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ボクはキミのことが大嫌いだ

作者: 佐伯歩海

   

『ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ』

 

目覚まし時計のアラームが鳴る。

長い梅雨が終わり、本格的に夏を迎えた今、寝ているだけでも大粒の汗が体を流れていく。

うだるような暑さと眠気の中、夏樹は目覚まし時計のアラームを止める。

時計の針はちょうど10時を過ぎたところだった。

「うるっせぇなぁ」

まだまだ寝ていたいが、かといって熱気のこもる部屋の中、ベッドの上でじっとしているのも辛い。夏樹はベッドの上でグズグズしている。

そこに、もう一度目覚まし時計が鳴る。


『ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ』


健気に鳴る目覚まし時計をふたたび止める。

「わかった。お前の勝ちだよ。わかったよ。起きればいいんだろう?」

眠い目をこすりながら、ダラダラとベッドから起き上がった。

目覚まし時計のアラームがなくなると、今度は蝉の声が耳に入ってきた。

「きみたち、朝から、元気いっぱいだな」

窓まで歩き、カーテンを開けると、いっぱいの朝日が飛び込んできた。

「まぶしっ」

部屋に籠る、むっとした空気を喚起しようと、窓を開ける。

熱を帯びた汗臭い空気は一気に部屋の外へ流れ出る。代わりに、ほのかに涼しい風が部屋に滑り込んできた。額や首筋、体中に汗が流れている今、この風はすこしだけ心地がいい。

「夏だねぇ」

夏樹は自分の部屋を見回す。

古い木造アパートの一部屋で、六畳ほどしかない。家具も冷蔵庫やちゃぶ台、テレビ、ベッド、小さな本棚を置けば、手一杯だ。あとは、申し訳程度に備えついている流しがあるくらいで、風呂と便所は部屋の外にあり、共同だ。また、この部屋にはエアコンがない。あるのは、旧式の扇風機だけだ。部屋は東に面しており、この時間にいつも日があたり、一番暑くなる。



夏樹は、地方の国立大に通う3回生だ。経済学に所属し、経営・マネジメントなどを学んでいるが、1回生の時に、マルクスの「資本論」やアダム・スミスの「国富論」を読まされたあたりから、大学の講義に少しうんざりしていた。

とは言え、夏樹は講義をそっちのけで大学生活を楽しむわけにはいかなかった。


夏樹の父親は、造船所で働いている。

円高で製造業、造船業が芳しくない時勢だ。一労働者の収入は当然、芳しくなく、家計に余裕はない。そのことは再三、両親から言われている。

「おれが稼ぐ金はおれの血と汗でできている。労働で得たその金は尊いが、如何せん多くはない。だから、お前が大学に行きたいのであれば、国公立しか許さん。私立なんて行く金は、おれと母さんが逆立ちしても出てこんぞ。滑り止めも浪人生活も絶対許さん。夢のキャンパスライフを送りたければ、死ね気でかかれ。お前の鉛筆とノートはおれの血と汗でできていることを忘れるな」などと言う。お前は星一徹か、と夏樹はしばしば思う。夏樹の両親は高校を出て就職して、働き始めていた。大学に行く必要性をあまり理解していなかった。また、昨今の大学生を見ながら、

「自分の稼ぎ以上の生活をするような、甘やかされたへなへなどもが社会に出て、いったい何の役に立つんだ」と厳しい。

夏樹は父親の言動や考えには自身の学歴や収入へのコンプレックスもあるのだろうな、と考えている。しかし、学も金もない厳しい父親だが、義理人情には厚かった。

あるときは、家には金がないくせに、人から無心されると、その金をつくるために奔走し、そのたび、母親と口論になり、夏樹や祖父母が間に入り、仲直りさせた。

また、あるとき、造船場の若造が恋わずらいで、うじうじしていると、間を取り持つために相手のところまで奔走し、その結果、仲人をすることにまでなった。

見知っている者が困っていると、ほってはおけない。端から見ると、面倒見の良い善良な人間にみえるが、うまくいかないところのしわよせは、いつも家族が片づけている。当然、家族は父親のこの癖を疎んで仕方がないのだが、当人はまるで意に介さないのだから、恐れ入る。ともかく、夏樹の父親は、家族からは煙たがられるが、造船上の仲間やご近所さんからは大変に人望があった。

「Love&Peace、世界に平和を。お父さんに愛情を」

夏樹も、人に頼まれると、嫌なことでも文句を言いながらも手伝ってやるところがある。そういう面倒見のよさは、父親から来ていることを自覚していた。そんな父親を、夏樹は嫌いではなかった。

 


夏樹は、扇風機の電源を入れ、麦茶を飲もうと、冷蔵庫を開ける。

しかし、ペットボトルの麦茶はほとんど入っていなかった。 

昨夜、寝る前にがぶがぶと麦茶を飲んでしまっていた。昨夜のうちに新しいお茶を補充しなかったことを思い出す。

「あちゃぁ・・・」

仕方なく、グラスに水道水と氷を入れて、ゴクゴクと音を立てて飲む。

「む」

首のあたりが痛む。寝ている体勢が悪かったのか、寝違えたらしかった。

それに加えて、鏡を見ると、頬には赤く何かの跡がついているのが見えた。形から見て携帯電話の跡だった。ほほの下に敷いてしまったのだろう。

酔っていたせいで、覚えていないが、すこぶる寝苦しかっただろうに。

 「何か今日のおれはついてねぇな」


朝からどうも気分がのらない。

こういう時、夏樹はたいてい大事な約束を忘れている。大学の臨時講義だったり、バイトのシフトだったり、友人との約束だったり。

「何かありそうなんだけど、なんだっけなぁ」

カバンから手帳を取り出し、確認するが、何も書かれていない。講義やアルバイトではないようだ。少し、ほっとする。

今日は日曜日。前日の土曜日は友人の部屋で安酒をあおり、バカなことを言い合い、サッカーゲームで盛り上がった。

そのゲームの最中に誰かから、連絡は来ていやしなかったか・・・。

携帯電話の着信履歴を見て、飛びあがる。

「あああ!そうだ!!堀井と約束したんだった!!やっべぇ!!」

時計の針をあらためて見直すと時計の針は10時20分を過ぎている。

堀井との待ち合わせは11時に駅前だった。身支度に10分。待ち合わせの駅前まではここから20分かかる。

今出れば、間に合う。

「あっぶねぇ。遅れたら、堀井にギタギタにされちまう」

あわてて着替えを取り出し、寝巻にしていたTシャツとジャージを脱ぎ始める。

「あいつ、自分が遅れても何にも言わせねぇくせに、俺には容赦がないもんなぁ。やるせねぇ。・・・あ」

Tシャツとジャージを脱ぎながら、夏樹は自分の汗のにおいに気がついた。

そこで、一瞬、考えをめぐらす。

汗臭い状態のままで約束の時間に間に合うことと、時間に遅れても、多少、清潔な身だしなみで待ち合わせ場所に向かうことを、頭の中で天秤にかける。

「寝汗かいたまま、汗臭いまま、行くのはさすがにダメだろ。そのまま、汗臭いまま一日を過ごすのは、もっとダメだろ」

後者を選択し、詫びの一言を添えたメールを送り、急いでシャワー浴びる。

「すまん!堀井。許せ!たまには俺を許せ!いや、いつも許せ!!」

シャワーを浴び終え、急いで着替えるが、なかなか髪が乾いてくれない。

時計は10時40分を過ぎていた。時間は一刻一刻と過ぎていく。

携帯電話に着信があるが、夏樹は怯えるばかりで出ない。

「うわぁ、堀井だ。怒ってる、絶対怒ってるよ、こえぇ・・人にやさしく、俺にもやさしく」


         *


堀井から着信があったのは、昨日の深夜だった。

そのとき、夏樹は友人の隆次の部屋でサッカーゲームで盛り上がっていた。

その日まで、講義の中間試験があり、その打ち上げだった。

安酒と適当にスナック菓子とつまみを買いあさり、二人で夜通し飲んでいた。

「夏樹、電話なってるぞ」

「え?あ、ほんとだ。」

夏樹は携帯電話の液晶を開き、着信の相手を確認した。

堀井玲奈だった。

嫌な予感がした。

深夜に堀井から着信があったとき、必ず厄介事が付きまとっている。

いや、堀井と関わって碌なことがあった試しがない。


         *


堀井玲奈とは大学に入ってから、知り合った。

天真爛漫という言葉がぴったりの女の子で、いつも自分を中心に行動し、人を騒動に巻き込むのを常とした。しかし、不思議なことに、騒動に巻き込まれれば、巻き込まれるほど、相手は堀井と仲良くなった。天然の人たらしと言えば、そうであった。

彼女の困ったことは、挙げればきりがないのだが、一番は惚れっぽいところにある。

彼女の引き起こす騒動の多くは恋煩いであった。片思い、横恋慕、三角関係など。

夏樹は、堀井がいつか誰かに刺されやしないか、ひやひやしている。

ただ、そうした面倒がつきないほど、彼女は外見に恵まれている。

彼女は小柄ながら、すらっと細見でスタイルがよく、色白の脚はかもしかのようである。

その顔には高く伸びた鼻筋と、大きな二重の瞳がきらきらと光る。

彼女の視線と合えば、どの男子学生もどきりとさせられた。

そう、彼女はよくも悪くもいつも大学内で話題の中心であった。

そんな彼女とよく連れ立っている夏樹は男子学生の嫉妬の的で、しばしば嫌がらせを受ける。夏樹と堀井との間柄は、けっして周りが思っているような『いい仲』ではない。

堀井にとって、夏樹は体のいい友達にすぎない。


夏樹が着信にためらっていると、人の好い隆次が心配してくれる。だが、このタイミングでは、余計なお世話だったのだが。

「おい、電話の着信、ほっといていいのか」

「あ、えーと、いいんだ。どうせ碌な用事じゃないんだ」

「でも、お前、こんな時間にかけてくるなんてよっぽどじゃないのか?しかも、相手は女の子だろ?おれ、ちょっとタバコ買ってくるからよ」

「いいんだって、気にしなくて。おい・・・」

隆次は、夏樹の話を聞き流しがら、財布と携帯電話とを手に部屋を出ていく。

「隆次、お前、すげぇいいやつだけど、ちょっと惜しいんだよ。はぁ・・・」

気をきかせて出て行ってくれた友の気遣いを無下にするわけにもいかず、いまだ鳴り続ける着信に応答する。

「はい、もしも・」

「さっさとでぇぇや!このアホぉ!このバカ夏樹ぃぃぃ」

「声でかいよ!」

夏樹一人だけになった部屋に堀井の声が響く。怒鳴られてじんじんするが、耳ざとくきづいてしまう。

「堀井、お前泣いてんのか?」

「泣いてへんし!全然泣いてへんし!アホ」

堀井の声は、やはり泣き声だった。

「出なくて悪かったよ」

電話越しに堀井の嗚咽が聞こえてくる。

「ほんまやで。こんな状態の女の子、無視するなんてありえへんやろ」

「そういったって、お前、今2時だぞ?」

「起きてたくせに。それに特別出られへん用事があったわけでもないやん」

「決めつけるなよ」思わず、苦笑する。

「いや、そうに決まっとる。夏樹のことはよくわかってるからね」

堀井はそんなことを言う。

「で、どうしたんだよ。どうせ今ぐでんぐでんに飲んでんだろ?」

結局、堀井に水を向ける。自分に得のない事だとわかっていても、夏樹は頼られるとほっておけない。

「これが飲まずにいられるかって話なんやんか!」

「おう。で、どんな話だ?」

「うん。聞いて。それがな・・・」

堰が切られたように、勢いよく堀井は愚痴り始めた。



「つまり、またふられてしまったわけだ」

「またって言うなや!」

 男子学生に人気の堀井だが、その天真爛漫さゆえに、耐えきれずに去っていく男も多かった。

「てか、ちゃんと話聞いてた?私からふってやったんやって!」

実際、夏樹は半ば上の空で話を聞いていた。

「聞いてた。ものすごく堀井の話を聞いてた」

「怪しい。・・・ま、ええわ。ほんでな、その男の最悪なんがな」

「ほう・・・」

堀井は話にはオチを用意したがる。自分が話すときは必ずといっていいほど、オチを用意する。実際、話を組み立てて話すのか、話しながら組み立てているのか、判然としないが、毎度ながら、夏樹は感心する。

「ごっついドぎついマザコンやってん!」

「いまどき珍しくはないだろ。少し引くけど」

「そのレベルがハンパないねんて!」

「どれくらい?」

「初のデートに母親が同伴やってん!」

「げ!」

「ありえへんやろ!?ふつう、親と会わすなら、親と会ってほしいんだ、とか前フリあるやん?相手の親に会うのにすっごい心の準備もいるし、服装だって、そのことを意識してコーディネートするやん?突然やで?それも」

「初デートに親が同伴て・・・親もその彼の考えが理解できんなぁ」

「やろ?」

「うん。それでデートはしたわけ?」

「うん。彼、ほんまいい人やったんよ。ま、食事何回か行ったくらいなんやけど、なんか事情もあるかもしれんから、ちゃんと我慢してん。ようやくの初デートやったけど」

「マジか!えらいな!俺なら、大分気持ち冷めるけどな。どんな事情があったら、母親がデートに同伴してくんだよ」

「もしかしたらな。初デートだからこそ、親に試されとん、と思ってん。うちの大事な息子をたぶらかすのは誰や、みたいな」

「試されたのなら、受けて立ってやろう、と思ったわけだ」

「悔しいやん?なんかそこで引くのも。やから、私いい彼女を一生懸命演じたんよ。三人でお茶して、三人で映画見て、三人でレストラン行って・・・絶えず、笑顔で話が途切れんようにがんばって、やのに。あのババア、一見笑ってんねんけど、目の奥は笑ってないねん。」

「マザコンの母ってそんなんだろ。てか、めずらしく健気な女の子やってるじゃん」

「誰が珍しく健気や!」

「で、それだけ、好きだったのに、ふったわけだ?そのあと、うまくいかなかったの?」

「そのあとがありえへんねん!レストランで夕食を終わった後、ババアが帰ろうとしてん。『あとは二人で』的な。そこで、『あ、いやなヤツやったけど、ちゃんと誠意は伝わってんや』と思ったんよ。」

「それで、仕切り直しにどこかへ行くわけだ」

「そう!やのにな!そしたらな、『僕も帰る』って。『ママと一緒じゃないと寝られないんだ』なんて言うねんで!」

「うげぇぇぇ!ひどいな・・・」

「さらにそのあと!そのあとな!ババアがちらっと私を振り返ってニヤっとしてん!!」

「あぁぁぁ、それは、それはひどい・・・」

「・・・もぉぉ、あんまりショックやったから、私、ぽかんと口開けてそのまま立ち尽くしてしもうて・・・一人でレストランの前で取り残された時の私の気持ちっていったら・・・もぉぉぉ、うぅぅ」

堀井は、しばらく電話口で嗚咽していた。

それから堀井は、翌日、気晴らしにご飯に行こうと強引に約束を取り付けて、電話は一方的に切られた。

堀井の気持ちに同調したわけではない。しかし、夏樹の気分も落ち込んでいた。

そこへ隆次が部屋に戻ってきた。

夏樹が時計を見ると、通話して一時間を超えていたことに気が付いた。隆次は電話が終わるまで時間をつぶしてくれていたのだろう。

隆次は、夏樹の表情を見るなり、委細を聞かずに言った。

「夏樹、飲もう」

隆次は夏樹の心境を察しているようだ。

「お前が女子だったら、ほっとかないわ」

「気持ち悪いわ」


          *


11時を遅れること、20分。

夏樹は、堀井との待ち合わせの駅までたどり着いた。

堀井からの着信を恐怖から無視したわけだが、電話口で話すより、直接話す方が表情や雰囲気の相乗効果で少しは許してもらえないかなど、考えている。

そして、必死に駅前を行き交う人をきょろきょろうかがっているわけだが、夏樹を待っていた事実は、予想(希望)を裏切った。

堀井は待ち合わせ場所にいなかった。


しまった!

着信はとらない上に、待たせすぎたために、家に帰ってしまったかもしれない。

もしくは、単に暇つぶしのために、駅付近をうろついているかもしれない。

夏樹は、あわてて堀井に電話をかける。


プルルルル。

プルルルル。

プルルルル。

プ。

「あ!もしもし、堀井?おれ。おれ、その、えーと、あれ、おれ、夏樹だけど・・・」

「ただ今、電話に出ることができません。御用の方は、ピーという音の後にメッセージをどうぞ・・・ピー―――」

電子音が鳴ったところで夏樹は電話を切り、深くうなだれ、ため息をつく。

堀井が電話に出ない。着信に気づいていないのか、それとも、出ないのか、出られないのか。

待ち合わせの最中、携帯電話に気を払っていないことなどありえるだろうか・・・堀井なら、有り得る。待ちぼうけをくらったことへの腹いせに電話に出ないこともあり得る。

妄想と邪推は広がるばかりで、夏樹は駅の構内で頭をかかえ、煩悶とうなっている。

端から見ると、変人であること、疑いようもないくらいの挙動不審なのだが、それさえ顧みる心の余裕は今の夏樹にはない。

「まいったな、どうしよう・・・」

とりあえず、駅構内の売店や間近のコンビニを片っ端からあたるが、堀井の姿は見当たらない。彼女のお気に入りのカフェや、アパレルショップまで足を延ばしてみるが、見当たらない。

時計を見れば、12時を過ぎており、一時間近く、駅の周辺を走り回ったことになる。ここで、夏樹はもう一度、堀井に向けて電話をかける。しかし、つながらない。

「電話にゃ出ないし、どこにもいないし、どうしようもないっつうの」

そうぼやきながらも、夏樹は走りながら、堀井を探し続けた。



真夏の炎天下を小一時間、夏樹は走りっぱなした。

そのせいで、来ていたTシャツは汗まみれだ。部屋を出る前に汗を気にしていたのは、もう無駄である。おれ、なにしてんだ、とあきれるが、そもそも約束に遅れた上に、着信も一度無視した自分が悪いか、と思い直す。

すると、ふたたび、堀井に対しての申し訳なさが、心の中に広がりだし、ますます夏樹はしんなりしてしまった。

途方に暮れながら、駅構内の待合室の椅子に腰かけようとしたその瞬間、携帯電話に着信が入る。相手は堀井だ。すぐさま応答する。

「もひもひ!」

あわてて電話に出たため、噛んでしまった。

「もひもひ言うてるやん」

「ほっといてくれ!」

堀井は笑いながら言う。夏樹は噛んだことを流してもらえなかった。汗だけでなく、恥もかいてしまったが、思いのほか、堀井の機嫌は悪くないようだ。そのことに安堵する。

「それで、夏樹どないしたん?」

「え?」

「え?やあらへんて。あないなメール送ってきて、挙句、何度も着信かけてんやん?」

「・・・いや、だってさ。今日さ、昨日の約束でさ・・・」

夏樹は、堀井の言葉にあたふたした。

「昨日の約束?夏樹なんかあったん?」

「いやいや!電話をかけてきたのはそっちだっつうの!すごい剣幕で・・・」

「え?うそやん?・・・そんな記憶ないのに」

「なにっ!?覚えてない!?」

「ちょっと待ってや。えーと。あ、ほんまや。私かけてるわ。夏樹、昨日、私、君に電話かけてるわ!」

「それは今おれが言ったし!」

「なるほど。まだまだ私の中には、私が知らない私がいるようやね」

「アルコールを飲まなければ、出会わずに済むよ」

「そうか、飲んだ後に夏樹に電話したんか・・・覚えてないわ。しこたま、飲んだからなぁ。あ、それで、私なに言ってた?」

堀井は、少しバツが悪そうに、けれど、あっけらかんと言う。

これまでの疲労が急に襲ってきて、夏樹は膝がくだけた。

覚えてない!?ここまで、ひっぱりまわしておいて!?

しかし、覚えていないからこそ、夏樹はいま無事なのでもある。

約束を覚えていたら、夏樹は今、堀井にギッタギッタに罵詈荘厳を浴びせられているだろう。そう思うと、夏樹の心境は複雑だ。

この徒労も半分は自分のせいだ。しかし、とりあえず、その点は棚上げする。

「もひもーひ?もひもひ、夏樹くん?」

「あ、うん。悪い悪い。・・・お前もなかなかしつこいな」

「それで、昨日の私の電話なんやったん?」

「ああ、ええと。」

一瞬、夏樹はどうこたえるか、迷い、そして言った。

「なんも。酒に酔った勢いでかけてきたみたいで、内容のない話でくだをまかれて終わった。」

約束の件は、堀井が覚えていないことのをいいことにうやむやにすることにした。

「なるほど。・・・じゃあ、夏樹のあのメールは?」

「隆次に送るメールを間違えって送ってしまったみたい。その説明で電話をしたんだ」

「何件も着信があったけど、そんな説明に必死になる必要ある?」

「男にもいろいろあるんだ!」

「いろいろって?」

「いろいろだよ!察してくれ」

「怪しすぎるやろ、あんた。あははは。ま、なんでもないなら、ええわ。さっき電話で誘われてんやけど、私この前仲良くなったアパレルショップの店員さんとご飯行くねん。めっちゃ背高くて、おしゃれやなんで!なかなか話がおもろいあたりも高得点やわ」

「おえぇ!?堀井、ちょっと待て!!お前、もう『次』の男に行くのか?」

「・・夏樹、なんで私が、昨日あのマザコンくそ野郎と別れたこと知ってんの?」

堀井の機嫌が曇った。油断が過ぎた。しゃべりすぎた。

「いや、その・・・なんとなく」

夏樹は、しどろもどろになりながら、言う。

「由美か。ほんま由美はなんでもかんでも夏樹に話しよるな。それも昨日のトピックとかタイムリーすぎるやろ」

由美とは、夏樹と堀井の共通の友人の北村由美のことである。

北村はことあるごとに、夏樹に堀井の近況を漏らす。

いつも笑いながら、意味ありげに、一方的に、北村は夏樹に堀井のことを報告していく。

そのくせ、由美自身のことは一切語らないし、質問さえさせない。

「違う違う!、北村は関係ない」

「その必死さはあたりやな。かばっとるのが、もろばれや。嘘が下手やな、夏樹は」

「いやいや違う、いろいろ違うって!」

すっとけぼたやりとりに思わず苦笑する。

「ま、ええわ。あんな趣味の悪い男なんて振ったその日で吹っ切れたわ、なははは」

その男を吹っ切るために、泥酔した挙句、泣きながら、わんわんとおれに愚痴を聞いてもらったのはどこの誰だ、と苦笑する。

「由美は後日に焼き入れなあかんな。ほな、行ってくるわ!ほな」

「ああ、じゃあ」

その声には、元気と爽快さに満ちていた。そこには、昨日の切実な悲しみに打ちひしがれた様子は一片もない。

男は過去の恋愛をカードのように横に並べてしまうものだが、女性は上に積み重ねていくそうだ。

それゆえ、過去の相手は女性当人には、もう見えていない。女性にとっての相手は、常に今なのだ。

以前にそんなことを誰かに言われたなぁ、などと考えながら、暗く淀んだ気持ちが夏樹の心を埋め尽くす。



まったく、お前ときたら、俺のことをコンビニエンスストアで売ってある携帯電話の充電器くらいにしか、考えていないのだろう。

普段は使わないけど、ちょっと困ったときだけ使うもの。使った後は忘れ去られ、捨てられる。ちょっと何かあったら、愚痴の掃き溜めに使ったり、つまらないことの使いっぱしりにする。俺がお前に振り回される様は、外から見ると、それはそれは滑稽だと思うよ。

お前は、俺の気持ちなんて、少しだって考えてくれた試しなど一度もない。

本当にひどいヤツだ。

まったく、本当にお前ってヤツは、強引で周りに気など使わないわがままなお嬢様で、すぐに面倒なやっかいごとを引き起こすトラブルメーカーで、後先考えずに動く、本当はイノシシの血が混ざっているんじゃないかってくらい猪突猛進で、危なっかしくて仕方がない。

・・・でも、本当はすごく繊細で、誰よりも傷つきやすく、すごく純粋で、一途で、一度好きになった相手は、相手のゲップだって愛さずにはいられない・・・。

まったく、お前ってヤツは本当に、どうしようもない。


だから。

だから、俺はお前のことが大嫌いだ。



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