奴隷歌姫、歌って踊る。
鬼教師、もといオズとのダンスに神経をすり減らした私は、今度こそ休もうと中庭の奥へ奥へと歩いていた。当の本人は、踊っている姿に感激したエレアにダンスに誘われていた。「やはり、私の目に間違いはありませんでしたわね!」とかなりテンションが上がっていたようで、何よりです。
ああ、それにしてもすごく疲れた……。私もそこそこ長く生きてきた身だけれど、こんなに長時間踊りっぱなしなことなんて一度もなかったからね。最近鍛えるようになったから筋肉痛はきっとならないだろうと思うけど、疲労感がとてつもないです。
夜中のひやりとした空気が、踊って火照った私の体を包み込む。中心部から離れて中庭の奥の方へ来たから、私以外に人はいない。ダンスホールになっていたところは雪が魔法で溶けていたけど、ここは積もったままだ。誰も踏んでいない新雪だから、一歩一歩踏み出すと、ぎゅむ、ぎゅむ、と靴の底が鳴っている。うっかり滑らないようにしないとね。
ほけほけとしながら宙を見上げた。明かりが煌々と灯っていたダンスホールとはうってかわって、足元を照らす光がぽつぽつとあるだけだからだろうか。星空がとてもよく見える。
アインスリーフィアにきてから忙しすぎて、星空を見上げるなんてことなんてあまりなかったけど、やっぱりいつ見ても綺麗だね。奴隷時代はよく見てたなぁ。ま、今も誰かさんの奴隷のようなもんだけど。……そういえば、棗や桜子とも一緒によく見てたっけな。
──棗、桜子、父さん……私がいなくても元気にしているだろうか。ちゃんとご飯食べているだろうか。
そういえば、ちゃんと考えたこともなかったけど、この世界とあっちの世界は同じ時間が流れているのかな。この世界を救えばもとの世界にも戻れる、ってイーリス様は言っていたけど、私は今あっちの世界ではどのような存在になっているのだろう。本当に、帰れるのかな……。そもそも、この世界を救うことなんて……できるのかな。それでも、もう一度だけでもいいから。一目だけでもいいから──
「……あいたい、なぁ」
「え、誰に?」
ぽつねんと呟いたので、返事がくることなんかなかったはずだった……のだが、上から声が降ってきた。上? そういえばここ、私を中心に丸く囲うように、大きな枯れ木が数本あるけど……。
「やあ。君も涼みに来たの?」
見上げると、目の前の枯れ木の枝に誰かが座っていた。黒いうさぎの和風の仮面をつけていて、服装は着物の下にシャツを着て、袴を履く、いわゆる書生さんだ。声からして男の人だろう。まあ、姿形が変えられるから本当に男の人かは分からないけど……。
黒うさぎ仮面の人は、木の枝からひょいと降りてくると、近づいてきた。枝に座っていたときから思っていたけど、足がスラッとしていてかなりスタイルがいい。羨ましい限りである。
「あっち、人が多くて少し暑いしねえ。僕も逃げてきちゃったんだ。ここは静かだし人はいないし、ダンスホールの明るい光が綺麗で良いスポットなんだ~」
「でも、その格好だと寒くないかい?」と、黒うさぎ仮面の人は羽織っていた外套を私の肩にかけてくれて、「君、とっても綺麗な髪と瞳をしているね」とにっこりと人懐こそうに微笑んだ。
その微笑みと爽やかな雰囲気、そして柔らかそうな明るい茶髪に、妙な既視感を覚えた。……そういえば、このうさぎの仮面。これ、エレアの白いうさぎの仮面と色違い……もしかして。
「アーロンさん?」
「ふっふふ、あったり~! あーよかった、気づいてくれなかったらどうしようかと思ったよ」
仮面をずらして、アーロンさんはにやりと破顔した。気づかれたのがよっぽど嬉しいのだろうか、上機嫌に声を弾ませている。
「探してたんだけど全然見つからないし諦めてたのに、まさかアイリスちゃんの方から僕を見つけてくれるだなんて嬉しいよ! それともこうなる運命だったのかな!」
「はは……えーと、なんというか、その……」
ダンスはもう疲れたから散歩してただけなんだけど、と言おうかどうか悩んでいると、アーロンさんはぶふっと吹き出した。
「冗談冗談。君も逃げてきたんでしょ? いやー、僕ももうダンスは飽きちゃってさ。いつも踊ってるしたまにはこうやってのんびり年を越すのも悪くないかなあって」
「ほら、僕って飽きっぽいからさ!」とアーロンさんは続けた。うん、まあ確かに辛抱強そうには見えないです。
「あっ、なんかちょっと失礼なこと考えてない? まあいいか。……ところで、会いたいって、誰に?」
あ、やば。さっきの独り言、やっぱ聞こえてたんだ。
「な、なんでもないです、 ただの独り言です」
「……そっか。ごめん、あんまり聞いちゃいけないことだったかな。辛いことを聞いちゃったね……」
と、アーロンさんは急に真面目な顔になると、私の頬に手をあてた。……あ、もしかして、もう死んじゃった人のことを言っているのかと勘違いさせちゃったのかな。
「あっいや、昔よく一緒に星空を見てた人で……ちょっと会うのが難しいってだけで。一生会えないとかそういうわけではないんです」
「……ほんと? そっか、それならよかった」
普段のへらへらした表情とは見違えるほど真剣な顔だったから、余計に申し訳ない。
「ごめんなさい誤解させちゃって」
ゴーン、ゴーン。私の言葉に続いて聞こえてきたのは、アーロンの声ではなく、重苦しい鐘の音だった。ん? あの中央にあった、時計塔かな。
「鐘の音?」
「ああ、次のダンスの曲で、仮面舞踏会がお開きになるんだ」
「えっ、もうそんな時間!? じゃあ、もうそろそろ年が明けるんですねえ。……それはそうと、これ……」
というところまで言うと、言葉を止めた。これ、とは、私の腰へと添えられているアーロンさんの手のことである。ダンスが最後の一曲、そして、この手の位置。えーと、これはもしや……。
「そう、その、もしやだよ。ね、お花摘みはもうとっくのとうに終わったでしょ?」
「う、え、えぇ……まあ」
しまったー! 完全に忘れてた。そういえばさっき断っちゃったんだっけ。しかも、またあとでお付き合いします、って言っちゃったよね私……馬鹿か……。唯一の救いは、他に人がいないから誰かに見られる心配がないってことだ。よかったー、お嬢様方の目線に耐えつつ踊るなんて正直無理です。
「だよね。じゃあ、よろしければ一曲踊っていただけませんか、お姫様」
私の烏の人へのグダグダお誘いとは天と地ほどの差がある、完璧な誘い文句。うう、これはもう断れません。踊りましょう!
「……ええ、喜んで。ただ、その前に……"グリューエント"!"アリエッタ"!」
私たちの回りに、円状に積もっていた雪を溶かした。そして、音楽用語の"そよ風"のように小さな風を吹かせて乾かす。踊りにくいし、なにより足元がびちゃびちゃになるのは、お借りした折角の衣装が台無しだしね。ただ、枯れた木まで燃やしかねないので、本当に小さな円にしておいた。
「おー、さすが巫女様」
ダンスホールが遠いけど、かろうじて音楽が聞こえる。……あれ? この曲、知ってる。というか、普通に有名なクラシック曲だ。今までの曲は全然知らなかったのに。
「この曲知ってるの? 毎年締めくくりはこの曲なんだ。……そうだ、知ってるんだったらさ、ちょっと躍りながら歌ってよ!」
「はい!?」
んんん!? なんで!? そこまで激しくない曲とはいえ、躍りながらとかきつすぎる。魔法なしの私の身体能力を舐めてはいけない。
「前聞いた曲以外にも聴いてみたかったんだよねー。ねっ、いいでしょ?」
う、そこまで言われると断りづらい……。
「く、口ずさむぐらいで勘弁してください」
「わーい! やったね!」
こんな至近距離で顔を合わせて歌うの、恥ずかしいんですけど……。まあいいや、喜んでくれてるし。大人数の前で歌うのと違って、アーロンさんだけだし、気楽にいこう。
ゆっくりと足を踏み出す。ダンスといっても、派手な動きはしない。ただくるくると、エスコートされるままに足を動かした。
『フォイレ ディ ラディソーレ』
花と聞いて真っ先に思い浮かびそうなこの曲。ロマンチックな旋律と、春の暖かさが目に見えるようなメロディーが素敵だ。
『ヴェント ディ フォレスタ』
もともと歌詞のないこの曲だけど、母さんが歌詞をつけて歌ってた。ただ、歌詞の意味はわからない。どこかの国の言葉だろう、ということしかわからない。
『スィングエッティオ ドゥジェーロ』
『イペタリ スレマーロ』
エスコートされているのをいいことに、すっとまぶたを閉じた。冬のきんと冷えた空気に、耳をくすぐるような甘い音色。
『マーレフィオリート ストライヤースィ』
最初は渋ったけど、こんな風に穏やかに踊れるのは、思ったよりも楽しい。ふと見上げると、心地良さそうにアーロンさんが笑いかけてくれた。うっ、やっぱりまだ恥ずかしい。顔面兵器にも程がある!
『インシエーメ エンタルナメント』
ゴーン、ゴーン。また、厳かな鐘の音が響いた。冬のきりりとした寒空に、大晦日の除夜の鐘のような響きがやけに懐かしく感じる。
その鐘の音に促されたかのように、アーロンさんが動きを止めた。つられて、私も動きを止めて目を開けると──目の前に、なにかがひらひらと舞い降りるのが見えた。あれ? 踊ってる最中に、雪でも降り始めたかな? にしては、少し雪が大きいような……?
「アイリスちゃん……これ、なんて魔法なの?」
「え? 魔法なんてかけてないですけど」
「いやいやいや。さすがに、こんな奇跡が起こるわけないでしょ。ほら」
アーロンさんが目を見開いて、空を見上げている。何? 空になにか……うわっ!?
私の目に飛び込んできたのは、一面の淡いピンク色。そして、雪かと勘違いしていたものは、なんと花びら。そう、さっきの枯れた大木たちが、息を吹き替えしたかのように大輪の花を咲かせていたのだ。しかも、これってもしかして……!
「僕、この花が咲いたのは産まれて始めて見たよ。この木、国花のサクラっていうんだけど。ずっと枯れたままで、つぼみすら見たことなかったんだけど」
やっぱり! さっきエレアが言ってた、数本残ってるっていう桜の木だ。それが、まるで春がいきなり訪れたかのように、全て咲いている。
「アイリスちゃん、なんか魔法でもかけた?」
「え、ええ? でも、そんな魔法使ってないし……あ」
もしかして、今の歌? 花の曲だから、枯れた花を咲かせる魔法になったのもまあ、分かる。それに、確かにこんな狂い咲きは魔法としか考えられない。ああ~、皇帝に目立つようなことをするなってあとで怒られそうだ。
地面には雪がまだ積もっているのに、満開の桜。そのちぐはぐな風景が、ぞっとするほどに不気味で、ただただ美しくて──
ゴーン、ゴーン──
「おっと、まずい!」
その光景に目を奪われていると、急にアーロンさんがそう呟くと、手を掴まれた。うわっ、びっくりした。何?
その瞬間、もともと光り輝いていたダンスホールが、より一層キラキラと光った。すると、始まったときのあの風が吹いているのが見えた。その風が止んだかと思うと、夜空に大輪の花──花火が次々と上がった。
「ごめんね、いきなり掴んじゃって。鐘の音が終わったら仮面舞踏会の魔法が全て解けてしまうから、この場にいたければ掴んでおかないとまた元の場所に戻されちゃうんだよね」
ああ、そういえばエレアがそんなこと言ってたなあ。気づけば服装も元通り、和風のドレスに戻っている。
「どんな魔法を使ったかは知らないけど、折角こんなに素敵な光景だからさ。ね、もうちょっと見てたいでしょ?」
でも、足元に積もった、真っ白な雪に、季節を忘れたように狂い咲いた大輪の桜、そして夜空には花火──季節の良いとこ取りをしたような謎の光景をもう少し楽しみたかったのは本当だった。ありがとう、アーロンさん。
「ううん、僕こそこんな景色を見せてもらって嬉しいよ。それと──明けましておめでとう。今年も宜しくね、アイリスちゃん!」
そして、彼はうさぎの仮面をとって、ニッと笑顔を綻ばせた。
桜に、花火に、新年の挨拶に。懐かしい感覚がよみがえってきて、少しだけ、じわりと目頭が熱くなった。
こちらこそ、と新年の挨拶を返して、私も仮面をとる。しゃらんと仮面についた鈴が鳴って、その音が、大輪の桜が咲いた夜空へと吸い込まれていった。
──災害以来咲いたことのなかった桜は、およそ一週間ほど咲いた。その後、ドライシンガー王国で、桜のモチーフの服や雑貨が大流行したのは言うまでもない。




