)、物語自体が頓挫してしまう。
料理中に調味料の分量を誤り、必死にもとの味に戻そうと色々と別の調味料を足したり、水を足したりしているうちに、気がついたら思った以上の味が出るときがあるが……、それと同じことで、何も、無理やり元に戻す必要などない。キャラクターの暴走が、もしかしたら最終的には良い結末を生むのではないかと、期待してみるのも良いのではないか。
また、いつもの癖で全部肉料理になっていた、というのは寂しいから、少し野菜料理も作ってみるか、とか、スープであっさり感を出さなくては、とか、そういうつもりで、いくつも作品を同時進行させている人もいるだろう。AとBでは全く違う味、それの意外性がスパイスとなって、両方の作品のよさが引き立ってくる。そういうのが理想的だなぁと思う。
書いている話が全部同じ作風だとして、そういうのを求めている人にとっては、安心できる作者だ、というのもまたよし。しかし、一つにこだわっている場合は、その中でも更に細かいバリエーションやアレンジを求められるのだから、実はかなり大変。広く浅く、より、狭く深く、というのは、技術やセンスが求められる。どの業界だって同じことだ。
ただ、いつも作品が同じイメージで、なんの捻りもないと思われるのは心外。
(話は勿論それぞれ違うにしても)どの主人公もおんなじ顔なんだけど、で有名な、某あ○ち充とか。あの人は、ある意味すごいと思うのだが、私だけだろうか……。
いろんなアレンジが出来るという強みを、数作掛け持ちという状態に生かせたのなら、鬼に金棒なんだけども。なかなか上手くいかないものだ。
更新をとにかく急がねばと思っていても、自分には社会生活というものがあって、学生やニート、まるっきりの専業主婦には到底追いつけない。見えない「壁」がそこにはある。だからといって、自分がそのような立場になれるかといったら、お断りだ。社会生活を送ったことで得た経験が、作品を生み出す上での要素なのだし、勿論、そうしなければ生きていけないのだから。
結局のところは、自分という人間が、「会社員」「主婦」「母親」「妻」「物書き」「絵描き」などのいくつもの面を自在に操るように、数作の掛け持ちを上手く完成までもっていくしかない。Aでは見せるが、Bでは見せないマジックを、効率的に発揮できる器用さが必要なんだろうなぁ。
「器用貧乏」という言葉を私はよく使うが、はてなダイアリーには、「大概のことを並かそれ以上でこなせる反面、突出して優れた分野も持ち合わせていない人、又はその状態。全てにおいて1.5流」とあった。
自分では何かに秀でたいと思っていても、どれもそつなくこなしてしまい、結局、得て不得手が全くわからない。一極集中型の人間には絶対に勝てない人種だ。
一つずつ作品を仕上げていけば負わなくてすむリスクをあえて負ってしまう「器用貧乏型創作者」。「数足の草鞋」をうまく履きこなせなければ、共倒れになることを常に心に置いて、日々励もうではありませんか。